大判例

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徳島地方裁判所 昭和54年(た)1号 判決 1985年7月09日

冨  士  茂  子 明治四三年五月二二日生

右の者に対する殺人被告事件について、徳島地方裁判所が昭和三一年四月一八日言渡した確定有罪判決に対し、再審の請求があつたので、当裁判所は昭和五五年一二月一三日なされた再審開始決定にもとづき、検察官柴田義二、松田達生、宮下準二、大久保隆志出席のうえ、更に審理を遂げ、次のとおり判決する。

主文

被告人は無罪。

理由

(理由目次)

第一本件公訴事実及び原第一、二審が認定した事実

第二本再審公判に至る経緯

第三本再審公判の課題

第四証拠上明白な客観的事実

第五西野、阿部両名の供述の変遷

第六西野、阿部両名の各公判証言及びこれに沿う供述の信憑性について

一  三枝夫婦の争いを目撃したとの点について

1 公判証言及び公判前の供述

2 現場の明暗度について

3 まとめ

二  電灯線、電話線の切断について

1 争点の所在

2 西野の公判証言

3 西野証言の内在的疑問点

4 公判前の西野供述の変転

5 新開鶴吉及び櫛渕泰次の各証言及び供述について

6 石川幸男の証言及び供述について

7 喜田理の証言及び供述について

8 西野の言動に関するその余の証拠について

9 補修後点灯説の問題点

10 現場写真の検討

11 実況見分調書の記載及び警察官らの供述について

12 電灯が二度消えた原因

13 村上検事による実況見分の結果について

14 補修後点灯説に沿う西野の供述及びその余の証拠

15 まとめ

三  凶器とされる刺身庖丁について

1 西野の公判証言及び公判前の供述

2 刺身庖丁の捜索の結果

3 西野の寝巻の胸に付いた血痕について

4 刺身庖丁が無くなつた事実は認められるか

5 まとめ

四  匕首の入手経路について

1 阿部の公判証言及び公判前の供述

2 篠原澄子の証言及び供述

3 西野の証言及び供述

4 阿部幸市の証言及び供述

5 向井福太郎らの供述

6 まとめ

第七犯行状況に関する客観的証拠と被告人の自白

一  亀三郎の傷について

二  被告人の傷について

三  布団カバー(掛敷共)の血痕について

四  被告人の寝巻の血痕について

五  ポスター及びその付近の血痕について

六  和田警部補の鑑識結果について

七  被告人の自白について

八  懐中電灯について

九  自白の信憑性に関するその余の問題点

一〇  まとめ

第八被告人の犯行動機

一  亀三郎と黒島テル子との関係

二  女鹿八重子の手紙と被告人らの対応

三  入籍問題と被告人の立場

四  犯行による利益

五  まとめ

第九外部犯行説の根拠

一  履物跡の存在

二  工事場の出入口は誰が開けたか

三  不審な男が目撃された事実

四  工事場出入口の板戸の血痕等について

五  被告人が見た外部犯人

六  佳子が見た外部犯人

七  問題点についての検討

八  まとめ

第一補説及び結語

(凡例)

確定判決が言渡された徳島地方裁判所昭和二九年(わ)第三〇二号事件における審理、裁判を原第一審、その控訴審である高松高等裁判所昭和三一年(う)第二三六号事件における審理、裁判を原第二審とそれぞれ称する。

公判調書中の証人の供述部分は、おおむね原第一審第何回公判における某の証言というように表示する。

証人尋問調書についてもこれに準じ、第五次再審請求書(徳島地方裁判所昭和五三年(た)第一号再審請求事件における審理をこのように表示する)における某の証言というように表示する。

徳島検察審査会会議録中の証人の供述記載は、検察審査会における某の供述(何年何月何日)というように表示する。

「三枝方」とあるのは、徳島市八百屋町三丁目八番地所在三枝亀三郎方店舗兼住居を意味する。

昭和の年号は、おおむね省略する。

(添付図面)

説明を補うため、左記の図面を添付する。

(一)  三枝方周辺案内図

(二)  三枝電機店現場見取図

(三)  事件発生直後現場見取図

(四)  亀三郎の創傷図

(五)  被告人の創傷図

第一  本件公訴事実及び原第一、二審が認定した事実

一本件公訴事実は、「被告人は昭和二八年一一月五日午前五時頃、徳島市八百屋町三丁目八番地の自宅四畳半の間に於て、刃物を以て内縁の夫三枝亀三郎の腹部頸部等を突刺し、頸部腹部等九箇所に刺創を与えた結果、間もなく同所で右創傷による多量出血の為死亡せしめ、以て同人を殺害した。」というのである。

二右公訴事実に対し、原第一審が認定した事実の要旨は、「被告人は二回にわたる結婚生活に破れた後、喫茶カフェ「白ばら」を開店して営業中、昭和一七年頃から、ラジオ商を業とした妻子がある三枝亀三郎(以下単に亀三郎という)と親しくなり、昭和一八年一一月、同人との間に女児佳子(かいこ)を儲け、このため亀三郎が妻八重子と不仲となり、昭和二二年頃同女と全く離別するに及んで、被告人が亀三郎の事実上の妻となり、同人と八重子との間の子五人に対しても継母として養育の任に当ると共に、亀三郎の営業を助けて来たが、生来浮気者である亀三郎が昭和二六年頃から黒島テル子と懇ろとなり、ひそかに情を通じているのを察知し、亀三郎に対し深く憤りを抱いていたところ、たまたまラジオの宣伝販売のために業者間で企画された出雲大社への旅行の招待券の分配のことから、黒島テル子を厚遇しようとする亀三郎の真意を推察するや、未だ同人の妻として入籍していない自己の将来を案じ、さきに離別された八重子と同じ運命をたどるという絶望感にとらわれると共に、黒島テル子に対する嫉妬と亀三郎に対する憤懣の情にかられ、この上は同人を殺害するに如かずと決意し、犯行の方法、犯罪後の処置等を周到に考慮した上、昭和二八年一一月五日午前五時頃、当時被告人が亀三郎、佳子と共に居住していた徳島市八百屋町三丁目八番地の営業所奥四畳半の間において、刺身庖丁をふるつて同衾中の亀三郎の頸部、腹部等を突き刺し、よつて間もなくその場で同人を失血死させて殺害した。」というのである。

三右認定にもとづく原第一審判決に対し、被告人は無実を主張して控訴し、検察官も、犯行の主要な動機は亀三郎の財産に対する支配権を握ろうという野心にあり、これと異る認定にもとづき検察官の求刑意見(無期懲役)を斥けた一審の量刑は不当に軽過ぎるとして控訴したが、原第二審判決は、犯行の計画性の点につき、「被告人が犯行直前に眠りからさめて、亀三郎の素行や自己に対する仕打ちを考えるうち、嫉妬の極に達し、更に自己の将来に対する不安も加わり、遂に同人の殺害を決意した。」として消極的な判断をした外は、おおむね原第一審の認定を支持し、判決に影響を及ぼすべき事実の誤認はなく、量刑も相当であるとして、双方の控訴を斥けた。

第二  本再審公判に至る経緯

一被告人は、二九年八月一三日、亀三郎殺害の容疑で徳島地方検察庁検察官に逮捕されたが、全面的に被疑事実を否認し、勾留中の同月二六日及び二七日、一旦犯行を自白したものの、直ちにこれを翻し、同年九月二日、否認のまま徳島地方裁判所に起訴され、公判廷では一貫して無実を訴え、本件は外部から侵入した犯人の犯行であると主張したが、三一年四月一八日、懲役一三年に処するとの有罪判決を言渡された(原第一審判決)。

被告人及び検察官は、共にこれを不服として控訴したが、高松高等裁判所は三二年一一月二一日、各控訴を棄却するとの判決を言渡した(原第二審判決)。

被告人はこれに対し上告したが、三三年五月一二日右上告を取下げたため、原第一審判決が確定した。

その後、後記のとおり、被告人に対する有罪認定のかなめというべき証言を原第一、二審の公判廷でした三枝方の元住込み店員西野清、阿部守良の両名が、外二名の証人と共に、その証言がいずれも偽証であつたとする告白を公にしたことから、被告人は三四年三月二〇日、弁護士津田騰三を代理人として、高松高等裁判所に対し、刑事訴訟法四三五条六号の事由があるとする再審請求(第一次再審請求)をしたが、同裁判所は、委任代理人による再審請求は許されず、仮に記録中の委任状を弁護人選任届と解し得るとしても、前記事由による再審請求は、原第一審の確定判決に対してなすべきであるとの理由で、同年一一月五日右再審請求を不適法として棄却し、これに対する異議申立も三六年八月二九日に棄却された。

その間に被告人は三四年一一月九日徳島地方裁判所に対し、刑事訴訟法四三五条二号及び六号の事由があるとして第二次再審請求をしたが、同裁判所はいずれの事由も認められないとして三五年一二月九日右請求を棄却し、これに対する即時抗告は三六年八月二九日に棄却され、これに対する特別抗告は三七年六月六日に棄却された。

次いで被告人は同年一〇月二三日、徳島地方裁判所に対し、刑事訴訟法四三五条二号、四三七条及び四三五条六号の事由があるとして、第三次再審請求をしたが、同裁判所は、請求理由の一部は既に第二次再審請求事件で斥けられたものと同一であり、その余の理由も法定の再審事由に該当しないとして、三八年三月九日右請求を棄却し、これに対する即時抗告は同年一二月二四日に棄却され、これに対する特別抗告は三九年九月二九日に棄却された。

被告人は四三年一〇月一四日徳島地方裁判所に対し、刑事訴訟法四三五条六号の事由があるとして第四次の再審請求をしたが、四五年七月二〇日、同号の事由があるとはいえないとして棄却され、これに対する即時抗告は四八年五月一一日に棄却され、これに対する特別抗告は同年九月一八日に棄却された。

被告人は五三年一月三一日徳島地方裁判所に対し、刑事訴訟法四三五条六号の事由があるとして第五次の再審請求をしたが、五四年一一月一五日死亡したため、右手続は終了した。

二被告人の姉冨士千代、妹須木久江、弟冨士淳一及び妹郡貞子は、同年一一月八日、被告人が心神喪失の状況にあるとして、刑事訴訟法四三九条一項四号にもとづき、被告人の右再審請求理由と同一の理由による第六次の再審請求を徳島地方裁判所に対してなし、同裁判所は五五年一二月一三日、被告人が無実であることの明らかな証拠が新たに存在するに至つたというに充分であるとして、刑事訴訟法四三五条六号、四四八条一項により再審を開始する旨決定し、これに対し検察官が即時抗告したが、高松高等裁判所は五八年三月一二日右抗告を棄却し、その後刑事訴訟法四三三条二項所定の期間が経過したことにより、右再審開始決定が確定した。

第三  本再審公判の課題

一関係証拠によれば、三枝亀三郎が昭和二八年一一月五日未明に、徳島市八百屋町三丁目八番地所在の店舗兼住居用建物の住居部分である奥四畳半の間において、何者かの手で鋭利な刃物によつて刺され、失血死したことは明らかである。

右犯行と被告人とを結び付ける端的な証拠としては、被告人が検察官に対して犯行を認めた自白が録取されている二九年八月二六日付及び同月二七日付各供述調書と、事件当時三枝方の住込み店員であつた西野清及び阿部守良(以下それぞれ単に西野、阿部という)の原第一、二審における各証言、原第二審で取調べられた右両名の各供述録取書面中、西野の二九年七月二一日以降、阿部の同年八月一〇日以降の検察官及び検察事務官に対する各供述調書並びに刑事訴訟法二二七条による各証人尋問調書があり、その他の有罪認定に資すると思われる証拠は、おおむね右両名の供述の裏付け、被告人に亀三郎殺害の動機があつたことの立証及び本件犯行が外部犯人の仕業ではあり得ないことの立証として、意義が認められるものである。

このうち被告人が亀三郎を殺したという直接証拠は、被告人の右各自白調書であるが、その内容は、犯行の状況を一応具体的に述べてはいるものの、犯人でなければ語り得ないと思われるような、いわゆる秘密に該当する部分を欠いているばかりか、犯行の動機についても全く触れていないものであつて、その証拠価値を重く見ることはできず、結局被告人に対する有罪認定の柱となる証拠は、前記の西野、阿部の各証言・供述に尽きると言つてよいが、右各証言・供述の内容は、極めて被告人に不利なものであつて、これらを信用する限り、被告人の有罪は覆し難いという結論に達せざるを得ない。

右両名の各証言・供述の骨子は、

(イ) 事件当日の朝早く、西野、阿部は犯行現場となつた四畳半の間で、被告人らしい人物と亀三郎らしい人物とが、互いに立ち向い、争つている光景を目にした(西野、阿部の各証言・供述)

(ロ) 亀三郎が殺された直後、被告人は西野に命じて三枝方の電話線及び電灯線を切断させた(西野の証言・供述)

(ハ) 被告人は更に西野に刺身庖丁と思われる刃物を新聞紙にくるんで手渡し、これを捨てるように命じ、西野はこれを両国橋の上から新町川の水中に投げ込んだ(西野の証言・供述)

(ニ) 事件の数日前に阿部が被告人の使いとして暴力団篠原組の関係者から匕首を受取り、被告人に渡したことがあり、事件当日その匕首が犯行現場付近で発見された(阿部の証言・供述)

という四つの点にまとめられる。

原第一、二審判決は、これらの証言・供述の信憑性を認めて被告人の有罪を認定したのであるが、有罪判決の確定後間もなく、西野、阿部両名は共に、原第一、二審における証言は偽証であり、検察官の苛酷な取調に屈して被告人に不利な虚偽の事項を述べたのを公判廷で覆すことが出来ず、そのまま真実であるように証言してしまつたものであるという告白をした。

もつとも阿部が早くから偽証を認め、その後右告白を維持し続けたのに対し、西野は阿部の偽証告白後も、しばらくはこれに同調せず、公判廷では真実を述べたと主張し、また一旦偽証を認めてからも、検察官に対しては再三これを撤回する趣旨の供述をしているが、四一年に被告人が仮出獄した後間もなく、阿部と共に被告人と対面して証言が偽りであつたことを認め、その後は右告白を維持して今日に至つている。

二以上のことから明らかな如く、本件の結論は、西野、阿部両名が原第一、二審で証言した前記(イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ)の各事実が、右両名のその後の偽証告白にかかわらず、依然として真実と認められるか否かにかかつている。

その判断に当つては、右両名の供述が事件発生直後の警察による捜査の段階から公判証言を経て偽証告白に至るまで再三再四変化して行つた経緯を出来る限り解明すると共に、公判証言を裏付け、あるいはこれを動揺させる関連証拠の存否、強弱についてつぶさに検討し、特に電灯線切断の時期との関連における外部犯行の可能性の有無、被告人と篠原組との関係の裏付け、被告人の犯行動機の解明、外部犯人を目撃したという被告人及び佳子の各供述の信憑性、外部犯人の存在を認め得る証跡などの点を重視すべきであると考える。

第四  証拠上明白な客観的事実

争点に対する判断の前提として、証拠上疑問の余地がない客観的事実(事件後の捜査経過を含む)を、以下にまとめて記載する(なお添付図面(一)ないし(三)参照)。

一三枝亀三郎(明治三六年二月八日生)は、徳島市大道四丁目三番地の三で、ラジオの販売及び修理業を営んでいたもの、被告人は前後二回にわたり結婚したが、いずれも内縁の段階で夫と離別するに至り、その後徳島市幸町で喫茶カフェ「白ばら」を経営していたものであるが、亀三郎は右「白ばら」に客として出入りするうち被告人と親しくなり、昭和一八年一一月一一日、二人の間に佳子が生まれた。この頃から亀三郎は妻八重子と不和を生じて別居するに至り、亀三郎と被告人が事実上の夫婦となり、八重子が亀三郎のもとに残して行つた子らの養育にも被告人が当るようになつた。

亀三郎は二二年一二月一八日、八重子と協議離婚したのち、二六年四月以降、徳島市八百屋町三丁目八番地に店を新設し、三枝電機駅前営業所の看板を掲げ、被告人及び佳子と共に、同所の店舗兼住居用建物(以下単に母屋ともいう)の奥(南西部分)四畳半の間で寝起きし、八重子との間に生まれた長女登志子、二女満智子、長男皎、二男紀之の四人は、住込みの女中を付けて、大道四丁目の家に住まわせていた(八重子との間の末子である三女裕子は、亀三郎の兄三枝高義方で養育されていた)。

八百屋町の店には亀三郎夫婦と佳子のほかに住込みの店員がいて、母屋の南側にあるバラック小屋(以下単に小屋ともいう)で寝起きしていた。本件殺人事件発生当時には、西野清(昭和一一年一一月七日生)と阿部守良(昭和一二年八月一四日生)の二人が店員として雇われていた。

三枝電機の営業は順調で、亀三郎は知人の田中順次と協力して、新たにテレビ受像機の販売を目的とする会社を設立しようと企て、母屋の西側に隣接する土地を買い取り、その地上に「テレビ徳島」の看板を掲げた鉄筋コンクリート造り三階建の建物を新築し始めていた。

三枝方母屋は国鉄徳島駅から南方の新町橋に至る元町通りのほぼ中央にある元町ロータリー十字路より東に通じる八百屋町通りの南側に面し、ロータリーの曲り角から約三〇メートル東方に位置する間口四・七八メートル(約二間半)、奥行一二・七四メートル(約七間)の細長い木造枌葺平家建家屋であり、そのうち通りに面した北側出入口から奥行五間までの部分は店舗として使用され、その南側が居住用部分であつて、西寄りに東西、南北各一間半の四畳半の間があり、東寄りに東西、南北各一間の玄関に当る部分があつて、玄関東側にガラス戸二枚を入れた出入口があつたが、東隣りの新開時計店との仕切りの板塀に密着しているため、実際の出入りはできなくなつていた。

玄関部分の南には東西、南北各一間の板敷の炊事場があり、母屋全体の東南隅を占めていた。四畳半の南側には、母屋の西南隅に当る部分に東西、南北各半間の便所があり、便所と炊事場の間に東西一間、南北半間の板張りの廊下があり、廊下と四畳半との間は障子で仕切つてあり、廊下の南側にはガラス戸二枚が引違いに入れてあり、裏への出入口となつていた。

廊下から南に約一・二メートル離れて、南北の間口約一間半、東西の奥行二間の西面するバラック小屋があり、西野、阿部はこの中で寝起きしていた。小屋の西側は母屋の西側の壁を南に延長した線上にあり、小屋の東側と東隣りの新開方との境界の板囲いとの間は、約一メートル離れていた。

新築中の「テレビ徳島」の建物(以下単に新館という)は、母屋の西側にわずか四八センチを隔てて接し、東西の間口七・五二メートル、南北の奥行一三・三メートルを占め、その南側は母屋よりも約五〇センチ南に出ていた。本件殺人事件発生当時、新館はまた外部が出来ただけで、その周囲には工事用の足場が組んであつた。新館の南側から〇・九メートル隔てて、トタン葺バラック建の道具小屋があり、これと東側の西野、阿部の小屋とは一・八メートル隔たり、その中間に水道管の設備があつた。

二昭和二八年一一月五日午前五時一〇分過ぎ頃、西野、阿部は被告人の叫び声を耳にして四畳半の間に行き、亀三郎が暗がりの中で血まみれで倒れているのを認めた。屋内の電灯は消えていた。この時被告人は阿部を通じて南隣りの田中佐吉方に頼み、同家の電話で徳島市警察署に盗賊が侵入したと通報してもらつた。次に被告人は懐中電灯をつけて西野、阿部に店の出入口の所を開けさせ、阿部に命じて自転車で徳島市寺島本町の市民病院へ医師を迎えに行かせた。

次いで西野も被告人の言い付けで大道の家へ自転車で使いに走り、その途中で午前五時二五分頃徳島市警察署両国橋派出所に立ち寄り、三枝電機に盗賊が入つたからすぐ来てくれと告げた。同派出所には既に午前五時二〇分頃、本署から電話で同様の通報があり、司法巡査武内一孝、同森本恒男の両名が現場におもむくべく身支度にかかつていたところで、まず武内巡査が同三〇分少し前に三枝方に到着し、森本巡査も同三〇分頃に到着した。屋内の電灯は消えたままで、武内は手探りしながら中に入つた。

被告人は武内に対し、賊が南側の廊下から侵入して亀三郎と格闘し、同人を刺して逃げ、その際電灯がつかず、電話も通じなくなつていたと告げ、犯人は三枝方の元店員米田某に違いないと申し立て、犯人が置いて行つたという懐中電灯一本を提出した。

亀三郎は鋭利な刃物で、頸、胸、腹に合計九箇所の刺創を負わされ、既に失血死していた。間もなく近所の斎藤病院の医師蔵田和巳が、田中佐吉の急報に応じて到着し、亀三郎の死亡を確認した。阿部が呼びに行つた市民病院の医師尾木伝六は蔵田医師より一足遅れて来た。

被告人自身も左季肋部に鋭利な刃物で刺されたと認められる刺創を受けていることが蔵田医師により発見され、間もなく斎藤病院に入院した。

三枝方の電灯線及び電話線は、共に母屋の屋根の上の引込口付近で切断されていた。犯人の遺留品と覚しき物としては、被告人が武内巡査に提出した懐中電灯一本のほかに、かすかに血痕をとどめている匕首が新館の南東隅近くの地上に刃先を上に向けて立て、新館の壁にもたせかけてあるのが発見されたが、血痕の血液型は検出されなかつた。

被告人の供述にもとづき、直ちに容疑者として三枝方に以前勤めていた米田明實が取調べられたが、アリバイが成立して疑いを免れた。

三その後、徳島警察署(以下単に市警または徳島市警ともいう)の捜査の結果、前記匕首の素人造りと思われる特徴から、当時傷害罪で服役していた佐野辰夫が古い日本刀の刀身を材料にしてこれを作り、二八年四月前後に知人の高木義貴の内妻児玉フジ子を介して、その頃徳島駅西の通称新天地でヒロポンの密買をしていた暴力団篠原組(組長篠原保政)の者に、ヒロポン代金のかたとして米穀通帳と共に預けたことが判明した。徳島市警は右匕首の行方をたどつて亀三郎殺しの犯人を追及し、容疑者として中越明及び川口算男の二名を検挙したが、検察官は起訴状原案作成の段階に至つて証拠検討の結果右両名の有罪を確証出来ないとして、同人らの起訴を見合わせた。

第五  西野、阿部両名の供述の変遷

一前記の川口算男らに対する容疑が証拠不十分とされた後、徳島地方検察庁は検察官村上善美、同藤掛義孝を担当検事として、内部犯行の疑いに焦点を絞つた独自の捜査を開始し、二九年七月初旬以降、西野、阿部両名に対する集中的な取調を行つた。

その結果、西野は同月五日、阿部は同月六日に、いずれも村上検事に対し、事件当時の被告人の素振りから、被告人が亀三郎を殺した犯人ではないかと直感し、恐怖に襲われた旨を述べた。

当時阿部はまだ三枝電機店に勤めていたが、西野は同年三月一日限りで店をやめ、別の職についていた。

同年七月二一日、西野が村上検事に対し、事件発生直後被告人に頼まれて母屋の屋根に上がり、電話線と電灯線を切断したことを自供し、同日午後九時四五分に、電気及びガスに関する臨時措置に関する法律(公益事業令)違反及び有線電気通信法違反の容疑で逮捕され、引続き勾留され、最初の勾留期間満了後、更に一〇日間これを延長された。

延長された勾留期間が満了する前日である同年八月一〇日に至り、西野は藤掛検事に対し、「これまで申し上げたことについて、ただ一つ隠し立てをしていたことがある。」として、事件当日の朝、母屋の四畳半の方でドタンバタンと物音がするのに目がさめ、阿部と二人で小屋を出て座敷の中をのぞき込み、亀三郎と被告人とが互いに向い合つて立ち、腕を組み合つて前後左右に動いているのを見た旨の供述をした。

阿部も同日藤掛検事に対し、これと符合する供述をし、その直後である同月一一日午前零時一五分に、同人が事件当日の午前六時三〇分頃、三枝方において、当時同人が発見し、警察官に届け出た匕首を自ら所持していたという嫌疑により、これを裏付ける何らの証拠もなかつたのに、銃砲刀剣類等所持取締令違反の被疑事実にもとづく逮捕状により逮捕された。

右逮捕状の請求書には、被疑事実を認むべき資料として、西野の警察官に対する供述調書と事件当日司法警察員が作成した実況見分調書のみが挙げられていたが、当時までに作成された西野の検察官調書には、「阿部をよく調べれば匕首の入手先も判るのではないかと思います。」(湯川和夫検事に対する二九年八月二日付供述調書)という、全く抽象的な臆測を述べた部分はあるものの、前記被疑事実に結び付けられるような具体的供述は全然見当らず、実況見分調書中には匕首が発見された状況の記載があるだけで、右各資料からは前記被疑事実の存在をうかがうべきいかなる根拠も見出せないことが明白で、かつ当時検察官の手中にあつた武内一孝の村上検事に対する二九年七月二八日付供述調書によれば、阿部はこの匕首を発見したことを直ちに武内巡査らに知らせ、その後は同巡査が西本巡査部長の指示により、発見されたままの状態にある匕首の見張りに当つたことが認められ、阿部が逮捕状の被疑事実記載の日時場所において右匕首を所持していたとするのは、全くの見込みに過ぎないものであつた。しかし右逮捕状の請求及びこれに続く勾留請求はいずれも認容され、更に勾留延長の請求も認められて、阿部も西野同様合計二〇日間勾留された。(もとより阿部は逮捕後の弁解録取及び勾留質問手続において被疑事実を否認している。なお弁解録取書には、「私はその日匕首を奥さんに頼まれたりして手にしたことは全くありません。匕首については何も知りません。」との記載があり、検察官が阿部に対して被告人と共謀の上匕首を所持していたとの見込みを立てていたことがうかがわれる。)

次いで八月一三日に被告人が亀三郎殺害の被疑者として逮捕され、引続き勾留された。

西野は勾留期間満了後、徳島家庭裁判所の観護措置決定及び同更新決定により徳島少年鑑別所に収容されて、依然拘束状態に置かれたまま検察官の取調を受け、その間である同月一八日に藤掛検事に対し、「今一つ大事なことを隠していた。」として、大道へ使いに行く前に被告人から新聞紙でくるんだ長い物を渡され、これをどこかに捨てて来てくれと頼まれ、受け取つてからそれが刃物だと判つて、大道へ行く途中で両国橋の上からそれを新町川に投げ込んだことを述べた。

阿部は勾留中の八月二一日に藤掛検事に対し、昨年の九月頃、藍場町の暴力団森会へ修理が済んだ電気あんま器を届けに行つた時、若い男に新聞紙に包んだ匕首と判る物を渡され、これを被告人に渡してくれと頼まれて持ち帰り、被告人に渡したことがあり、事件当日に見つかつた匕首はこの時自分が持ち帰つたものではないかと当時考えた旨を述べたが、翌二二日には同検事に対し、「森会で匕首を受取つたと言つたのは嘘で、実は昨年の一〇月末頃被告人の言い付けで新天地の篠原という家に行き、三枝から来ましたと告げたところ、三〇歳位の女がハトロン紙に包んだ長さ一尺足らずの物を手渡してくれ、これを被告人に渡すように言つたので、そのとおりにした。その日の夕方同じ包みが台所の棚においてあつたので、こつそり開いてみたところ匕首が入つていた。」との供述をした。阿部の右供述によつて被告人と犯人の遺留品と見られていた前記匕首とのつながりが出来ることになつた。

被告人は八月二六日及び二七日の二回にわたり村上検事に対し亀三郎殺害の被疑事実を認める自白をし、その後これを翻したが、九月二日殺人罪で起訴された。

西野は同月三日、四五日間にわたる身柄拘束ののち、徳島家庭裁判所の少年審判で保護観察処分に付するとの決定を受け、ようやく釈放された。

阿部に対しても勾留期間満了後、観護措置決定がなされたが、同人は同月六日の少年審判で不処分の決定を受け、二七日間の身柄拘束から解放された。

二右のとおり、西野、阿部両名は、いずれも長期間の身柄拘束を伴う取調の結果、それぞれ被告人の有罪を裏付ける事実を各自の体験した事実として述べるに至り、原第一、二審公判においても、おおむね同様な趣旨の証言をした。

然るに三三年五月一二日被告人の上告取下により原第一審判決が確定したが、その頃、静岡県下で山本光男と自称する男(本名松山光徳)が、本件殺人事件の真犯人である旨申し立てて警察に名のり出た。右山本こと松山の中し立ては全くの作り話であつて、同人が後に語つたところによれば、被告人が無実であると信じ、身代りになろうとしたというのであるが、このことの新聞報道がきつかけとなつて被告人の姪の夫に当る渡辺倍夫が弁護士津田騰三らと共に阿部に再三面会を求め、証言内容の真偽について問いただした結果、同年七月八日、阿部は渡辺らと名西郡神山町の桜屋旅館で対談し、公判証言は偽りであつたと告白して、「真実を述べる」との書出しで始まる便箋七枚に及ぶ手記を渡辺らに手渡した。同日、阿部の兄阿部幸市も、原第一審で、「事件後、弟の守良から、篠原組から庖丁を預つて来たことや、事件の日の朝、三枝夫婦が喧嘩しているのを見たことを聞いた。」と証言したのは、偽証であつた旨告白した。渡辺はこれに先立ち同月四日に石川幸男と会い、同人から、西野が電線を切つたことを同人にもらした旨証言したのは、検察官に迎合して偽証したものであるとの告白を得ていた。

渡辺はこれらの結果にもとづき、同年七、八月中に、法務省人権擁護局、徳島地方法務局に対し調査を求める申立をし、それらの機関による調査が開始された。

西野はその頃大阪に行つていたが、同年八月末徳島に帰り、阿部が偽証を告白したことを知つた。西野ははじめ新聞記者らの質問に対し、公判で証言したことが正しいと主張して、偽証の事実を否定し、徳島地方法務局の調査に対しても同様に述べていたが、同年一〇月九日に至つて同法務局人権擁護課長安友竹一に対し、初めて公判での証言が偽りであつたことを認めた。そこで被告人は西野、阿部両名を偽証罪で告訴し、右両名は同年一一月中にそれぞれ徳島東警察署に出頭して、偽証罪を犯したので自首すると申し立てた。

右偽証被疑事件における徳島地方検察庁の取調に対し、阿部は担当検事の鋭い追及にもかかわらず、偽証告白を維持し続けたが、西野は検察官に対しては偽証告白を撤回して公判証言が正しいと認めながら、同じ時期に行われた日本弁護士連合会人権擁護委員会徳島事件調査特別委員会による一連の事情聴取に対しては、公判証言は偽証であり、検察官に対して右告白を撤回しているのは、長時間にわたる執拗な取調に屈して、不本意ながら検察官に迎合した結果であると述べるという、分裂した対応を示し、その後徳島検察審査会の審査手続においても、阿部と共に公判証言を否定する供述をした。

三五年七月、第二次再審請求審において、西野、阿部両名は、それぞれ公判証言が偽証であつたとの証言をした。右再審請求が棄却されたのみ、西野、阿部両名は再び偽証罪の被疑者として検察官の取調を受け、徳島検察審査会でも尋問されたが、阿部が一貫して公判証言は偽証であつたとの供述を変えなかつたのに対し、西野は検察官に対しては、一回公判証言を否定しかけたことがあるだけで、結局は取調の都度、公判証言は正しく、偽証告白は周囲の圧力や脅迫めいた投書などの影響で、不本意ながらしたものであるとの趣旨を述べる一方、検察審査会では、公判証言はすべて偽証であり、父が信仰している御嶽さんから、事実を言わぬと家族一同が災難を受けるというお告げがあつたので、偽証告白を決意したのであつて、渡辺倍夫らの影響を受けたためではないと述べる(右供述についても、後に検察官に対して、住居地の大阪から度々呼び出されるのが苦痛で、偽証を認めさえすれば、もう呼び出されずに済むと思つた旨の弁解をしている)という対応を繰り返した。しかし四二年二月二日に至つて、西野、阿部両名が前年に仮出獄した被告人と大阪市内の高砂旅館で対面し、公判証言が偽証であつたことを認め合つたのちは、両名共に第四次、第五次再審請求審において、右告白を維持し続けた。

右のとおり、西野の供述は三転、四転している上に、公判証言を心ならずも翻した事情として検察官に述べているところにも、相当に具体的で納得出来る点があり、一方公判証言が偽証であるとする供述中には、後記のとおり客観的証拠とくいちがう点があることなど、同人の偽証告白については、かなりの疑問点が指摘されるのであるが、阿部の偽証告白は一貫しており、その面では格別の疑問点は見当らない。

第六  西野、阿部両名の各公判証言及びこれに沿う供述の信憑性について

西野、阿部両名に対する検察官の取調は、前記の経過によつて明らかなとおり、右両名の年齢、性行、経歴、境遇と右両名に対する被疑事実の罪状、罪質とを対比すれば、著しく苛酷と言わざるを得ない手段によつていたのみならず、阿部に対する強制捜査に至つては、到底是認の余地がないものであつた。

右両名の公判証言はかかる取調の結果得られた供述にもとづくものであり、かつ両名共に結局これを偽証として覆しているのであるから、その信憑性の判断に際しては、特に慎重ならざるを得ないことは言うまでもないが、以下においては右のような一般的背景事情はしばらく考慮の外におき、右両名が述べた内容を、それ自体の合理性の有無と従前の供述との対比に重点をおいて、前記第三の一記載の(イ)ないし(ニ)の各点に分け、順次検討する。

一 三枝夫婦の争いを目撃したとの点について

1 公判証言及び公判前の供述

(一) この点に関する西野、阿部両名の各公判証言の要旨は、次のとおりである。

亀三郎が殺された当日である二八年一一月五日の午前五時過ぎ頃、西野、阿部両名は四畳半の方から聞こえてくるドタンバタンという物音を耳にして、ほぼ同時に眠りからさめ、小屋の北側の壁板の隙間から四畳半の方をのぞいたが、何も見えなかつたので、小屋の南側の窓を開けて外に出、西側からまわつて廊下の南側からのぞくと、座敷と廊下との間の二枚の障子と廊下南側の二枚のガラス戸は、共に東側に寄せてあり(すなわち西側が開放され)、四畳半の間の中央付近に亀三郎と同様な背丈の人が西南に向つて立ち、これに向い合つて被告人と同様な背丈の人が西野、阿部に背を向けて立ち、互いにもみ合うように動いているさまが、暗がりの中にうす白く、ぼんやりと見えた。二分位して両者の姿は四畳半の西北隅にある押入の方に移動し、廊下の西の便所のかげに入つて見えなくなつたので、西野、阿部は亀三郎と被告人が夫婦喧嘩をしていたものと思い、小屋の中に戻つた。

(二) 右両名の公判証言中、以上のように要約される部分は、次に掲げるとおりである。

(1) 西野の証言

(イ) 原第一審第二回公判

村上検事

その翌日証人はどんなことで目がさめたか。

物音で目がさめました。

どこの物音か。

四畳半の間から聞こえたように思います。

バタンバタンという物音でした。

その時目をさましたのは証人だけか。

私が目をさまし横を向くと阿部も目をさましていました。

証人は目をさましてからどうしたか。

私は目をさましてから物音を大将と奥さんの夫婦喧嘩だと思い小屋の節穴からのぞいて見ました。しかし、よく見えなかつたので小屋から外へ出て行きました。

藤掛検事

小屋には四畳半の間が見通せる節穴があるのか。

あります。

阿部も一緒にのぞいたのか。

そうです。

節穴からのぞいた時何か見えたか。

ただ暗いだけで何も見えませんでした。

その節穴からのぞくと四畳半の間全体が見えるのか。

全部ではなく右半分位が見えます。しかしその時には何も見えなかつたのか。

そうです。

証人は節穴から何分位のぞいていたか。

二、三分のぞいていましたが見えないのでやめました。

のぞいている間も物音はしていたか。

バタンバタンいつていました。

人声は聞こえなかつたか。

聞こえませんでした。

それから証人らはどうしたか。

私と阿部は小屋の南側の窓から外へ出て行きました。

何のために出て行つたのか。

あまりバタンバタンというので、どうしたのかと思つて出て行つたのです。

外へ出てからどうしたか。

水道の横を通り便所のそばまで行きました。

その時の外部の明るさはどの程度であつたか。

一間半位の距離にいる人なら判る程度でした。

もう夜が明けかけていたのか。

明けかけていたように思いますが、はつきりしません。

便所のそばまで行つてからどうしたか。

便所のそばで小屋にもたれ、阿部と並んで見ました。

何が見えたか。

四畳半の間の中に向うからこちらを向いて一人が立ち、それに向い合つてもう一人が立つている人間の恰好が見えました。

その人の恰好は、はつきり見えたか。

はつきりとは見えませんでした。

その人の服装はどうであつたか。

はつきり判りませんでした。

服装は黒かつたか白かつたか。

白かつたように思いますが、はつきりしません。

向い合つて立つている二人のうちどちらが背が高かつたか。

こちらを向いている人の方が高かつたと思います。

その人は方角にするとどちらを向いていたのか。

南西の方に向いていました。

その人が立つていたのは四畳半の間のどの辺か。

ちようど真中辺であります。

その人に向き合つていた人の背はどうか。

向い合つている人より大分低いように思いました。

背の高い人は誰だと思つたか。

大将だと思いました。

なぜ大将だと思つたか。

背恰好も似ていたし、こんな所によその人が入つて来るはずはないと思いました。

その人の顔形が見えたか。

はつきり見えませんでした。

その人に向い合つている人は誰だと思つたか。

奥さんだと思いました。

なぜそう思つたか。

背恰好から見てそう思いました。

その人の頭髪が見えたか。

充分見えませんでした。

証人らはそこで何分位立つて見ていたか。

約二分間位です。

その間二人の人は向い合つて立つていただけか。

そうではなく組み合つてもみ合つていました。そして動いて便所の蔭に入り見えなくなりました。

その二人以外に部屋の中には誰も見えなかつたか。

誰も見えませんでした。

証人らが見ている間に人声は聞こえなかつたか。

聞こえませんでした。

足音はどうか。

足音は聞こえました。

二人は相当激しくもみ合つていたか。

足音が大分ひどかつたから激しくもみ合つていたと思います。

証人が見ている時裏のガラス戸はどうなつていたか。

東側に一杯開いておりました。

廊下と四畳半との間の障子はどうか。

それも東側に一杯に開いておりました。

すると証人が四畳半の間の中を見たのはガラス越しにではなく直接であつたわけか。

そうです。

二人の姿が見えなくなつてからどうしたか。

南側の窓から小屋へ帰りました。

(ロ) 原第一審第一一回公判

松山弁護人

小屋で暫くラジオを聞いてのち寝てからどうしたか。

私は眠つておりますと、ドタンバタンという音がして目がさめました。

その物音は戸を叩くような音ではなかつたか。

そんな音ではありません。

では戸をがたがた揺るような音ではなかつたか。

そんな音でもありません。その音は人間が板とか畳の上を強く歩いた時に出るような音でした。

証人は、その音を畳の上を歩く音と思つたか、板の上を歩く音と思つたか、または他の何かの上を歩く物音だと思つたか。

それは見えないので、はつきりしません。

証人は、その音を聞いてからどうしたか。

私は起きて何かと思つて、小屋の北側の板壁の節穴から、四畳半の間の方をのぞいて見ましたが、何も見えませんでした。

(中 略)

証人はのぞいても何も見えなかつたので、今度は南側の窓から外へ出たのか。

そうです。

証人が節穴からのぞいた時、阿部も一緒にのぞいたか。

どうか、はつきり覚えていません。

証人は南側の窓から外へ出る時、阿部に何か声をかけたか。

声はかけませんでした。

阿部も何も言わなかつたか。

何も言いませんでした。

南側の窓からは誰が先に出たか。

私が先であつたと思います。

南側の窓のガラス戸はすぐ開いたか。

多少がたがたいいましたが、すぐ開きました。

証人はなぜ出入口でない南側の窓から出たのか。

見に行くのに気づかれぬようにと思つて南側から出たのです。

誰に気づかれぬようにと思つたのか。

奥さんと大将にです。

阿部も一緒に南側の窓から出て行つたのか。

一緒でした。

その時、寝巻のまま、はだしで出たのか。

そうです。

急いで出て行つたのか。

ゆつくり出て行きました。

南側の窓から外へ出てどうしたか。

小屋に沿つて歩いて、小屋の西側の出入口の前にある水道のそばを通り、四畳半の間と小屋の間の通路を通り、便所の真裏まで行つて四畳半の間を見ました。

何が見えたか。

その時には、白いものが四畳半の間の中にある位しか見えませんでした。

すると、その時、ガラス戸とか障子は開いていたのか。

開いていました。

前夜、証人らが閉めたと思う障子とかガラス戸が開いていることについて、証人はおかしいと思わなかつたか。

別に何も考えませんでした。

四畳半の間の中に白いものが見えてからどうしたか。

私にはその白いものが不断大将や奥さんの着ている寝巻のように思えました。

なぜそう思つたのか。

私はそう思つたのです。

その白いものは動いていたか。

動いていました。

証人はその白いものを人だと思つたのか。

人だと思いました。

何人だと思つたか。

奥さんと大将の二人だと思いました。

二人の人影がはつきり見えたのか。

はつきりは見えません。しかし四畳半には奥さんと大将が寝ているので、私はその白いものを奥さんと大将だと思つたのです。

証人は前にこんな時刻に外から人が入つて来るとは思えないので、大将と奥さんだと思つたと述べているが、そのとおりか。

そのとおりです。

証人はなぜ人が外から入つて来ないと思つたのか。

こんなに早く人は来ないと思つたのです。

泥棒が入つているとは思わなかつたか。

そうは考えませんでした。

四畳半の間の中に見えた白いものが大将と奥さんだと思つた理由は今言つた以外にはないか。

現在記憶しているのはそれだけです。

証人の見た白いものが二人だという区別がはつきりついたか。

白いものが二つ離れておりました。

証人は前にその白いものは向き合つており、一方は高く一方は低かつたと述べているが、向い合つていたとすれば証人の見た位置からでは二つの白いものはひつついて見え、高いとか低いとかという区別はつかないのではないか。

白いものが二つ斜めに離れて向い合つていたのを左の方から私が見たと記憶します。

裁判長

背が高いとか低いとかということが見えたか。

高いとか低いとかということまでははつきりしませんでした。

松山弁護人

二つの白いものが離れた時にも高いとか低いという区別がはつきりしなかつたのか。

私が見た時に二つの白いものに高い低いの差があつたようにも思いますが、はつきりしません。

証人はそれを見てどう思つたか。

また夫婦喧嘩をしていると思いました。

部屋の障子とかガラス戸を開け放して喧嘩していることについて、証人はおかしいとは思わなかつたか。

別に何とも思いませんでした。

証人は四畳半の間の中を二分間も見ていたというが、その間二つの白いものは声を出さなかつたか。

出していませんでした。

(ハ) 原第一審第一二回公判

藤掛検事

この事件のあつた朝証人と阿部が四畳半の間の内部をのぞいた時白いものが二つ見えたというのは間違いないか。

間違いありません。

白いものが二つだということはなぜ判つたか。

白いものが二つに離れており、多少高低もあつたので、二つということが判りました。

その白いものは前後左右に激しく動いていなかつたか。

動いていました。

それはゆつくり動いていたか、激しく動いていたか。

ちよつと見ただけですからはつきり判りませんでしたが、相当激しく動いていました。

証人はその白いもの二つを何と思つたか。

奥さんと大将だと思いました。

なぜそう思つたか。

白く見えたものが二つとも寝巻だと思つたからです。

それ以外に白いものの高さとか恰好から見て、被告人と亀三郎だと考えたのではないか。

白いものに高低のあることは判りましたが恰好までは判りませんでした。

(中 略)

松山弁護人

証人は四畳半の間で二つの白いものが激しく動くのを見たか。

ちよつとの間見ただけでありますが、大分あつちこつち動いていたので激しく動いていたといえると思います。

あつちこつち動いていたというと相当広範囲に動いていたのか。

白いものがふわふわと前後左右に動いていた程度でした。

白いもの全体が動いていたのか、又は白いものの或る部分だけが揺れていたのか。

白いもの全体が前後左右に動いていました。

(ニ) 原第二審第三回公判

岡林弁護人

小屋の北側の西北隅から見て四畳半の中が見えましたか。

それは見えました。

どこまで見えましたか。

どこまでつて暗くて向うの端までは見えませんでしたが、何か白つぽい感じのものが見えました。

もう少し見えたものをはつきり言つて下さい。

私はその程度のものしか覚えていません。

白つぽい感じのものは何個位ありましたか。

二つぐらいあつたように思います。

顔とか頭とかいつたものは見えませんでしたか。

顔は見えなかつたと思います。

どの位の時間見ていましたか。

一分か二分位でなかつたかと思います。

その見ている間に四畳半で何か声はしなかつたですか。

声はなかつたように思います。

足音はどうですか。

覚えていません。

そこで見ていて誰が何をしていると思つたですか。

奥さんと大将が喧嘩をしよるんかいなあと思いました。

声がないのを変に思わなかつたですか。

別に変にも思いませんでした。

時刻が夜明けに近いのに、そんな喧嘩をするのを変に思わなかつたか。

いつやるか判らんので変には思いませんでした。

(2) 阿部の証言

(イ) 原第一審第二回公判

村上検事

証人は昭和二八年一一月五日の朝三枝亀三郎が殺されたことを知つているか。

私は主人が倒れているのを見て知つております。

どんなことからそれを見たのか。

その日私と西野は小屋で寝ていましたが、バタンバタンという物音に目をさまし、それから四畳半の間を通る時に主人が倒れているのを見ました。

藤掛検事

バタンバタンというのは、どんな音か。

何か暴れているような相当大きな音でした。その音で私と西野は目をさましたのです。

(中 略)

証人は目をさましてのち、西野とは話はしなかつたか。

目をさますと西野が、どしたんぞと言いながら南側の窓から外へ出ましたので、私も後から出て行きました。そして西側の出入口の前を通り四畳半の間と小屋との間の通路の所まで出て行き、西の方から四畳半の間の方をのぞきました。

(中 略)

四畳半の間の戸などはどうなつているのか。

廊下の南側は透明ガラスの戸が入つており、廊下と四畳半の間との間は障子が入つておりますが、私らがのぞいた時には、それが両方とも東の方へ一杯に開いていました。

証人らがそのようにして見に行つた時の外の明るさはどうであつたか。

一間位離れても立つている人が誰であるか判る程度でした。

部屋の中の明るさはどうであつたか。

外より大分暗かつたようですが、人影は判りました。

四畳半の間に中には人影が見えたか。

私が見た時部屋の中にこちらを向いて主人が立ち、それに対し寝巻を着ているので奥さんと思われる人が向き合つて立つていました。その外には人影はありませんでした。

向き合つて立つていたのは部屋のどの辺か。

部屋の真中より少し東寄りの所でした。

立つている姿が全部見えたか。

全部見えました。

どんな着物を着ていたか。

こちら側の人は白つぽいように見える寝巻を着ていました。

部屋の中に立つている人の顔形が見えたか。

こちら側に向いている背の高い人は顔形で主人だと思いました。

それに対している人は誰だと思つたか。

前の人より背が大分低く白つぽい寝巻を着ていましたが、私は奥さんだと思いました。

証人が見ていた位置と部屋の中で二人が立つていた位置との距離はどの位か。

一間位でした。

その二人はずつと立つていただけか。

立つていただけでなく、二人はもじかいながら少し動いていました。

証人らはどの位の間見ていたのか。

一、二分間見ていました。

どうして見るのをやめたのか。

私は主人が夫婦喧嘩をしているのだと思つたので見るのをやめて小屋へ帰り寝かけました。

(ロ) 原第一審第一二回公判

松山弁護人

何が見えたか。

白いものが二つ重なつて動いているのが見えました。

その二つの白いものには高低があつたか。

少し高低がありました。

その二つの白いものは相当激しく動いていたか。

激しいという程は動いていませんでした。

声は出していなかつたか。

何も言つていませんでした。

ドタンバタンという物音はどうか。

それもしていませんでした。

二つの白い物は静かに動いていたのか。

動いているのが判る程度に動いていました。

(中 略)

藤掛検事

証人や西野は店にいる時亀三郎や被告人に起されずに朝起きていたか。

いつも主人に起されていました。

それに事件のあつた朝は四畳半の間のドタンバタンという音で目がさめたのか。

そうです。

証人らが四畳半の間をのぞきに行き室内に白いものが動いているのを見た時にはドタンバタンという音が聞こえていたか。

私が目をさました時にはドタンバタンという音はそんなに大きな音ではありませんでしたし、私らが四畳半の間をのぞいていた時にはドタンバタンという音はしていませんでした。

全然物音はしていなかつたのか。

全然音がしていないというのではありませんが、あまり聞こえませんでした。

(中 略)

白いものが見えなくなる前にドタンバタンという音はしなかつたか。

聞こえませんでした。

(ハ) 原第二審第八回公判

岡林弁護人

二八年一一月五日の朝、実際に二人であるということは見えたのですか。

見えたと思います。

その二人が亀三郎と茂子だということは判りましたか。

……(沈黙)判りません。

この四畳半で争つているのを見たということは八月一一日まで言つていないが、なぜもう少し早く言わなかつたのですか。

どうして言わなかつたのか判りません。

それまでに一一回も調書を取られているのに、なぜそのことを言わなかつたのですか。

(答えない)

八月三日までの調書には四畳半の部屋の中を見る機会があつたことさえも言つていないが、それまでになぜそのことを言わなかつたのか。本当に見ていたのであればそれまでに言つていると思われるのですが。

今は判りません。

西野、阿部両名は公判廷で右のように証言しているほか、二九年一二月五日午前四時三〇分から同八時三〇分の間に三枝方で施行された原第一審裁判所の検証の際には、共に「事件の当時は現在よりももう少し明るかつたと思う。室内の人は二人というのははつきり判らなかつたが二人だと思つた。」との指示説明をしている。

(三) 右両名の捜査段階における供述は、公判証言より具体的な認識を述べている部分があるので、次にこれを摘記する。

(1)  西野の供述

(イ)  二九年八月一〇日付藤掛検事に対する供述調書

「ほぼ部屋の真中で大将が店の方から便所の方に向つて立ち、大将と向い合つて奥さんが立つているのが見えた。二人とも白つぽい寝巻姿であつた。奥さんの方は後姿しか見えなかつたが、頭の髪や背恰好からして、奥さんであつたことは絶対に間違いない。二人は互いに腕を組み合つて前後左右に動いていた。足で畳を踏み鳴らすドスンドスンという音はしたが、二人の声は聞かなかつた。大将の顔は私の真正面に向いていたので、はつきり見えた。大将の寝巻は大分はだけて胸や腹があらわに出ていた。」

(ロ)  同日付裁判官の証人尋問調書

「大将が座敷のほぼ真中で私の正面の位置にこちら向きに立つていた。大将と向い合つて奥さんと同じ位の背丈で奥さんのようにパーマネントをかけた人が立つていた。その人は白い寝巻を着ていたように思う。大将とその人は組み合つているような恰好で激しく動いていた。その人は奥さんではないかと思つた。大将は寝巻で、前がはだけていた。見ているうちに二人が壁に隠れて見えなくなつた。」

(2)  阿部の供述

(イ)  二九年八月一〇日付藤掛検事に対する供述調書

「二人が首を出すようにして座敷の中をのぞき込んだところ、ちようど主人が食堂と元玄関であつた境の柱の前付近に立つて私らの方を向いており、主人と向い合つて背が主人よりも低く白い寝巻を着ている人が立ち、二人が互いにいがみ合つているのを見た。」

(ロ)  同月一一日付裁判官の証人尋問調書

「座敷の中で主人が南西に向きそれに向い合つて主人より二、三寸背が低い白い着物を着た人が主人と争つているようであつた。二人は組み付いてはいなかつたが殴り合つているように見えた。主人の顔ははつきり見えなかつたが恰好から主人だと思つた。向い合つている人は背が低く寝巻らしいものを着ていたので奥さんだと思つた。

以上の供述によると、西野は、「頭の髪や背恰好からして奥さんであつたことは絶対に間違いない」、「二人は互いに腕を組み合つて前後左右に動いていた」、「大将の顔は私の真正面に向いていたので、はつきり見た」、「大将の寝巻は大分はだけて胸や腹があらわに出ていた」、「奥さんのようにパーマネントをかけた人が立つていた」というように、かなり詳細かつ具体的にその場の状況を述べており、阿部と「二人は組み付いてはいなかつたが殴り合つているように見えた」と述べている点では、公判証言よりやや具体的な認識を示している。

(四) このような右両名の証言及び供述に対し、弁護人はそもそも事件当時の現場の条件下では、右両名がいうような状況が見えたはずはないとして、その信憑性を根本的に否定するが、右主張の当否について検討する前に、検察側の主張にそう右両名の証言及び供述の全体に共通するとも言える問題点について、まず考えてみる。

既に述べたとおり、右両名は、いずれも本件殺人事件発生後八箇月以上も経てから、検察官の厳しい追及にさらされた後、はじめて被告人に不利益な事実を、少しずつ供述して行つたのであるが、右両名が公判で証言したような状況を、事件当時本当に見ていたとすれば、右両名としては、この点だけからしても、亀三郎が賊の手にかかつて殺されたという被告人の話は、全くの作り事であつて、被告人こそが亀三郎を殺した真犯人ではないかという強い疑いを抱くのが当然である。

ましてや、この外に、西野は被告人の命に従い電話線電灯線を切断して外部犯人の仕業の如く装い、血の付いた刺身庖丁と覚しきものを川に投げ込み、阿部は被告人の使いとして暴力団篠原組組長の家を訪れ、匕首を受け取つて被告人に渡し、その直後に起つた殺人事件の現場で見覚えのある当の匕首を発見するなどの事情が重なつていたとすれば、西野においては被告人が真犯人であることをほぼ確信して然るべく、阿部においても被告人に対し一層深刻な疑念を抱かざるを得ないのが、自明の道理であろう。

しかしながら事件発生直後の右両名の供述中には、被告人に対する疑念を示している部分は全く見当らないし、逆にことさら被告人を庇つているように見える点もない。

事件当日である二八年一一月五日付の司法警察員に対する西野の供述調書には、「今朝五時ころ、奥さんが「泥棒じや」と四、五回叫んだのに目がさめ、阿部と二人で小屋を出て四畳半の間に行くと、主人が柱にもたれて酔いつぶれたような様子をしていたが、よく見ると胸に一杯血が付いて死んでいた。」との記載があり、同日付の阿部の司法警察員に対する供述調書には、「今朝五時過ぎと思うころ、佳子が大声で「西野さん」と二、三回呼んだので、二人とも目がさめた。続いて奥さんが大声で「若い衆さん、来てくれ」と叫ぶので、西野、私の順で行くと中は真暗で、主人は寝たままで何も言わなかつたので、死んでいたと思う」旨の記載があるのみで、いずれも夫婦の争いを目撃したことには全く触れていない。仮に二人が真実そういう場面を目撃したとすれば、これを隠したとすれば、これを隠しておくためには、二人が口裏を合わせる必要がある。当日二人が共に警察の取調に対し、右の事実を語らなかつたことが、互いの合意の結果であるか、あるいは両人とも、このような重大な秘密を暴露することをひとりでは決断出来なかつたためと解すべきかはともかくとして、住込み店員として起居を共にしている二人の間では、できるだけ早い機会に、互いに相手が認識している状況を確かめ合い、この秘密を隠しておくべきか否かについて相談するのが自然と思われるが、そういう具体的な話し合いがあつたことは、証拠上ほとんど現れていない。

もつとも阿部の二九年八月一八日付藤掛検事に対する供述調書中には、「主人が殺されてから半月たつた頃、西野が店に帰るのが遅くなり奥さんに叱られた。その晩二人で、あんなに叱られるんだつたら、いつそのことやめようかと話し合つたことがある。その時、事件のあつた時のことに話が移り、あの朝主人と奥さんが喧嘩していたのを二人が見たことから、主人を殺したのは奥さんに間違いないなあ、こんなことは他人に話せん方がええなあと話し合つた。」との記載があるが、重大な秘密を共有している二人が、密談する機会はいつでもあるのに、半月も経てから、この程度の話しかしていないというのは、むしろ不自然に思われる。

もともと右両名の三枝電機店における地位は、いわば一季半季の奉公人に異らず、亀三郎からも被告人からも、格別冷遇酷使されているわけではないが、家族的な情誼で結ばれるほどの待遇もされていないのであつて、被告人が夫殺しの下手人であることに気付きながら、その秘密を隠し通す気になるほど、被告人の恩義を受けてもいなければ、被告人を慕つてもいないのである。

かかり合いになるのを嫌つて口をつぐんでいたという見方も出来るが、そうだとしても殺人事件があつた家で、その犯人と思われる人物と一つ屋根の下に暮すなどは、成人であれ少年であれ、耐え難いのが人情と思われるのに、西野、阿部の両名とも、これを格別苦にした形跡はなく、西野は二九年三月まで、阿部は同年八月に同人自身が逮捕されるまで、三枝電機店に勤め続けており、その間の事情を説明した供述は、両名のどちらからも録取されていない。

そして前記の如く捜査方針の転換により西野、阿部両名は検察官による集中的取調にさらされ、二九年七月上旬には、両名とも被告人が犯人ではないかと最初から疑つていた旨の供述をし始め、同月二一日に西野がまず被告人の言い付けに従つて電灯線・電話線を切つたとの自供をして逮捕され、阿部も何回となく検察庁に呼び出されて取調を受けていたが、二人が事件直前に三枝夫婦の争うのを見たと告白したのは、同年八月一〇日のことであつて、その直後に阿部は匕首所持の容疑ありとされて逮捕されたのである。

同日、右両名は共に藤掛検事に対して右告白をしたのであるが、当時西野は勾留中の身で、二人は互いに隔離されていたのであるから、阿部が何らの誘導も暗示も受けずに、西野の供述と一致する供述をしたとすれば、その真実性は高く評価すべきであろう。しかし、右両名が同じ日に同じ事実を検察官に語つたことを偶然の一致に帰するのは現実的な見方とは言えず、誘導や暗示が全くなかつたことを前提として、両者の供述の一致を評価するのは相当ではない。

むしろ右両名が夫婦の争いを目撃したことを述べた時期が、かくも遅かつたのは、そもそも彼らにそういう経験が全くなかつたからではないかという疑いを禁じ得ないのである。

この点について、西野の八月一〇日付藤掛検事に対する供述調書には、「なぜこの事を今日まで申し述べなかつたかと申しますと、この事を申し上げますと三枝の奥さんの嫌疑が一層深くなり、私としては甚だ言いづらかつたのであります。もう一つにはこの点は私の口からではなく、阿部君の口から直接先に聞いて頂きたかつたのであります。」との記載があり、阿部の同日付同検事に対する供述調書には、「事件後奥さんが退院し店に出るようになつて間もない頃、私が警察へ呼ばれて行く時に、奥さんが「あんたあの時座敷でドタンバタンしていたのを見とつたで」と尋ねたので、「それは見たように思う」と答えたところ、奥さんは「ほうで。はつきりせんことは警察で尋ねられても言わん方がええでよ」と言いました。奥さんが私にこんなことを言つて隠してもらいたいように申していたので、今日まで何度尋ねられても言わなかつた次第であります。」との記載がある。また阿部は同月一一日証人として裁判官に対し、「奥さんからはつきりせんことは言わんでよいと口止めされていたので申しませんでした。そのようなことを言えば奥さんが疑われて困ると思つて申しませんでした。刀を持つていた疑いで逮捕されたので、どうせそのことは言わねばならんと思つていう気になりました。」と述べている。

しかし西野は既に七月五日付の村上検事に対する供述調書において、事件直後の被告人の言動に不審を抱き、被告人がやつたのではないかという考えがピーンと頭に響き、おそろしくなつたと述べ、その後電灯線電話線切断の事実を認めるに及んで、主人を殺したのが奥さんであることは間違いないと信じていたとまで述べているのであつて、既にそこまで述べている同人が、被告人の嫌疑が深くなるのを怖れて、夫婦の争いを見た事実が言い辛かつたというのは、何ら意味をなさない。むしろ西野の身になつて考えれば、被告人の言い付けに従つたばかりに逮捕勾留の憂き目にあつているのであるから、被告人を恨む筋合こそあれ、庇い立てなどすべき理由は、いささかもないのである。

阿部もまた七月以来被告人があやしいという供述を重ねているにもかかわらず、被告人に口止めされていたことを、目撃事実を隠していたことの理由として持ち出すのは、いかにも不自然である。

その上西野は、八月一〇日に藤掛検事に対して供述した後、その日のうちに刑事訴訟法二二七条による裁判官の証人尋問を受けているが、その際には、検事に対して述べたばかりの新事実を忘れてしまつたように、現場目撃のくだりがない従前の供述と同様な供述をし、検事の補充尋問に対してようやく、「ドタンバタンの音で目がさめ、夫婦の争いを目撃した」という点を付け加えているのであつて、果して自ら経験した事実をそのまま述べているのかどうか、この点からも疑いが生じるのである。

(五) 次に証言内容自体についての疑問として、四畳半の障子と廊下のガラス戸が、共に開放されていたという事実の異常性に注目しなければならない。

被告人が亀三郎を殺害したのを、外から犯人が侵入し、亀三郎を殺して逃げたように見せかけるため、出入口をこしらえる必要があるのは当然であるが、犯行の最中に、その現場が外から見える状態にしておく必要は少しもなく、店員二人が騒ぎに気づいてのぞき込むのを待ち受けているようなものである。しかも西野が原第一審第二回公判で証言しているところでは、廊下のガラス戸は古くなつているので、敷居に引つかかつて動かず、いつも二回位力を入れて開けたてするというのであり、また同人の村上検事に対する二九年七月二六日付供述調書では、「このガラス戸は立て付けが悪く、がたぴしの戸で、力を入れれば入れるでむつかしく、軽く持つたのでは動かず、開ける時多くて四、五回、少ない時でも二、三回、途中で戸が敷居や鴨居に斜めざまに傾いたり引つかかつたりして、がちやがちやとかなり大きな音をさせます。ですから、この戸を人が開けると、夜明け近くなら普通の人であつたら目ざめるのが普通だと思います。」と述べている位であつて、被告人が格別の必要がないのに、犯行直前に亀三郎が目をさます可能性を顧みずにわざわざガラス戸を開けるとは考えられず、もとより亀三郎が開ける理由はないし、被告人の攻撃を受けている最中に、その余裕があるとも考えられない。

後記の被告人の自白によつても、犯行中に障子やガラス戸が開いていたことは全く述べられていないのであつて、西野、阿部の証言が信用出来ると主張する検察官も、この点については何らの具体的見解も示していない。

また四畳半には佳子が寝ているのであるから、西野、阿部が述べるような状況で夫婦が死闘を演じていたとすれば、佳子が目をさます可能性も決して小さくはない。西野が揉み合つている人影を二分間位見ていたと述べている点は、必ずしも言葉通りに理解する必要はないとしても、そのような状況が一分間以上と続いたとすれば、その間佳子が何も知らずに寝入つていたということは、あり得なくはないが、かなり不自然に思われる。また後記の被告人の自白が信用出来るとすれば、被告人は西野らが四畳半の中をのぞいている頃、亀三郎と必死に刺身庖丁を奪い合いながら、寝ている佳子を起して外へ出て行かせたということになろう。検察官は西野、阿部の証言も被告人の自白も信用出来ると主張するが、これらを矛盾なく理解出来るか否かは、甚だ疑問である。

(六) 以上のとおり、現場目撃に関する西野、阿部の証言・供述は、それらが得られるまでの経過に徴し、たやすく信用できないばかりでなく、その内容においても、目撃の前提となる障子、ガラス戸が開いていたという事実自体が異常なものであるにもかかわらず、その理由を明らかにする証拠がないことなどからすると、極めて信憑性を欠くというべきである。

2 現場の明暗度について

右のような観点からすれば、当時の明るさで西野、阿部がそれぞれの証言にあるような状況を認めることが出来たか否かについて論じるまでもなく、現場目撃の事実を認めることは出来ないことになるが、本件においては目撃の能否の問題が重大な争点の一つとして論じられて来た経過に鑑み、以下この点についても検討を加える。

(一) 本件殺人事件発生の直後である当日午前五時半少し前に、警察官として最初に到着した市警両国橋派出所の巡査武内一孝は、原第一審第五回公判において、次のように証言している。

藤掛検事

どこから入つたか。

三枝方の店の出入口の一番東側の表戸が一枚開いていたのでそこから手探りで中へ入りました。家の中は真暗でした。

(中 略)

部屋の中はどの位の暗さであつたか。

相当暗く、白いものがかすかに判る程度でした。

人の顔形が判る程度か。

顔形は判りませんでした。

障子を開けると座敷には人が何人いたか。

人が何人いたか判るような明るさではありません。

(中 略)

証人が三枝の家へ着いたのは何時頃か。

午前五時三〇分頃だと思います。

それは何かで確かめたのか。

森本巡査が来て医者へ連絡することを頼んだ時に今何時かと聞くと午前五時三〇分だと答えました。

それは森本の来た時刻ではないか。

森本は後から来たといつても一、二分遅れただけでした。

(中 略)

被告人は座敷のどの辺にいたのか。

障子を開けて入ると座敷の東寄りの中央辺に坐つていたと記憶します。

証人はそれに対しどこにおつて話をしたのか。

障子を開けて入つたすぐの所で奥の方を向いて坐り話をしていました。

被告人の外に誰かいなかつたか。

これも後で名前を知つたのですが茂子の左側に並んで娘の佳子が坐つていました。

佳子のことはすぐ判つたか。

すぐには目に付きませんでしたが、茂子が犯人は米田だと言つた時に、なあ佳子あれは米田さんだろうと言つたら、うんそうじやと答えたので、初めて娘のいるのが判りました。

(中 略)

証人は被告人から犯人の服装などを聞いてどう思つたか。

座敷の中は真暗で人の顔形する判らない状態であるのに、服装のことをはつきり言つているのはおかしい。

これは咄嗟に思いつきを言つたのだと考え、信用はしていませんでした。

(中 略)

松山弁護人

店の土間には中へ入つて行けるだけの明るさがあつたか。

中には明るさと言つてはありませんでしたが、表戸が開いていたので、そこが通路だなと思い、手探りで入つて行きました。

突き当りに障子のあることは、すぐ判つたか。

すぐ側へ行くまで判りませんでした。障子と手探りで開けました。

(中 略)

証人が現場にいる間に、電灯がつくまでに、部屋の中が物が見える程度に明るくなつたか。

最初行つた時は真暗でしたが、そのうちに人影位は判るようになりました。

証人が現場へ行くより先に、外から座敷の中を見た店員が、座敷の中に人影が何人かおり、それが男か女かということとか誰であるということまで判つたというのだが、証人はどう思うか。

私が行つた時には真暗で人影等は全然判りませんでした。

(中 略)

藤掛検事

被告人はどんな着物を着ていたか。

白い感じの着物を着ていました。

それは障子を開けてすぐ判つたか。

障子を開けて座敷へ上るとすぐ判りました。

するとその時の部屋の状態は、白と黒との識別がすぐできる程度の明るさであつたのか。

真白いものを見たら白いと感じる程度でした。

以上の武内証言によれば、当日午前五時半頃、四畳半の内部はまだ真暗で、白いものがかすかに認められはするが、人の顔形などは全く判らない状態であつたと認められる。

武内巡査より一足遅れて現場に到着した森本恒男巡査が、原第一審第五回公判で、「家の中は真暗であつたので、すぐ電池(懐中電灯の意味。以下同じ)をつけました。」と証言していることからも、右の判断が裏付けられる。

ところで西野、阿部両名が三枝夫婦の争いを目撃したという時刻は、すなわち亀三郎が殺される直前の時刻であつて、武内巡査が現場に到着した時刻よりも、少なくとも約二〇分早く、徳島測候所長作成の「天候状況等に関する件回答」と題する書面で認められる当日の日の出時刻よりも、一時間一四分さかのぼる午前五時一〇分以前のことであつたと認められるので、武内巡査が四畳半の間に入つた時よりも、西野、阿部が廊下の外から四畳半の間をのぞき込んだという時の方が、暗かつたはずであると常識的に考えられる。

然るに武内は、白い寝巻を着ている被告人の存在は直ちに認め得たが、その側に佳子がいるのは、声を聞いてようやく判つた程度の暗さであつたというのであるから、西野、阿部がこれより暗い条件下で、三枝夫婦と覚しい二人が争う状況を認め得たとは、容易に考えられず、まして西野が検察官に対して述べているように、顔形や髪型が見分けられたとは信じられない。

(二) 原第一審裁判所は、この目撃の能否を検討するため、二九年一二月五日未明、現場において検証を実施した。

その結果によると、同日午前五時一〇分から同一七分までの間、西野、阿部が目撃の位置と指示したA点から四畳半内部の明暗度を明らかにするため、室内灯と三枝方の外灯を消した後、白ワイシャツ姿の人を四畳半の間に立たせ、A点からこれを観察したところ、対象者をA点から約三・七メートル離れた室内電灯の真下に立たせたとき、室内は全く暗黒で、その人影や白いものを認めることは出来ず、A点から約二・五メートル離れ、廊下の内側の敷居より約〇・三メートルの位置に立たせたときは、ワイシャツの白色が幻の如く闇に浮んで見えるが、人影の輪郭や顔形などは認められず、A点から約二メートル離れた廊下の内側の敷居の上に立たせたときは、何か白いものを着ている人影を認めたが、顔形までは判らないとされている。

従つて右検証当時の明るさでは、西野、阿部が述べているような状況を目撃することは不可能ということになるが、右両名は共に右検証の際に「事件当時はもう少し明るかつたと思う」と述べており、徳島測候所長作成の前記書面によれば、右検証当日の日の出時刻は午前六時五一分であつて、事件当日の午前六時二四分よりも二七分だけ遅いのであるから、右検証の結果から目撃が不可能であつたと判定することは出来ないが、逆に西野、阿部のいう目撃が可能であつたという判断も、もとより根拠づけられない。

(三) 原第一、二審で取調べられた証拠中、目撃の可能性に関連するものは、およそ以上のとおりであるが、再審請求の過程においては、目撃証言の虚偽性が当時の明暗度の測定によつて科学的に立証されるか否かが最も主要な争点の一つとされ、当審においても、弁護人は、事件当時の現場における照度は0.25×10-4ルクス未満であつて、かかる条件のもとでは右証言にあるような状況の認知は到底不可能であると主張し、一方検察官もこれに鋭く反論すると共に、新たな鑑定によつて現場目撃が可能であつたことの積極的な立証を試みている。

しかし、この点につき当事者双方がそれぞれ提出している鑑定等は、いずれも事件当時の現場の状況を出来るだけ忠実に再現することを目的として努力を尽してはいるものの、事柄の性質上当然のことながら、過去の特定の時と場所における明暗度の推定に必要なすべての条件を記録にとどめられた範囲の資料によつて一義的に定め、対立当事者による合理的な批判の余地を残さない程度に正確な現場の再現を求めることは、不可能と言わざるを得ず、結論としてはこれらの鑑定等によつて目撃の能否が一層明らかになつたとは言えない。

これについての詳細は以下のとおりである。

(1)  伊東鑑定及びこれに対する批判について

弁護人が提出した徳島大学教養部教授伊東三四(実験心理学専攻)作成の鑑定書、補充意見書及び補充鑑定書並びに第五次再審請求権における同人の証言によると、同人は本件現場の状況をできるだけ再現することを目的とした仮設小屋を設け、三回にわたり(最後の一回は再審開始決定に対する抗告審の審理中)、日の出前における小屋内部の照度を刻々測定する方法により、本件犯行日時も推定される二八年一一月五日午前五時一〇分(日の出前一時間一四分)当時の現場四畳半の間における照度は、0.25×10-4ルクス未満であつたと推定し、更に実験室内において、このような極めて低い段階における照度水準を設定して、矯正視力左右各一・〇の同人と視力左右各一・〇の補助者一名が予め約三〇分間暗順応したうえで、西野、阿部が四畳半内部の被告人を外からのぞき見たという位置と、その時被告人がいたと考えられる位置との距離を三二五センチメートルとして、それだけ離れた位置に立たせた人物を、照度水準を変化させながら観察した結果、本件犯行当時の現場の明るさでは、西野、阿部両名が四畳半内の人物像を認めることは不可能であつたと結論していることが認められる(以下これを単に伊東鑑定という)。これに対し検察官は、室井徳雄作成の鑑定書及び補充意見書並びに本再審公判における同人の証言をはじめ、再審請求手続においても取調べられた関係各証拠を援用して、伊東鑑定の不合理性を指摘すると共に、西野、阿部のいう目撃が可能であつたことを主張している。

そこでまず検察官が伊東鑑定に対する疑問として指摘する諸点について検討する。

(イ)  現場再現のための条件設定及び照度測定について

伊東鑑定は、事件現場である三枝方の建物が既に消滅し、その周辺の夜間の照明状況も事件当時とは全く一変し、かつ今日では市街地の夜の明るさは、場所の如何を問わず、当時の比ではないと考えられるので、市街地の夜間照明の影響が少ない場所として徳島市の郊外である同市八万町中津山四番一六の土地を選び、ここに事件現場と近似した仮設小屋を設けることから始まつている。

同所は眉山の尾根から南に伸びた支稜を開発した住宅地であつて、人家はまだ数軒点在するのみであり、仮設小屋は旧三枝電機店の住居用部分(奥四畳半の間及びその周囲の玄関、台所、廊下)を再現した仮設建物である。小屋の東方にある眉山ドライブウェイの夜間照明などが、小屋の東側の窓などを通して影響を及ぼすことを避けるため、東側の窓から約一・〇メートル離れた位置に高さ二・七メートル、幅四・五メートルのベニヤ板の側壁を設置し、また小屋の南側約四・五メートル離れた位置に隣家の白い壁が広がつているので、その反射光の影響を除くため、小屋の南側縁側から約一・五メートル離れた位置にベニヤ板の衝立が設けてある。

右のような設備を施したうえで、測定時間中近所の街路照明をすべて消して、五三年一月八日、同年三月七日、五六年一一月五日の三回にわたつて照度測定が行われた。右各測定日及び事件当日の自然条件は、五三年一月八日において、日の出七時八分、月の出五時四二分、月齢二八・四、天候曇り一時小雨、同年三月七日において、日の出六時二四分、月の出四時四九分、月齢二七・五、天候晴れ、五六年一一月五日において、日の出六時二四分、月の出一三時六分、月齢八・三、天候全天高曇り、事件当日において、日の出六時二四分、月の出四時五三分、月齢二八・一、天候午前三時頃曇り(全天に下層雲多し)、午前九時頃快晴となつている。

ところで伊東鑑定によれば、同一の自然条件のもとでは、仮設小屋の周辺は事件当時の現場周辺よりも明るく、仮設小屋内の照度は事件現場の照度よりも高いか、少なくとも同一であるとされる。その理由として、仮設小屋の周辺では、事件当時の現場周辺におけるよりも、建物の立て込み方がはるかにまばらで、天空の拡がりが大きいこと、市街地全体の夜間照明は事件当時よりも現在の方がはるかに高いことが挙げられている。

右の二点は確かにそのとおりであるが、仮設小屋の東側と南側には前記のとおり遮光用のベニヤ板が立ててあるので仮設小屋付近の状況だけに限定してみると、事件現場が附属の小屋や隣接する建物などに取り囲まれていた状況と必ずしも大差はないと考えることも可能であり、かつ事件現場は徳島駅近くの市の中心部にあり、昭和二八年当時といえども夜間の人工照明がかなり高い水準にあつた可能性を否定できないのであつて、もともと夜間照明の影響が少ないことを立地条件として設けられた仮設小屋周辺の方が、事件当時の現場以上に、その影響にさらされていると当然に断定できるかどうかは疑問である。

その上このように極めて微弱な照度の数値が問題になつている場合には、日中の照度や人工照明が照らされている場所での照度を測定する場合とは異り、周囲の条件のわずかな変化が測定結果に相当大きな影響をもたらすのであつて、伊東鑑定も、人工照明が雲に反射され、それが地上を再照明することが考えられるとし、その場合には雲の種類(白雲か黒雲か、あるいは雲の高低など)によつて、照度に大きな変化があることを認めている。この点を事件当日について見ると、前記のとおり午前三時頃の天候は曇り(全天に下層雲多し)、午前九時頃は快晴となつているが、事件発生の時刻における天候については資料がないので、雲の有無、あるいは雲があつたとすればその量、上層雲か下層雲か、白雲か黒雲かを知ることはできないが、午前三時頃の状態が事件発生の頃まで続いていた可能性もあり、その場合に雲が白雲であれが、人工照明が最も効率よく雲に反射され、それが地上を再照明することになるのであるから、事件当時の自然条件を部分的にしか知り得ないのに、自然条件が同じであればという形で、一般論を立てることの意義は、それほど大きくはない。

結局伊東鑑定の基礎となつている現場再現のための条件設定の妥当性には、かなり批判の余地があるというべきである。

次に前記の三回にわたる照度測定の結果について検討するに、前記鑑定書の記載によれば、仮設小屋内部のA点(目撃当時の被告人の位置に該当する場所として仮設小屋の中央付近に設定された)に東芝光電照度測定装置を設置し、被告人の頭の高さに当る床上一四〇センチメートルの高さに受光面を置き、これを西野、阿部が目撃当時立つていたとされる地点に向けて測定したもので、その結果は次の図に示すとおりである。<編集・前頁参照>

右測定結果をみると、五三年三月七日及び五六年一一月五日の日の出前一時間一四分(事件発生時刻と当日の日の出時刻との推定時間差)前後の照度は、いずれもゼロであるのに対し、それ以前には、10-4ルクスあるいは0.5×10-4ルクスなどの照度が測定され、日の出時刻に近づくほど明るくなるという通念に反する結果になつている。

この点について伊東教授は、前記補充鑑定書で、天頂の明るさは太陽が天頂からの俯角一二三度ないし一二五度にあるときが最大であつて、その後は夜光の時期と天文薄明(日没後、あるいは日の出前に太陽が地平線下にあるとき、太陽の影響によつて多少明るい状態)の時期との境界(太陽の天頂からの俯角一〇八度)前後に向つて低下することが、天文学上認められているので、不合理ではないと説明している。しかし、そうであるとしても、五三年三月七日の測定結果中、日の出前一時間四九分及び同一時間三九分の各時点における照度が、いずれも10-4ルクスであるのに、その中間(日の出前一時間四四分)の照度が0.5×10-4ルクスであることについては、合理的な説明がなく、当日の天候が晴れで雲の影響がないと思われることからすると、結局測定自体の正確さに問題があるのか、あるいは他の要因が影響しているかのいずれかである。さらに同年一月八日の測定結果についてみると、他の二回の場合と比較して照度の変動が著しく、しかも日の出前二時間の時点で4×10-4ルクスを示しながら、間もなく2×10-4ルクス未満まで低下してからまた上昇し、その後も同様な変化をくり返すという現象がみられる。このことは、当日の天候が曇りで、一時黒雲が伸びてきて小雨が降るという状況であつたことから、低い雲によつて市街地の夜間照明が反射された結果ではないかと思われるが、これも結局低い水準における照度が気象条件によつて大きく左右されることを示している。

伊東鑑定は五三年三月七日の日の出時刻が事件当日と同じで月の出時刻は四分だけ早く、月の面積も少し大きく、天候は同じく晴れであつたことから、以上の自然条件からすれば事件当時よりやや高目の照度が得られるとし、事件発生時刻と推定される五時一〇分(日の出前一時間一四分)頃の測定では照度計の針が振れず、ゼロを示していたが、読み取り誤差を考えて最大限譲歩した測定値を0.25×10-4ルクス未満とし、これが事件当時の現場における照度値であると推定し、時刻及び場所が多少動くとしても、10-4ルクス未満にとどまるとしている。しかし既に見たとおり、右の結論は仮設小屋と事件現場との立地条件等における近似性や測定時と事件発生時との具体的気象条件の共通性などを仮定して、初めて受け入れられるものであるところ、それらの仮定が正当であることは証明出来ないのであるから、これをそのまま承認することには、かなり問題があると言わざるを得ず、事件発生時刻及び当時の被告人の位置に多少の幅を認めて推定照度値を10-4ルクス未満であるとしてみても、基本的には同様な疑問を免れない。

(ロ)  認知実験について

伊東鑑定の結論は、微弱な照明のもとで人物の認知が可能な程度を知るため、実験室内で複数の強さが異る照明水準を設定して、その中に人を立たせ、これに対する二人の観察者の認知の程度を記録した結果にもとづいている。具体的には、それぞれ前記の視力を持つ伊東教授及び補助者一名が観察者となつて、約三〇分間暗順応したのち、被観察者から約三二五センチメートル(西野、阿部が目撃の際立つていたという位置から被告人の位置までの推定距離)離れて、照明光源に市販の六〇ワットの白熱電球を使用し、電圧を変化させて照明の強さを変え、弱い水準から強い水準へと変化させながら、観察を行つたものである。

その結果、10-4ルクスでは人の姿は全然見えず1.8×10-4ルクスでは人物が白衣を着た場合に白いものがかすかに見える程度であるとし、この認知実験の結果と前記仮設小屋での照度測定の結果からすると、西野、阿部の証言及び供述にあるような状況の目撃は不可能であると結論している。

しかし右認知実験の方法については、問題点が指摘されている。まず名古屋大学医学部教授市川宏は、同人作成の鑑定書及び補充意見書並びに第五次再審請求審における同人の証言において、10-2ルクス以下の低い照度のもとでは、人の眼の機能は明所視の錐体感度を失い、暗所視の杆体感度に支配されるので、網膜の感度特性も波長の低い光の側へ移行するが、このような低照度条件の網膜感度を明所視系である照度計のルクス値のみで評価するのは適切でないと指摘する。

これに対して伊東教授は、二種類の光源に対する暗所視水準の照度を明所視系の測光値で表しても、光源の光の色温度が同じであれば、その等価関係はそのまま成り立つとし、夜光の色温度は約一、〇〇〇ケルビンと推定され、白熱電球の10-4ルクスの色温度も一、〇〇〇ケルビンであるから、認知実験において白熱電球を照明光源としたのは正当であるとしている。

この点について工学博士大場信英(工業技術院電子技術総合研究所量子技術部応用光学研究室長)は、同人作成の鑑定書及び補充意見書並びに再審開始決定後の抗告審における同人の証言において、一般に測光または視覚に関する実験においては、測光器または眼に入射する光の分光分布(相対分光分布)及び測光器または眼の分光感度(比視感度)を考慮に入れることが欠くべからざる条件であるとし、その理由を、一般に測光器及び眼は光の波長に関して極めて選択的な応答(または感覚)を持つので、異る相対分布を持つ光に対する測定や判定実験に関しては、単一の尺度を用いて論じることが出来ないからであると述べる。また同人は、一般に発光機構や発光条件が異る光については、相対分光分布が同一になることはないので、これらの光の測定またはこれらの光を用いての視覚実験を相対分光分布が異る測光器または眼を用いてした時は、これらの相違にもとづく誤差を補正するか、またはその誤差が要求される精度に対しては補正を必要としないことを示さなければならないという。そして夜光についての相対分光分布と色温度が一、〇〇〇ケルビンの白熱電球の相対分光分布とは、大いに異つていると指摘すると共に、夜光、色温度一、〇〇〇ケルビンの白熱電球、色温度二、八〇〇ケルビンの白熱電球(通常電圧の使用状態におけるもの)の三種の光が、照度計に対して同一の指示値を示す場合にも、色温度が一、〇〇〇ケルビンの白熱電球の光は、夜光に比し約六分の一、色温度二、八〇〇ケルビンの白熱電球に比し約五分の一程度の刺戟を暗順応した眼に与えるに過ぎないとしている。そうだとすれば、伊東鑑定が仮設小屋での測定では夜光の照度を対象としながら(あるいは夜光でなくて街灯、他の家の門灯、室内灯などの色温度がほぼ二、八〇〇ケルビンの白熱電球の光が拡散反射して照度計に入つたと仮定しても)、実験室内での認知実験に色温度一、〇〇〇ケルビンの白熱電球の光を用いたことは不適当であつたことになる。

確かに右指摘のとおり、夜光と色温度一、〇〇〇ケルビンの白熱電球との間には、相対分光分布に大きな違いがあり、このため色温度一、〇〇〇ケルビンの白熱電球の光が暗順応した眼に与える刺戟は、夜光の約六分の一、色温度二、八〇〇ケルビンの白熱電球の光の約五分の一にとどまるのであつて、この点を無視した伊東鑑定の合理性には疑問がある。

大場博士は右の外に、伊東鑑定における認知実験で使用された光源の数と配置に関して、仮設小屋では前後、左右、上下のあらゆる方向から光が入射しているが、認知実験では一個の光源により一方向のみから光が入射しているので、事件現場あるいは仮設小屋におけるA点での光の入射状況を忠実に再現したとは言えない上に、照明光源を観察者と被観察者の中間に被観察者から一二〇ないし一三〇センチメートル離して置いているが、このように近い距離に置くと、被観察者の身体の各部に著しい照明の不均一が生じるとし、また観察者の数及び年齢について、極めて低い照度における明暗の感覚の閾値が問題であるところ、一般的には十代の後半から二十代までの青少年が最も良い感覚を持ち、事件当時の西野、阿部はこの年齢層に属していたのに、伊東鑑定の観察者はこれと異り、人数も二人に限られていたことには問題があるとしており、以上の批判はいずれも根拠があると認められる。

右のとおり、伊東鑑定における現場再現のための条件設定、認知実験には、それぞれ無視し難い問題点があるので、右鑑定の結果によつて西野、阿部のいう現場目撃の事実が明白な虚構として否定されるという弁護人の主張は、にわかに是認することが出来ない。

(2)  室井鑑定について

検察官は本再審公判において日本大学理工学部教授室井徳雄の証言を求め、同人作成の鑑定書及び補充意見書を提出している(以下これらを単に室井鑑定という)。

検察官が同人の鑑定を求めた本来の目的は、西野、阿部による目撃当時に被告人がいたとされる位置(鑑定書ではイ点とされる)の照度値を推定し、これを前提として右両名がいう状況の認知が可能か否かの判定を求めることにあつたと解されるが、室井鑑定はイ点の照度値そのものを直接推定せず、イ点を含む四畳半内外の各点の照度と屋外の照度との比率が夜間を通じてほぼ一定しているものとして、その比率を算出し、イ点については、その照度は屋外の照度の一〇四分の一であるとするにとどまる。そして当時の屋外の照度の具体的な数値についても、室井鑑定は直接答えていない。もつとも伊東教授の補充意見書は、星空のもとでの夜光による地表面の照度は約3×10-4ルクスであるとし、室井教授もその証言中で、星空のもとで人工照明の影響がない場合の夜光の照度は3×10-4ルクスとされている (ママ)述べている。仮に事件当時の屋外の照度がこの程度であれば、前記の照度比によるイ点の照度は、約3×10-6ルクスとなり、このオーダーでは視認の可能性が全くないことは、後記の室井鑑定における実験結果によつても明らかである。しかし事件現場は徳島市の中心地であり、昭和二八年当時といえども、自然の夜光以外に人工照明の影響があつたと考えられるから、実際の屋外の照度は晴天であつた事件当日の場合、3×10-4ルクスより上まわつていたと考えられるが、どの位上まわつていたかは不明である。

室井鑑定が右のような照度比を算出した具体的方法は、市街光の影響がなるべく少ない場所として千葉県船橋市習志野台七丁目二四番地所在の日本大学理工学部習志野校舎構内に事件現場と近似した仮設小屋を設置し、右仮設小屋にイ、ロ、ハ、Aの四点を設定して、これらの位置をそれぞれ原第一審裁判所の二九年一二月二二日付検証調書添付の現場見取図第三に記載されているイ点(四畳半の間中央部電灯の真下の点、後記A点からの距離約三・七メートル)、ロ点(イ点の南方約一・二メートルで廊下の内側の敷居より約〇・三メートル北、A点からの距離約二・五メートル)、ハ点(廊下内側の敷居の上、A点からの距離約二メートル)、A点(西野、阿部が四畳半内部を見る時、小屋にもたれて立つていたという位置に対応するように定め、五九年二月二九日から同年七月一三日までの間に、一三回にわたり、右四点における夜間からの薄明を経て日の出に至るまでの照度の変化を測定し、そのうち同年七月一二日、同月一三日の各測定結果を平均化し、イ、ロ、ハ、Aの各点の照度及び屋外の照度は、日没後の薄明が終つてから翌日の薄明開始まで、天候が大きく変らない限り、互いにほぼ一定の比率を保つているとして、その比率がイ点1、ロ点2.4、ハ点6.5、A点48、屋外104になるとしたものである。ここでいうイ点、ロ点、ハ点の照度は、いずれも高さ一・二メートル、A点方向の鉛直面照度であり、A点のそれは高さ一・六メートルの水平面照度である。屋外の照度は仮設小屋の周囲に設けられた遮光用のかまこ鉄板(トタン板)の塀の南側中央部分から更に南へ七メートル離れた位置にデジタル照度計を設置し、高さ一・二メートル、水平面の照度を測定したものである。

ところで右のように算出された照度比が事件現場についてどこまで当てはまるかは、第一に室井鑑定の仮設小屋と事件現場との近似性がどこまで認められるかにかかつているので、この点について検討すると、まず司法警察員作成の二八年一一月五日付実況見分調書によれば、亀三郎が殺された四畳半の間の東側には、北側に元の玄関の間、南側に炊事場があるが、「ラジオ商殺事件現場写真記録」の番号9の写真、村上検事作成名義の二九年九月一日付検証調書中の東側玄関についての記載及び添付写真によると、右の元玄関及び炊事場の東側は隣家の新開時計店の建物とほとんど接着しているので、四畳半の間には東からの光はほとんど入らないことになる。これに対して仮設小屋の東側には高さ三・六メートルのかまこ鉄板の塀が立てられているが、仮設小屋との間に約二メートルの距離がある。また仮設小屋の元玄関に相当する部分の東側の戸の上半分には、すりガラスが入れてあり、炊事場に相当する部分の東側窓にもすりガラスが入れてある。かつ元玄関に相当する部分と四畳半との境界には障子が設けられているが、この障子は北側に寄せて開けられ、炊事場に相当する部分と四畳半との境界は何の仕切りもなく開放されている。そのほかにも光を遮るようなものは、元玄関及び炊事場に相当する部分には、何も置かれていない。従つて仮設小屋の四畳半の間には、東側からの光がかなり入ることになり、事件現場との違いは無視できないと思われる。このことは室井鑑定書中の仮設小屋内の照度分布図(二〇ページ)において、東側に向つての照度がかなり高く表示されていることによつてもうかがうことが出来る。

次に事件現場の四畳半の間への入射光は、大部分が南側からのものであると解されるところ、前記実況見分調書添付の第一四号及び第二四号写真並びに「ラジオ商殺事件現場写真記録」中の番号10及び21の写真によれば、事件現場四畳半の南側のガラス戸は、本来ガラスを入れるべき部分に、ところどころ木の板を打ち付けたものであるのに対し、室井鑑定においては、仮設小屋の南側ガラス戸には全部透明ガラスが使用してあり、ただガラス面に吹き付けをして汚れを作つてはあるもの、事件現場にくらべれば、仮設小屋に入射する光の方が量が多くなると考えられる。

また前記実況見分調書添付の第一三号及び第二四号写真並びに「ラジオ商殺事件現場写真記録」中の番号10及び21の写真によると、事件現場四畳半の南側廊下では、東端に木箱を積み重ねた下駄箱のようなものが置いてあり、南側からの光をある程度遮る位置にあるが、仮設小屋にはこれに対応するものはない。

更に前記実況見分書添付の第一三号及び第二五号写真並びに「ラジオ商殺事件現場写真記録」中の番号8及び12の写真によると、四畳半の間南側ガラス戸の鴨居の屋外側上部付近と、その南側にある西野、阿部の小屋の北壁付近との間にシート様のものが庇のように張つてあり、四畳半の間に南側から入る光の量を制限していたと思われるが、仮設小屋にはこれに対応するものもない。

事件現場と仮設小屋との間には右のような違いがあることからすると、室井鑑定が算出した前記の照度比が、事件現場についてどの程度当てはまるか、疑問がないとは言えないが、室井教授はこの比率を一つの前提として、原第一審裁判所が二九年一二月五日未明に行つた検証の際のイ点(前記の検証調書添付の現場見取図第三に記載されたイ点。以下同じ)の照度値について、推定を試みている。

右の推定方法は、検証の際にA点から見るとイ点にいる白ワイシャツの人物を認めることが出来なかつたが、同じ人物がロ点にいる時には、ワイシャツの白色が幻の如く闇に浮かんで見えたという結果に着目し、暗室における視認実験の結果作成した暗順応曲線のグラフを利用して、右のような検証結果に当てはまるイ点における照度の上限及びロ点における照度の下限を推定し、次に前記の照度比にもとづきロ点における照度の下限の二・四分の一の数値をもつてイ点における照度の下限としたものである。

暗室実験においては、二一ないし二三歳の視力正常な男子一〇名を対象とし、いずれも六〇ワット白熱電球で照らされた室内で一〇分以上明順応させた後、暗室に導き、与えられた照度のもとで視標を注視させ、暗順応が進行して視標が見えるまでの時間を測定し、このような測定を繰り返すことによつて得られた照度と必要な暗順応時間の平均値との対応関係をグラフにして、暗順応曲線を作成している。ここにいう視標は観察者の前方一・五メートルの距離にある一七センチメートル四方の白色濾紙(反射率八七・七パーセント)で、その大きさはA点からイ点に立つ白ワイシャツを着た人物の胸のあたりを見る場合を想定し、これと視角が等しくなるように定められたもので、光源は観察者の後方〇・五メートルにあるハロゲンランプであり、メッシュ(網)フィルターの変換によつて視察面上の照度が変えられるようになつている。

前記検証調書によると、四畳半内にいる人物の見え方についての検証は午前五時一〇分から同一七分の間に行われているが、その際暗順応のための時間を置いたか、置いたとすれば何分間置いたかについては記載がない。そこで室井教授は、消灯後五分間の暗順応時間を置き、残りの二分間で検証をしたと仮定し、五分間の暗順応後にA点からイ点の白ワイシャツが見えず、ロ点の白ワイシャツは見える場合の照度の範囲を暗順応曲線のグラフから読み取り、更に暗順応時間を七分として同様の読み取りをした。この場合の暗順応曲線は白ワイシャツの反射率が七〇パーセント程度とされることを考慮して、必要な修正が加えられたものである。またA点からイ点の人物を見る場合とロ点の人物を見る場合とでは、それぞれ白ワイシャツを視標とし、その大きさを四〇センチメートル四方として、視角が六・五度、九・二度となるが、視角が六度以上である場合には、視標の大きさによつて視認に必要な暗順応時間に差が生じることはないとの判断に立つて、両方の場合に共通の暗順応曲線が用いられるとしている。

以上のような方法により、検証当時のイ点の照度は3.3×10-5ルクス以上1.1×10-4ルクス以下という結論が示される。ところでこの検証結果を基準とすれば、西野、阿部が見たという状況の認知が不可能であることは前記のとおりであり、原第一、二審判決は、事件当時は右検証の時よりも明るかつたと解し得る旨判旨しているが、右判示は検証当日の日の出時刻が午前六時五一分で、事件当日より二七分遅いこと(目撃状況に関する検証は推定される事件発生時刻に合わせて行われた)、事件当時は、晴天であつたのに検証当日は曇りで月明かりもなかつたことなどを理由にしているに過ぎず、これらの理由は、いずれもさほど合理的なものではない。推定上の事件発生時刻は日の出一時間一四分間で、この頃の照度は、伊東鑑定のみならず室井鑑定によつても、その以前より高くなつてはいないのである。また雲一つない晴天の時よりも、雲が地上の人工照明を反射する時の方が、明るいことがあり得るのは前記のとおりである。検証当日(月齢九・六)は月の入りが午前一時三分、月の出が午後一時二分であつたから、明け方には月は沈んでいたが、事件当日と月齢二八・一で月の出は午前四時五三分であり、西野、阿部が被告人ら夫婦の争いを見たとされる時刻はその約一七分後であるから、細い下弦の月が地平線からようやく上がりかけていた頃で、事件現場の状況からすれば、月明りの影響はほとんど問題にならない(徳島地方測候所長作成の二九年一二月二七日付「天候等について(回答)」と題する書面参照)。

してみると、検証の際の現場の照度が事件当時の照度より低かつたと解すべき根拠は乏しく、両者は同じ位であつたということもあり得るし、あるいは事件当時の方が暗かつたという可能性もある。

仮に両者が同じ程度であつたとすれば、室井鑑定が推定するイ点の照度の下限3.3×10-5ルクスは、伊東鑑定がいう0.25×10-4、すなわち2.5×10-5ルクスとそれほどかけ離れたものではなく、室井鑑定が上限とする1.1×10-4ルクスは、伊東鑑定が上限として一応認める10-4ルクス未満という数値にかなり近い。もちろんこれは事件当時と検証当時の明暗度がほぼ同じであると仮定した場合に言えることであるが、その場合には両者の結論は必ずしも相容れないものではないことになる。

室井鑑定が明暗度について示しているもう一つの具体的な推定は、事件発生直後三枝方に武内巡査が来て被告人と対座した時の現場の照度を対象としたもので、これについても前記の武内巡査の証言内容に暗順応曲線が示す数値を当てはめ、結論として、「武内巡査が派出所を出発してから暗がりの中を自転車で走つて三枝方に着き、奥に入つて被告人が白い寝巻を着ているのをかすかに認めるまでに要した時間が三分であれば、これに必要な照度は3.1×10-4ルクス以上で、この数値をイ点のA点方向の鉛直面照度に換算すると4.7×10-4ルクス以上となり、右の所要時間が五分であれば、必要な照度は1.8×10-4ルクス以上で、イ点のA点方向鉛直面照度に換算すると2.7×10-4ルクス以上である。」と判断している。

右結論の主要な基礎となつている暗順応曲線は、前と同様二一ないし二三歳の視力正常な男子一〇名を対象として、与えられた照度のもとで視標を認めるのに必要な暗順応時間を測定し、時間を照度の函数として、その平均値をグラフ化したものである。

右の数値はやや高いが、事件当日の午前五時三〇分頃の照度の推定であり、日の出時刻の約五四分前で、照度の上昇が既に始まつている時と解し得るから、午前五時一〇分頃に発生した事件当時の照度とは差があつてもおかしくはない。

一方、仮設小屋における低照度下の視認実験は、10-5ルクス以上の領域において行われ、前記の如く二一ないし二三歳の視力正常な男子約一〇名が参加し、いずれも暗室内で約三〇分以上の暗順応を経た後、実験に入つている。

仮設小屋では鑑定期間中に自然状態で照度が10-3ルクス以下に低下する日はなかつたので、仮認小屋の南側及び東側を遮光ボード(穴あきベニヤ板)と寒冷紗で覆い、人工的に暗くして、10-3ルクス未満での実験をした結果、A点からイ点に立つ白地に縦縞が入つた寝巻を着ている人物を見る場合、1.5×10-5ルクスでは、観察者九人中二人が、人物が動けば白いものがぼんやりと闇の中に浮かんで見えたり見えなかつたりする、2.2×10-5ルクスでは八人中二人が、闇の中にぼんやりと白いものが見える、3.2×10-5ルクスでは一一人中一人が、人物が動けば闇の中にぼんやりと白いものが見える(すなわち2.2×10-5ルクスの場合より認知の程度が低下しており、認知可能な限界が、かなり不安定なものであることが判る)、7.3×10-5ルクスでは一一人中八人が、室内下方に闇の中に浮かぶ白いものが見え、白いものがちらついて、よく見えたり見にくくなつたりする、1.2×10-4ルクスでは一一人中一〇人が、これと同様な認知に達するが、白いものの面積が少し大きくなる、2.9×10-4ルクスでは一一人全員が同様な認知に達し、白いものの面積は更に拡がつて、ちらつきがなくなり、動いた方向が判るという成績が得られた。

右の結果によると、10-4ルクス内外の照度では、闇の中に浮かぶ白いものが見えるという程度の認知しか得られず、事件当時の現場の照度もその程度であつたと仮定すれば、西野、阿部が述べるように人物の背丈や向きを認め得る可能性はなく、まして顔や髪形を見分けられるはずはない。しかしA点からロ点(廊下の内側の敷居より約〇・三メートル北寄り)の人物を見る場合には、同じ照度でもイ点を見る場合にくらべて、認知の程度がよくなるとされる。かつ照度自体がイ点よりも大幅に上昇し、前記の照度比によればイ点における数値の二・四倍の数値を示すことになる。実験の結果によれば2.6×10-5ルクスで九人中八人が、4.4×10-5ルクスで八人中八人が、闇の中に浮かぶ白いものが見えると答えている。更に6.2×10-5ルクスでは、人物であると判る、1.6×10-4ルクスでは、背丈が想像出来、体型や体の向きが判る、3.0×10-4ルクスでは、袖らしいものが見え、和服を着ていることが想像出来る、7.1×10-4ルクスでは、頭の輪郭がぼんやり見え、寝巻を着ているらしいことが判るとの結果が、いずれも一一人の観察者全員によつて認められている。事件当時この程度の認知が得られたとすれば、西野、阿部の証言は、必ずしも不合理とは言えない(なお室井鑑定は、一六ないし一七歳の視力正常な男子六名と、二一ないし二三歳の視力正常な男子一〇名について、それぞれ暗室内で実験した結果、この程度の年齢差では、見え方に大差はないとしている)。

室井鑑定の主要な結論は、ほぼ以上のとおりであるが、この結果からは、前提問題である事件現場と仮設小屋との近似性を、どの程度に評価するかは別としても、西野、阿部のいう現場目撃の能否については、いずれの方向にも一義的な判断を示すことは出来ない。

3 まとめ

右のとおり、明暗度に関する各鑑定は、いずれも現場目撃の能否について決定的結論を与えるものではない。

しかし既に述べたとおり、この点についての結論如何にかかわらず、西野、阿部の各目撃証言の信憑性には重大な疑問があり、かつ右両名とも結局これを偽証と認めているのであるから、これを事実認定の根拠として採用することは出来ない。

二 電灯線、電話線の切断について

1  争点の所在

(一) 司法警察員真楽與吉郎作成の二八年一一月五日付実況見分調書(以下単に実況見分調書という)には、本件殺人事件発生の直後である同日午前七時五〇分から同一一時五〇分の間に行われた実況見分の際に、三枝方の電灯線及び電話線が、いずれも母屋の屋根の上で切断されていたことが明記されている。

一方、原第一審における櫛渕泰次、坂尾安一、四宮忠正、石井雅次及び武内一孝の各証言によれば、前記のとおり武内巡査が三枝方に駈けつけた時、屋内は真暗で、被告人が同巡査の問いを待たずに、電話線も電灯線も賊に切られたという趣旨の話をしたこと、三枝方の南に隣合つて住む石井雅次が、午前五時五〇分頃新開時計店の電話を借りて四国電力株式会社の徳島営業所に、三枝方の電灯がつかないから至急修理してもらいたいと連絡した結果、同営業所係員坂尾安一が午前六時一〇分頃三枝方に到着し、安全器の蓋が開いていたので、これを閉じると、すぐ電灯がついたことが認められる。

坂尾の藤掛検事に対する二九年七月二〇日付及び村上検事に対する同月二二日付並びに阿部の村上検事に対する同日付(一一枚綴り)及び同年八月三日付各供述調書によれば、この時店の土間に四、五個ある電球のうちの土間中央付近にある一〇〇ワット電球一個と四畳半の間にある六〇ワットの電球一個に明りがついたと認められる(阿部はこの外に店にある三〇ワットの螢光灯二つも点灯したと思うと述べている)。

ところが原第一審第二回公判で阿部は、「電気屋が来て電灯がついたのち、西野と一緒に顔を洗いに行つた頃に電灯が消えた。」と述べ、司法警察員に対する二八年一一月二七日付供述調書では、「西野が屋根に上がつて電灯線の切断箇所を発見し、修理したので明りがついたが、少ししてから運悪く停電した」旨、村上検事に対する二九年七月六日付供述調書では、「西野が屋根に上がり、切断箇所を発見したので修理したと言つており、電灯がついたが、間もなくまた停電した」旨、同検事に対する同月二二日付供述調書(一一枚綴り)では、「電気屋さんらしい人が来て、安全器の蓋をすると電灯がついたが、その後一五分位して誰もスイッチを切らないのに、また消えてしまつた」旨、それぞれ述べて、電灯が一旦ついてから再び消えたという点では一貫する供述をし、渡辺倍夫の検察事務官に対する同月二九日付供述調書中の「午前六時三〇分頃三枝方に行つた時、中は薄暗く、電灯が消えていた」旨の記載、原第一審第三回公判における櫛渕泰次のこれと同様な証言、同人の村上検事に対する二九年八月五日付供述調書中の「午前六時四〇分か五〇分頃三枝方に着いたように思うが、電灯がついておらず、余り暗いので店員に電池を出してもらい、指紋検出にかかつた」旨の記載、同人の木村昭検事に対する五三年七月五日付供述調書の「午前六時三〇分頃三枝方に着いた時、店内が暗かつたように思う」旨の記載等からしても、正確な時刻は定め難いが、三枝方の屋内の電灯が、一旦ついてからしばらくして、また消えてしまつたことは確実である。

(二) 右のように三枝方の電灯が、午前六時一〇分頃に一旦ついたのに、その後間もなく消えたことに加えて、午前七時五〇分から始まつた実況見分の際に、電灯線が屋根の上で切断されている状態が確認されているとすれば、電灯線が実際に切断されたのは電灯が一時ついてから後のことで、それこそが再度の消灯の原因であり、本件殺人の犯行前後に電灯が消えていたのは、何らかの原因で安全器の蓋が外れていたからであると考えるのは、極めて自然であり、検察官は右の推理にもとづいて西野を追及した結果、同人が事件後被告人の言い付けで電話線、電灯線を切断したという自供を得、被告人が自ら亀三郎を殺害しながら、これを外から侵入した賊の仕業と見せかけるために、偽装工作を施したものと断定したわけである。

(三) これに対して弁護人は、実況見分調書添付の現場写真中の第九号写真(以下単に九号写真という)には、切断された電灯線が別の線で継ぎ合わされて通電状態に復している状態が明らかに写つているとして、右調書本文の記載は、単に電灯線、電話線の切断箇所が確認されたという事実のみに重点を置き、電灯線が当時既に補修されて通電状態にあつた事実を書きもらしたのであり、西野が事件発生直後に(恐らくは安全器の蓋をあけて内部を調べてから)電灯線の切断部分を探し当て、別の線を持つて行つて応急修理をした直後に、坂尾が来合わせて安全器の蓋を閉じたので、電灯がついたのが真相であると主張する。もつとも右の主張は、その後また電灯が消えた原因を具体的に指摘し得ないという点で、弱点があることは否定し得ないけれども、弁護人は当時の電力事情等からして、たまたま停電があつたとも考えられるし、その他にも色々な原因があり得るというのである。

西野自身は三三年一〇月九日徳島地方法務局人権擁護課長安友竹一に対して原第一、二審公判における証言が偽りであつたことを認めた時以来、自分が電灯線や電話線を切つた事実は全くなく、逆に切られていた電灯線を補修したのであつて、その時期は斎藤病院の医師が到着してから間もなくのことであると述べている(もつとも西野はその後も再三検察官に対し偽証告白を撤回し、原第一、二審では真実を証言したとの供述をしている)。

(四) 右のとおり、弁護人の主張によれば、実況見分の際に電灯線の切断箇所が既に継ぎ合わされている状態が、当時撮影された現場写真によつて認められるというのであり、右主張が正しいとすれば、三枝方の電灯線は外部犯人によつて切断されてから間もなく、西野の応急修理によつて通電状態に復していたのであつて、その後に到着した坂尾が開いていた安全器の蓋を閉じたことによつて電灯がついたこと自体は、外部犯人による電灯線切断という事実と矛盾しないと解すべき可能性が生じる。

逆に現場写真によつても電灯線が切断されたままであつて、別の電線で継ぎ合わされた事実がないと確認することが出来れば、電灯線が切断されたのは坂尾が来た午前六時一〇分頃より後のことと認めざるを得ず、それが外部犯人の仕業である可能性は全くなくなり、内部の者による偽装工作である疑いが極めて濃くなるわけであるから、本来最も客観的な非供述証拠である写真によつて、実況見分当時における電灯線補修の事実の有無が明確に判定されるならば、本件の真相に近づくことは著しく容易になるはずである。

しかしながら現存する証拠中、電灯線の切断箇所が撮影されている写真は、前記九号写真と、本再審公判開始後検察官が新たに発見した証拠として提出した徳島県警察本部鑑識課保管にかかる「ラジオ商殺事件現場写真記録」(以下単に「現場写真記録」という)と題する写真綴りの中の番号2の写真との二葉のみであり、これらはサイズが異るけれども、いずれも同一のネガフィルムにもとづくと認められるもので、そのいずれにおいても、切断された電灯線の上下双方の切り口付近を弧状につないでいるように見える一条の線の如きもの(以下「弧状線」という)が認められるのであるが、右弧状線の像は同じ写真に写つている本来の電灯線の像にくらべて著しく細く、かつ不鮮明で、その位置及び全体としての形からすれば、補修用電線が写つていると見るのが自然であるが、映像の濃さと太さからは、一見してその実体が電線であると判定することは困難である。

そこで右弧状線の実体についての究明はしばらくおき、まず電灯線、電話線の切断に関する西野の公判証言及びこれに沿う供述について、その具体的内容と信憑性の程度を検討してみることとする。

2  西野の公判証言

(一) この点についての西野の公判証言は、およそ次のように要約される。

西野、阿部両名は、変事を告げる被告人の声をきいて、四畳半の間に入り、亀三郎が倒れているのを発見した。被告人は阿部に市民病院へ医師を迎えに行くことを命じ、阿部が自転車で出かけた直後、西野に匕首を渡して、これで電灯線と電話線を切つてくれと言い付けた。被告人はその理由を告げず、どの部分を切れという指示も与えなかつたが、西野はすぐ匕首を受け取つて店の表口から外へ出、建築中の新館の工事用足場を伝つて屋根に上がり、右匕首を用いて電話線を引込口付近で切断したが、電灯線は匕首では切れないと思い、後で切ることにして屋根から下り、四畳半の間にいた被告人に、「線を切つて来ました」とだけ言つて匕首を返した。被告人は更に西野に対し、大道へ使いに行つて登志子らを起してくるように命じた上、新聞紙にくるんだ細長い物を渡し、これをどこかへ捨ててきてくれと言い付けた。西野は寝巻のまま自転車で出発し、後記のとおり両国橋の上からその新聞紙にくるんだ物を新町川に投げこみ、両国橋派出所に立ち寄つて、三枝電機に盗賊が入つたからすぐ来て下さいと申告してから、大道の家に行つて「大将が倒れているからすぐ来てくれ」と知らせ、直ちに三枝方に引き返して、被告人に「大道に行つて来ました」と復命し、あらためて電灯線を切るためにペンチを持つて新館の工事用足場から屋根に上がろうとしたが、隣家の新開鶴吉に「危ないぞ」と注意されたので、再び切るのを後まわしにして地上におりた。

間もなく被告人は斎藤病院に入院し、西野は病院に寝具や七輪を運んだ後、ようやく阿部と共に寝巻を着替えて顔を洗い、その際阿部が匕首を発見した。それは先に西野が被告人から受取つて、電話線を切るのに使つた匕首であつた。

西野は顔を洗つてから、今度はペンチとナイフを持つて、工事中の新館内部の西側階段から新館二階に上がり、東側の窓から隣接している三枝方店輔の屋根の上に出て電灯線の引込口付近に行き、碍子と壁の中に入つている碍管の中間で、電灯線の被覆にナイフで切り込みをつけ、ペンチで切り込んだ箇所をはさんで折り曲げる方法により切断した後、前と同じ経路で階下に戻り、店の中にいた私服の警察官に「電線が切れとるでよ」と知らせた。警察官は西野に案内させて、電灯線・電話線が切れている場所へ行き、西野が電灯線の切断箇所を継ぎ合わせようとするのを制止し、西野は警察官に「ペンチを貸せ」と言われるままに、これを渡して屋根からおり、間もなく徳島市警察署へ行つて取調を受けた後、三枝方に帰り、店にあつた電線を持つて屋根に上がり、これを電灯線の切れている両端にペンチでねじつてつなぎ合わせ、電流が通じるように修理した。

(二) 右趣旨の西野の証言を以下に順次摘記する。

(イ) 原第一審第二回公判

藤掛検事

証人はそれからどうしたか。

私は阿部と一緒に表戸を開けてから店の土間の前の方に置いてある自転車のそばに立つて道路の方を向いていました。すると私の右腰に何か当るような感じがしたので、手を持つて行くと切れ物のような感じでした。それで振り向いて見ると奥さんが立つており、これで電灯線と電話線を切つてくれと言つて、何か切れ物のような物を渡されました。その時は何か判りませんでしたが、それを持つて外へ出てから、それが匕首であることが判りました。

被告人が電灯線と電話線を切れと言つた時、証人はどう感じたか。

別に何とも感じませんでした。

証人はなぜ切るのかと尋ねたか。

尋ねませんでした。

証人はなぜこんなことを被告人が自分にさせるのかということを考えなかつたか。

その時は何も考えませんでした。

証人はそれからどうしたか。

店から外へ出て、店の西端の新築工事現場の足場が店の前に突き出ているのを昇り、店の屋根へ上がりました。

(中 略)

屋根へ上がつてからどうしたか。

電話線を調べ、持つていた匕首で切りました。

電話線はどこにあつたのか。

店の東隣りの新開という家の方へ寄つた所の東の端にありません。電話線は黒い被覆線を二本よりあわせたものでしたので、その間に匕首を差し込んで、一本の線を二、三回鋸で挽くようにしましたが切れませんでしたので、今度はその線を両手で持つてねじ切りました。

その際電灯線は切らなかつたのか。

そうです。電灯線は匕首では切れないので、もう一度上がつて切るつもりでした。

電話線を切つてからどうしたか。

下へおりて行き、店へ入つて四畳半の間へ行きました。その時奥さんは大将のそばへ坐つていましたので、私は線を切つて来ましたと言つて匕首を奥さんに渡しました。

証人が電話線を切つておりて来た時は、大分明るくなつていたか。

そうです。大分明るくなつていました。

線を切つて来たと言つて匕首を渡した時、被告人はどう言つたか。

ありがとうと言つただけです。

(中 略)

(大道の家へ使いに行き)帰つてから証人はどうしたか。

私は店の修理台の中にあつたペンチを持つて、電灯線を切るために外に出ました。(中略)そして電灯線を切ろうと思つて、先に電話線を切る時に登つた足場を登りかけると、後からお隣りの新開さんのお爺さんらしい人が、危いぞと声をかけたので、登るをやめて下におりました。

(中 略)

(被告人が入院したので斎藤病院へ寝具や七輪を運び、店に帰つて阿部が匕首を発見したので警官に知らせ、着替え、洗面をした後)

村上検事

ともかく証人はペンチを持つて外へ出たのか。

そうです。ペンチと修理台の段の上にのせてあつた被覆を剥ぐナイフを持つて外へ出て新築工事現場へ入りました。そして工事場の一番西端の元町食堂のそばにある階段を昇つて、新築中の家の二階に上がり、二階の窓から東の方にある店の屋根の上へ出て、新開方の方から来ている電灯線の引込線の所へ行きました。

それからどうしたか。

そして引込線の碍子と壁の中に入つている碍管の中間の二尺位の電灯線が、しやがんだらちようど手に持てる位の所にあつたので、その線を一本右手で握り、左手で持つていたナイフで線の被覆を切り込むようにして切り、ここで両手でペンチを持つて、その切り込んだ所をはさんで折り曲げて、その電灯線を切りました。

なぜ電灯線を切つたのか。

それは先に奥さんに切つてくれと言われていたからです。

切りに行くのが大分遅れているようだが、どうか。

別にわけもありませんが、他の用事で走りまわつていたからです。

電灯線を切つてからどうしたか。

前に上がつて行つた所を通つて下におり、店へ入つてそこにいた警察の私服の人に電線が切れとるでよと知らせました。

なぜ自分で切つて警察の人に切れていることを知らせたのか。

切つてしまつたので知らせてもよいと思つたのです。

証人がペンチを取りに店に入つた時、店の電灯はついていたか。

どうであつたか、はつきりしません。

警察の人に知らせてからどうしたか。

警察の人は、どこが切れとんなあ、と言うので、案内して又屋根の上へ上がり、ここだと言つて切れている所を教えました。警察の人はそれを見て黙つていたので、私はもうよいのかと思つて、その切れた線を継ごうとしました。

なぜ継ごうとしたのか。

晩が来たらまた電灯が要ると思つたからです。

証人が線を継ごうとすると、警察の人は何かいつたか。

私が線を継ごうとして、手に持ちかけると、警察の人は、証拠になるから置いとけ、そのペンチを貸せ、というので持つていたペンチを渡しておいて屋根からおり店に帰りました。

証人はその電灯線を継がなかつたのか。

その日警察で調べを受け、帰つてから継ぎました。

どのようにして継いだか。

店にあつた一尺ちよつとの電線を切れている線の両端につなぎ合わせ、ペンチでねじて継ぎました。

藤掛検事

証人は電灯線か電話線を切つてはいけないということを知つていたか。

電線を切つたら悪いことは判つていました。

すると被告人から切つてくれと言われた時、証人としては内心いやだつたと思つたのか。

暗い時屋根へ上がらなければならないので、いやだつたと思いました。

被告人に対し、いやだと言えなかつたのか。

その時奥さんに切れ物を突き付けられていたので、恐ろしくて、いやとは言えなかつたのです。

もし、いやだと言えば、被告人に突き刺されると思つたのか。

そこまでは考えませんでしたが、私としては線を切るようなことはしたくありませんでした。

(ロ) 原第一審第三回公判

村上検事

証人はこの電線を知つているか。

後に証拠調を請求すべき電線(長さ約五〇センチメートル)一本を示す(取調後、刑一四号証として領置された)

見覚えがあります。この事件の時、私が切つた電線を私がつないだ際に使用した電線です。

藤掛検事

証人が電灯線を切断して後、警察の人に電灯線が切れていると言つてその現場へ案内したのは、証人からそう言つたのか、又は先方から案内してくれ、と言われたのか。

私から先に言いました。

その案内をした時の証人の服装はどうか。

洋服を着ていました。

その時証人は何か持つていたか。

ペンチを持つていました。

ナイフはどうか。

ナイフは持つていませんでした。

(ハ) 原第一審検証期日(二九年一二月五日)における証人尋問

村上検事の問に対し

一、私は阿部が出て行つて後、土間の出入口に近い方に置いてある自転車のそばに立つて、道路の方を向いていましたが、その時奥さんが私の横腹に匕首を突き付けて、電話線と電灯線を切つてくれと言つたのであります。

一、電話線、電灯線を切るべく屋根へ上がつたこと、切つた状況については、前に証言したとおりです。

一、私は電話線を切つてから屋根からおりて来て、奥の四畳半の間の入口で匕首を奥さんに渡しました。

一、私が大道から帰つた時には表には誰もいませんでした。私は自転車を店の前へ置いて店の中へ入り、土間の東側の窓の上にあつた修理台の棚の上に置いてあつたベンチを持ち、外に出ました。ペンチを取りに入つたのは、奥さんに言われていた電灯線を切るためでした。(中略)私は屋根に上がろうと思い、新館の足場へ上がりかけますと、新開さんに危いぞといがられたので、やめて店の中に入り、ペンチを陳列台の上に置いて外に出ました。

(ニ) 原第一審第一一回公判

松山弁護人

証人は被告人から電話線と電灯線を切れと言われただけで、どこの線を切れとは言われなかつたか。

どこの線を切れとは言われませんでした。

それに証人はなぜ屋根へ上がつて行つたのか。

下では切るといつても切る所はないので屋根へ上がりました。

証人はどこに引込線があるか判つていたのか。

道路の電柱から引込んでいるのですが、それが家のどこから引込まれているか判りませんでした。

証人はそれまでに電灯線とか電話線を屋根の上へ上がつて切つたことがあるのか。

ありません。この時が初めてです。

電話線は室内でも切れるのではないか。

室内では切れないと思いました。

証人が屋根へ上がつた頃には店には誰が来ていたか。

誰も来ていませんでした。

証人は屋根へ上がつてどちらを切ろうとしたのか。

電灯線と電話線の両方を切ろうと思つて屋根へ上がりました。そして先ず、電話線の引込線が判つたのでそれを切りました。それから電灯線を切ろうと思つて、そこから少し下の方にある電灯線の引込の所へ行きましたが、あまり線が太かつたので、刃物は当てずに、線を見ただけで切るのを止めました。そして前に上がつた足場を渡つておりました。

証人が屋根へ上がつた時は、まだ暗かつたか。

薄暗かつたです。

すると電話線とか電灯線の引込が、どんな状態になつていたか、肉眼で見えなかつたのか。

そうです。それで懐中電灯で照らしました。

屋根からおりてからどうしたか。

屋根からおりて店へ入り、四畳半の間にいた奥さんの所へ行つて、切つて来ましたと言つて匕首を奥さんに返しました。

電話線と電灯線も両方切つたと言つたか。

両方切つたとも片方切つたとも言わず、ただ切つて来ましたと言いました。

屋根へ上がる時持つて行つた懐中電灯は、自分で探して持つて行つたのか。

そうではなく、奥さんから匕首と一緒に渡されたものです。

(中 略)

証人が電話線を切つた時、電話線は手でもんで折り曲げられる位弛んでいたか。

そんなには弛んでいませんでした。

しかしねじ曲げてある所をねじ戻すと、少し弛むので弛めて切りました。証人が屋根からおりた時、阿部はまだ帰つていなかつたか。

帰つていませんでした。

(中 略)

それから証人は更に電線を切りに行つているが、それは服を着替えてのちか。

そうです。

今度はどこから上がつたか。

新館の階段を上がり、新館から屋根へ出ました。

前には足場から上がつたのに、今度はなぜ新館から上がつたか。

新館の方が上かり易いからです。

前にはなぜ足場から上がつたのか。

暗かつたからです。

電灯線を切りに上がつた時は、人が大勢いたと思うが、怪しまれるとは考えなかつたのか。

何とも考えませんでした。

電灯線を切つてから下へおりて店へ帰つたのか。

そうです。

店へ帰つてから警察官に電灯線や電話線が切れていることを告げたのか。

そうです。

ペンチはどうしたか。

服のポケットへ入れて持つていました。

証人が電話線などが切れていると言つたのに対し、警察官は何と言つたか。

何も言いません。私が現場へ案内しました。

自分が切つて自分が案内したのだが、そんなことをして怪まれるとは思わなかつたか。

そんなことは考えませんでした。

(ホ) 原第一審第一二回公判

藤掛検事

証人が被告人から匕首を渡されて電線を切つて来いと言われた時、どの辺を切つて来いということは言われなかつたのか。

その点は現在記憶がありません。

できるだけ根元の方から切つて来いという話はなかつたのか。

その点については、前に検察官に対して述べた調書のとおり間違いないと思いますから今は憶えておりません。

すると、前に検察官に対して今のように言つているとすればそのとおりか。

検察官の取調を受けた時には記憶が新しかつたので、そのとおり間違いないと思います。

(ヘ) 原第二審検証期日(三一年八月二九日)における証人尋問

裁判長

(刺身庖丁を)捨てに行く前に屋根へ上がつて電話線や電灯線を切つたことがあるか。

切つたことがあります。

何で切つたのか。

電話線はドスで切り、電灯線はペンチで切りました。

どちらを先に切つたのか。

電話線を先に切りました。

電話線を切つた刃物はどうしたか。

すぐに奥さんに渡しました。

(ト) 原第二審第三回公判

岡林弁護人

君には(被告人は)何と言いましたか。

私には電灯線を切れと言いました。

電話線はどうですか。

電灯線と電話線を切れと言われました。

どういう理由で切れとは言いませんでしたか。

なぜ切れとは言いませんでした。

前になぜ切る気になつたかと問われたのに対し、茂子から匕首をつきつけられて怖ろしかつたからなどと答えていますが、そんなことがあつたのですか。

そんなことを言つたか覚えません。その折に証人は断わればよかつたではありませんか。

使われる身としたらそうも出来ませんでした。

それで切つたのですね。

表の方の足場から上がつて、電話線を切りました。

おりて来てどうしましたか。

奥さんが四畳半に座つていたのでそこへ行つて、切つて来たといつて奥さんに匕首を渡しました。

なぜ電話線だけ切つて来たと言わなかつたのですか。

後で切つたら同じことだと思つたからです。

どうして電灯線をその時切らなかつたのか。

匕首では電話線がやつと切れた位だから、電灯線は切れないと思つて止めたのです。

ペンチで切ればよいではないか。

後でペンチを持つて行つて切つて来ました。

なぜ復命する前に切らなかつたか。

……(沈黙)前の調書の方が合つていると思います。

他に用意もないのに、その時すぐ切ればよいのではないか。

……(沈黙)

どうして匕首を茂子に戻したのか。

預つたのだから戻さないかんと思つて戻しただけです。

(中 略)

茂子から電灯線の切る場所を聞いたか。

聞きませんでした。

なぜ屋根の上に上がつて切つたのか。

店から外へ出たら屋根の上に見えたので切つたのです。

電線がある場所は前から知つていたのか。

知つていました。

電話線の方はどうか。

覚えていません。

電話線の方を先に切つたのだね。

そうです。

どのようにして切つたか、匕首の先の方で切つたのか。

鋸で切るように刃で引いて切りました。

電話線を切るのなら受話機の所の線を切ればよいのではないか。その時の気持を言つて下さい。

何の考えもありませんでした。

裁判長

茂子から屋根の上へ上がつて切つて来いとは言われなかつたか。

言われませんでした。

それであれば何回も屋根の上へ上がつたのだから、何らか自分で判断したのではないか。

覚えていません。

(チ) 原第二審第九回公判

岡林弁護人

証人は昭和二八年一一月五日朝切れているということを警察官に話し、警察官を案内したのは電話線だけでしたか、それとも電灯線もであつたのですか。

ちよつとそれは覚えていないのですが……

電話線が切れていることは、その時証人は知らなかつたのではありませんか。

それは知つておりました。

電話線が切られていることには気づかなかつたと二九年七月五日の調べで述べていますが、どうですか。

それはやはり前に述べている方が正しいと思います。

前に言つたと言つても何回も述べているのですが……

現在の記憶ではどうですか。

(考えて答えない)

二九年八月五日湯川検事の調べで、電灯線が切れていますと言つて警官を案内し、電話線のことは言わなかつたと述べていますが、どうですか。

思い出せません。

石川幸男には言葉では電線を切つたと話したのですか。

電線と言つたと思います。

証人は電灯線は切つたが電話線は切らないと言つたあとで、それは、嘘だつた、実は電灯線も電話線も切つたと言い直し、更に再び電話線は切らないと否認している。そしてなぜそう言いかえたのかの理由として電灯線のことは石川にも話してあるから否認しても否認出来ないと思つたが電話線のことは言つていないので言い逃れが出来ると思つたからだと二九年八月三日の藤掛検事の調べに述べていますがどうですか。

……(沈黙)

石川さんは電灯線を切つたとだけ話したのではありませんか。

(考え、黙して答えない)

二九年八月五日湯川検事に、電話線は阿部が切つたのではないかと思うと述べたことがありますか。

そういうことは言つていないように思います。

(中 略)

松山弁護人

三枝の家から斎藤病院へ行く途中にスタンドがあり、その東に板囲いがありますね。

はい、あります。

あの板囲いの附近で茂子と話したことはありませんか。

記憶しません。

あの附近で奥さんから両方とも切つたかと言われ、電話線だけ切つたと答えたことはありませんか。

……(沈黙)

電話線だけ切つたと話したら、早よう電灯線も屋根へ上がつて根元から切つてくれと奥さんから言われたことはなかつたですか。

場所は忘れましたが、そういう話はしたように思います。

村上検事の二九年七月二一日の調書によると、そうなつているのだが、そういうことはあつたのですね。

……(沈黙)

村上検事に調べられた同じ日に、湯川検事にも調べられたのですね。

記憶しません。

村上検事には、電話線も切つたし、また後で電灯線も切つたと述べたが、あれは間違いだつたと言い直しているが、どうしてですか。何か特別に湯川検事から呼ばれたのですか。それとも証人の方から調べ直しを求めたのですか。

覚えていません。

その翌々日の調べにおいては、やはり電灯線は切つていないと述べ、電話線は切つたとか切らないとか言つたりしているが、どうしてこのように供述がぐらついているのか、何かそれにわけがあるのか。

……(沈黙)

(中 略)

検察官

奥さんの茂子から頼まれて証人が電話線と電灯線の両方を切つたことに間違いはないのですか。

間違いはありません。

ナイフで切り込みを入れてペンチで切つたのですか。

そうです。

合田裁判官

電灯線と電話線はどちらを先に切つたのか。電話線を先に切りました。

どのようにして切つたか。

匕首のようなもので切り込みをつけてから、ペンチで切りました。

電灯線はどうか。

電灯線は庖丁で切り込みをつけてペンチで切りました。

庖丁と言うと、どんなものか。

ナイフです。

そのナイフというのは、どのようなナイフか。

普通の鉛筆を削るときに使うナイフです。

それは、どこにあつたか。

店の道具箱かウインドの上にあつたと思います。

使つてからそのナイフはどうしたか。

元あつた所へ戻したと思います。

二九年検察庁で調べられたとき、そのナイフのことについて聞かれたか。

記憶にありません。

屋根の上へはその日の朝何度上がつたか。

三回位上がつたと思います。

どんな用で上がつたのか。

一回目は電話線を切つた時に上がり、二回目は電灯線を切る時に上がり、その次に警察の人を案内して上がりました。

その他にその朝屋根へ上がつたことはないか。

それだけしか覚えておりません。

証人は修繕はしなかつたのか。

修繕した記憶はありません。

警官を案内した折、すぐ証人が継ごうとして、警官に止められたようなことはなかつたか。

……(沈黙)

証人は自分で線を持つて来て修繕したのではないか。

覚えていません。

一回目に屋根の上へ上がるとき近所の人から危いぞと言われたことがあるか。

新開のおじさんからそう言われました。

屋根の上に上がつているのを阿部に見られたことはないか。

私の記憶では、阿部に見られたことはないように思います。

3 西野証言の内在的疑問点

(一)  以上のような西野の証言に対しては、その内容自体から既に疑問が抱かれる点が少なくない。

その最も基本的なものは、被告人が何のために西野を使つて電灯線や電話線を切らせたのかという疑問である。

被告人が亀三郎殺害の真犯人であつたと仮定すれば、これを外部犯人の仕業と見せかけるべく焦慮することは当然としても、そのためにもともと他人である西野に、犯跡をくらまそうとする意図が見えすいた偽装工作を頼むのは、自ら墓穴を掘る危険が余りにも大き過ぎると考えるのが自然であろう。

この点につき原第一審第九回公判においてラジオ商を営む堤藤子は、同人方に二八年夏ごろ盗人が入り、ラジオ五台が盗まれた際、電話線が受話器から五〇センチメートル位のところで切られていた事実があり、二ケ月位後に被告人が「うちにも賊が入つた」と電話してきた時、被告人にその話をしたと証言している。検察官は被告人が堤の話からヒントを得て、電話線などを切らせることを思いついたのであろうと指摘する。

しかし右のような事実があつたとしても、特に信頼すべき理由もない西野に夫殺しという致命的な秘密を握られることの危険を、被告人があえて冒したであろうか。仮に然りとすれば被告人は犯行直後ことさらに電灯線も電話線も切られているように装いつつ、一方では隣家に警察への通報を求めながら、間もなく警察官が来ることが当然予想される時に、西野に露骨な偽装工作をさせたということになるのであつて、いかにも現実性が乏しい想定と言うべきである。なお検察官の主張によれば被告人はこの外にも凶器である刺身庖丁を捨てるという重大な証拠隠滅工作を西野に実行させているが、事件後の被告人の態度には特に西野を懐柔しようと努めた形跡がうかがわれず、むしろ些細なことを厳しく叱つて、店をやめてもよいとまで言つた事実が認められ、西野に弱みを握られているという意識があつたとすれば、このような態度は理解し難いものである(西野の湯川検事に対する二九年八月二日付及び藤掛検事に対する同月四日付、阿部の村上検事に対する同年七月二九日付及び藤掛検事に対する同年八月一八日付並びに被告人の同検事に対する同月二九日付各供述調書、阿部の原第一審第一二回及び原二審第四回公判における各証言)。しかも検察官の主張を前提とすれば、被告人は事件直前に匕首の柄に糸を巻く手伝いを阿部にさせ、その匕首をわざわざ事件現場に放置したというのであるから、阿部に対しても到底気を許せぬ道理で、西野のみならず阿部の口をも封じて置かなければならないという状況において、西野に対し右のような態度で臨んでいるのである。

(二)  被告人が西野に切断の道具として匕首を渡したということにも疑問がある。三枝方には電線を切るための道具はいくらでもあるはずであり、かつ西野自身が検察官に対して述べているとおり、「(電灯線を切るには)ペンチだけで切る方が早い」はずであつて、匕首はむしろ不適当と思われるのに、何のためにわざわざ匕首を使わせたのであろうか。

なお検察官は、西野が匕首で電話線を切断したことの裏付けとして、現場で発見された匕首(刑一号証の一)の刀身に微量の銅が付いていた事実を指摘する。

確かに佐尾山明作成の二八年一二月三日付鑑定書には、「刀身の尖端部に近い部位に銅と思われる金属的光沢を認め、その部分の刃がこぼれていた」旨の記載があり、同人は原第一審第一四回公判において、右匕首の尖端部付近に銅が付着していたと証言している。

しかし富田功一及び山村醇一作成の二九年八月一四日付鑑定書によれば、警察庁科学捜査研究所光学課技官山村醇一が発光分光分析による検査をした結果、匕首の表面に極めて微量の銅または銅化合物が付着していた可能性はあるが、厳密に定量的に分析することは出来ず、銅または銅化合物の存在を確認することも出来ないと結論していることが認められ、必ずしも銅が付いていたと断定は出来ないし、仮に微量の銅が付いていたとしても、その原因が電話線を切つたことにあるとは限らないから、検察官の右指摘はさほど重視することが出来ない。

(三)  西野が最初に電話線を切つた時、同じ屋根の上にある電灯線を切るのを後まわしにし、かなりの時間を隔てて、被告人が入院した後にようやくこれを実行したというのも、容易に納得出来ない点である。西野が電話線を切つた後、すぐに電灯線を切らなかつた理由については、後記のとおり捜査段階における供述と公判証言との間に不一致があり、この点にも問題があるが、一応公判証言のとおり、匕首では電灯線は切れなかつたからだという理由を是認したとしても、西野が被告人の指示に従つて電灯線も切る気になつていたとすれば、少しでも人目にかかる危険が少ないうちに実行を急がなければならないはずなのに、被告人に再度の指示を求めることもせずに時を過し、被告人が入院し、あたりが明るくなつて、捜査員が詰めかけている状況に至つて、見とがめられる危険を冒して電灯線を切りに行つたというのは、いかに西野が愚直な少年であつたとしても、不自然というべきである。

西野が大道へ使いに行く途中、わざわざ両国橋派出所に立ち寄り、武内巡査らに賊が入つたからすぐ来てくれと告げていることが、その後に電灯線を切断しようという意図と、心理上両立し難い関係にあることにも注目すべきである。

もつとも徳島電話局長作成の徳島地方検察庁宛二九年七月一二日付「電話故障判明時刻等についての回答」と題する書面によれば、事件当日の午前五時五〇分ころ、二一一九番(三枝方の電話番号)に対し通話の請求があり接続したが応答がないので試験の結果電話線が切れていることが午前六時二分に判明した事実が認められ、また原第二審第二回公判における尾木伝六の証言によれば、同人が事件当日市民病院の宿直医師として勤務中、午前五時半頃阿部がきて三枝宅への往診を求めたので、患者の症状を知るため阿部に三枝へ電話をかけさせたが通じなかつた事実が認められるから、三枝方の電話線が午前五時五〇分以前に切断されていたことは確実である。一方前記のとおり午前六時一〇分頃に坂尾安一が来て三枝方の電灯の明りがついたのであるから、電灯線の切断がそれ以後のことであると想定する以上は、電話線と電灯線の切断が同時であり得ないことが明らかである。すなわち西野による電灯線・電話線の切断という事実を前提とする限り、電灯線の切断は電話線の切断よりもかなり後のことでなくてはならない。

西野の公判証言は一応右の要請をみたしているが、果してそれが真実の体験にもとづいているか否かは、別個の問題である。

(四)  もう一つの著しい疑問は、西野が大道へ使いに行く前に、屋根に上がつて電話線を切るだけの時間があつたかという点である。

前記のとおり、当日午前五時二〇分頃、徳島市警察署から両国橋派出所に事件発生の電話連絡があり、西野が同派出所に立ち寄つたのは同二五分頃である(原第一審第五回公判における森本恒男の証言)。また田中佐吉は、原第一審第四回公判及び原第二審第五回公判において、三枝方からの依頼で自宅から市警に事件発生の通報を電話でした時、両国橋派出所に連絡するとの返答があつたことを証言している。田中が通報依頼を受けたのは、両国橋派出所への電話連絡があつた時刻から逆算して、午前五時一五分前後、恐らくは同一六分頃のことと見るべきであろう。一方、西野、阿部が事件発生以来、偽証告白の前後を問わず、一貫して述べているところによれば、被告人の言い付けで田中方に電話を頼んだのは阿部であり、その後右両名は、雨戸の桟と柱のそれぞれ上下二箇所に釘を打ち、その釘を内側からワイヤーロープで縛り付けて戸締まりしてある店の表出入口(前記の原第一審検証期日における西野、阿部の各証言)を開けてから、阿部が自転車で市民病院へ使いに出たというのであるから、田中方への通報依頼から西野が被告人に電話線や電灯線の切断を命じられるまでには、少なくとも三、四分経過していると考えてよい。

次に西野が自転車で三枝方を出てから両国橋派出所に行くのに要する時間を考えると、的確な証拠はないが、西野が同派出所に着いた午前五時二五分以後に同所を自転車で出た武内巡査が同三〇分より少し前に三枝方に着いていることが認められるから、二分そこそこの距離とも思われるが、西野が派出所に寄る前に両国橋の上から刺身庖丁と思われる物を川に捨てていることを一応前提として考えると、三分位はかかつたと見るべきであろう(西野の公判証言の真実性を認める立場からすれば、右の前提を放棄することは自己矛盾である)。そうだとすれば西野は遅くとも午前五時二二分頃には三枝方を出ていなければならない。

以上の想定が正しいとすれば、西野が被告人に匕首を渡された時から電話線切断を終えて三枝方を出るまでの時間は、最大限に見積つても五分足らずであり、極端に少なく見ればゼロに近くなつてしまうのである。

仮に五分近くはあつたとしても、それだけの時間内に日の出前の暗がりの中で工事中の足場を伝つて屋根にのぼり、電話線を探して切断し、再び足場伝いに下に戻つて被告人に匕首を返し、次の指図を受けるという行動が可能であつたか否か、相当に疑わしいとしなければならない。

(五)  西野が電灯線を切つたという時刻がいつのことになるのかも問題である。

原第一審第二回公判における証言によると、西野は被告人の入院後、まず寝具を病院に運び、次に七輪を買いに行つてそれを病院に届けてから店に帰つて寝巻を着換え、顔を洗つてから電灯線を切りに行つたというのであるが、右七輪を売つた椎野猛の村上検事に対する二九年八月六日付供述調書には、「私方ではいつも南新町の木村屋というパン屋が大体正確に午前六時半頃パンを運んで来て私らを起してくれる。三枝方の事件があつた日もいつもと同じ頃パン屋が来て私方の陳列台にパンを入れて帰つてから間もなく顔見知りの三枝方の店員が七輪を買いに来たので、その時刻は六時四〇分から七時位の間のことと思う。」と記載されている。西野の証言によれば、「斎藤病院は店から五〇メートル位で、椎野の店は斎藤病院の向いの野崎ミシンの隣り」というのであるから、行き来に手間取ることはないにせよ、椎野の右供述によれば西野が電灯線を切断したという時刻は早くて六時五〇分頃、遅ければ七時過ぎとなるはずである。

司法警察員巡査田所弘作成の二九年六月一二日付捜査報告書によれば、事件当日の午前六時頃から外勤勤務者及び刑事らが相次いで三枝方に到着すると共に、数十人の見物人が集り始め、午前六時三〇分頃には三枝方前に人垣が出来、黒山の人だかりとなつていた状況がうかがわれることからすると、早くても六時五〇分頃に電灯線を切断したという結果になる西野の証言は甚だ疑わしいと言わざるを得ない。

更に電灯が一旦ついたのち再び消えた時期に関する前記の各証拠によると、電灯が消えたのは遅くとも六時三〇分よりは前のことである公算が大きく、従つて西野が電灯線を切つたということとは無関係なのではないかという疑問も生じる。

4 公判前の西野供述の変転

以上みたとおり、西野の原第一、二審における電灯線、電話線切断に関する証言には、その内容自体からして、にわかに信用し難いものがあるが、更にさかのぼつて捜査段階における同人の供述をつぶさに検討し、その変化の跡をたどつてみると、事件直後の供述は一応別として、同人が電灯線等の切断を自己の行為として認めた時以降の供述に限つてみても、その内容は取調の都度重要なポイントで目まぐるしく変転し、前後のくいちがいが甚しいことに注目せざるを得ない。

まず西野が電灯線等の切断を認めた最初の供述調書は二九年七月二一日に録取され、同人はこの日午後九時四五分に、電気及びガスに関する臨時措置に関する法律(公益事業令)違反及び有線電気通信法違反の容疑で逮捕されたのであるが、同日付の村上検事に対する供述調書では、公判廷の証言では印象的体験の如く語られている被告人から匕首を渡されたくだりは全く現れず、被告人が屋根へ上つて電灯線と電話線を切つてくれと頼むので、修理台のところからニッパーかペンチを取つて屋根に上がり、電話線を切断し、後に被告人が入院してから再び屋根に上がつて、前同様ニッパーかペンチで電灯線を切断したとの供述が記載されている。電灯線を切ることを頼まれながら、これを後まわしにした理由は、電灯はまだこれから要るかも知れないと思つたことと、電灯線が店の看板の裏側にあるので、後で切りに行つても人目に触れるおそれがほとんどないと思つたことによるという。

このように電話線と電灯線の切断が同一の機会にではなく、最初に電話線、次に電灯線の順で、かなり長い時間を隔てて実行されたという点は、西野の公判前の供述及び公判証言において、ほとんど唯一の一貫している点であるが、ここで西野が述べているその理由は、公判証言とは大いに異つている。

かつ検察官は当時既に前記の同月一二日付徳島電話局長の回答によつて、電話線の切断が午前五時五〇分以前でなくてはならないことを知つていたのであるから、その事実と矛盾しない供述を西野から得るために、何らかの誘導をした可能性が考えられ、西野がここでいう電灯線切断を遅らせた理由が心理的に納得し難いこと、すなわち事件の発生が既に警察に通報され、今にも警察官が駈けつけてこようという時に、電灯線の切断を全くやめるのならともかく、これからまだ電灯が要るかも知れないと思つたり、明るくなつてから人目を忍んで屋根に上がり、電灯線を切ろうと考えたりするのは、いかにも不自然であることにも着目すると、右調書に録取された西野の供述の信憑性は甚だ乏しいというべきである。

なお右調書には、被告人が斎藤病院に入院すべく出かけた時、西野が寝具を持つて被告人のあとを追い、路上で追いついて、被告人から電灯線と電話線を両方とも切つたかとたずねられ、電話線だけ切つたと答えたところ、電灯線を早く出来るだけ根元から屋根の上で切つておくよう頼まれたので、店に帰つてニッパーかペンチで電灯線二本のうち一本を切つた旨の記載があるが、被告人が斎藤病院へ行く時には、近所の石井アキヱ(石井雅次の妻)と亀三郎の長女三枝登志子とが、被告人を左右から抱きかかえるようにして付き添つていたことが明らかであり(石井アキヱの原第一審第四回公判における証言及び検察事務官に対する二九年七月三〇日付供述調書)、被告人と西野が右のような問答をかわす機会はあり得ない。検察官も右供述の不合理に気づいたと思われ、その後の西野の供述からは右の問答のくだりは消え去つているが、かように明らかな虚構が含まれていることからしても、右供述調書の内容が西野の現実に体験した事実にもとづくと言えるか否か、大いに疑問である。

以上のとおり西野は村上検事に対して、電話線と電灯線を切つたのは自分であると認めたのにかかわらず、その直後、同日中に行われた湯川和夫次席検事の取調に対しては、電話線の切断を否認し、電灯線のみを被告人に頼まれてペンチで切つた旨供述している。

翌々日である七月二三日付の村上検事に対する弁解録取書の内容も、ほぼ同様である。

同日付検事に対する供述調書(二通)では、電灯線をペンチで切つたこと、夜が明けてから警察官に電灯線が切れていることを知らせ、現場に案内したこと、その時ペンチを持つて行き、切断箇所をつなぎ合わそうとして警察官に制止されたこと、その警察官が切り口を証拠品として採取したらしいこと、それからしばらくして、切れている電灯線の両端の被覆をペンチで剥ぎ、修理用に持つて行つた別の電灯用電線も同様にして、右電線の両端と切れている電灯線のそれぞれの切れ端とを互いにねじり合わせてつなぐ方法で修理したこと、領置されている証拠品の電線(前記刑一四号証)は、両端をそれぞれ別の線とねじり合わせてある恰好から、自分がつないだものに相違ないと思うこと等を述べている。

翌七月二四日付村上検事に対する供述調書では、再び電灯線と電話線を切つたことは間違いないと認め、「このことは被告人がつかまるのが気の毒だつたのと、被告人が口達者なので言い負かされる心配があつたために、今まで隠してきた。被告人は私に屋根に上がつて電線をできるだけ根元から切つてくれと頼み、次に大道へ行つて皆を起して来てくれと言つた。しかしまだ外は相当暗く、一人で屋根に上がるのはおそろしかつたのと、被告人は強盗が入つて主人をやつたようにごまかそうとしているのではないかという考えが浮んだので、すぐ電線を切りに行く気にならず、後まわしにして先に大道へ行つた。大道から店に帰り、紀之、登志子、斎藤病院の医師と看護婦が来てから、大勢人がいるので心丈夫になり、ニッパーを持つて外へ出ると、阿部が市民病院から帰つて来たので、まずいと思つて立つているうちに、阿部や市民病院の医師が中に入り、近くに誰もいなくなつたので、足場を伝つて屋根に上つた。被告人は電線を切つてくれと言つたが、私の判断で、まず電話線をニッパーで切り、次に電灯線を切りかけたが、ニッパーではなかなか切れないので、また機会があれば切ろうと思つて下におりた(すなわち被告人の単に屋根の上の電線を切れという指示を西野が自主的に電話線、電灯線の双方を切れという意味に解釈したのである)。電話線は遅くとも午前五時五二、三分までに切つたと思う。被告人の入院後、六時三〇分過ぎと思う頃、ペンチを持つて屋根に上がり、電灯線を切つて、すぐ私服警察官に「電線が切れとる」と知らせ、その現場に案内した。警察は私のペンチを使つて電線の切り口を切り取つたよう思うが、私が警官に命じられて切り取つたのかも知れない。私はその後警察署に行つたが、その前に電灯線の補修をした。」との供述をしている。

ここでは電話線を切つたのが大道から帰つた後であるという重要な供述の変更をしながら、なおそれを午前五時五〇分以後のこととはなし得ないという検察官の要求と矛盾しないように、大道への往復に要する時間を算定して、辛うじて客観的証拠と抵触を免れようとした意図がみられる。このことは検察官が西野の供述を出来るだけそのまま録取しようとした結果とも見られるが、右の供述変更は結局一回限りで終り、その後の供述調書では公判証言と同様に、電話線を切つたのは大道へ行く前となつているのであつて、このように記憶違いの結果としては理解しにくく、自己または他の何人かのためにする意図に出たとも考えられない供述の変転が再三生じるのは、真の体験にもとづかない架空の筋書を、取調べの都度その場限りにひねり出しているからではないかという疑問を、再び生じさせるものである。

七月二六日付野中勇副検事に対する供述調書に至つて、またも重要な供述変更が生じ、公判証言で述べている「被告人から匕首を渡され、これで線を切つてくれと言われた」旨の供述が初めて現れるが、電話線を切つたのは大道へ行く前ということに戻る。かつ被告人は単にこれで線を切つてくれと言つただけであるのに、西野は問い返しもせず屋根に上がつて電話線を切つたというのであるが、その理由は明らかにされていない。被告人も匕首を返しにきた西野に対し、どの線を切つたかとも聞かず、すぐ西野を大道へ使いにやり、西野が使いから帰つてから「電灯線も切つてくれ。できるだけ根元から切つてくれ」と頼んだというのである。しかし、この時には既に武内巡査が来ていたはずであり、そのような話をする機会があつたとは考えられない。

匕首については、西野は公判廷では、あたかも被告人がこれを同人に突きつけて脅迫したような印象を与える証言をし、「奥さんに切れ物を突き付けられていたので、恐ろしくて、いやと言えなかつた」(原第一審第二回公判)と述べている位であるから、このような体験についての記憶が九箇月位の時の経過によつて薄れるとは思われないのに、西野がここで初めて匕首の話を持ち出しているのは不可解というべきであるが、その理由は説明されていない。切断の方法については、被告人から受取つた匕首を鋸のように使つて電話線一本を切り、電灯線はその後ペンチで切つたと述べ、電灯線をペンチだけで切つたという点を除けば、ほぼ公判証言に一致している。

その後八月二日付の湯川次席検事に対する供述調書では、再び電話線は絶対に切つていないと否認し、阿部が切つたのではないかと述べるが、翌三日付藤掛検事に対する供述調書(二通目)で右の否認を撤回し、「電灯線を切つたことは石川幸男に話してしまつたので、否認しても通らんと思つたが、電話線を切つたことまでは誰にも話していないので、少しでも罪が軽くなるようにと思つて否認した。被告人が匕首のみねで私の腰を軽く打つたので、それで突かれるのではないかとびつくりした。被告人は「これで電話線と電灯線を切つてくれへんで」と言つて私に匕首を渡した。(中略)電灯線を切つてしまつては明りが要る時に困るだろうと思つて、電灯線だけは少し夜が明けて明るくなつてから切ろうと思つた。(中略)被告人からはつきり頼まれたのに電灯線を切らずに置くと後から叱られてもいかんと思つた。」などと述べている。

翌八月四日付藤掛検事に対する供述調書では、電灯線の切り方を詳しく語り、「ペンチで電線を力一杯はさんで握りしめ、二、三回最後にねじるようにすると、中の銅線が切れたような手応えがしたので、ペンチを外して電線を手でさわつて見ると、まだ被覆が切れていなかつたので、もう一度ペンチではさんで二、三回後ろへ引くようにして被覆を切つたことを覚えている。」と述べる。

しかしながら右の供述も、九月三日付村上検事に対する供述調書で、次のように訂正される。

すなわち西野は、「これまで述べたうち、ただ一つ気にかかる事があつたので、その点を付け加えておきたい。」と前置きして、「電灯線はペンチで切つたようにこれまで述べてきたが、実は電線を切ろうと思つて修理道具を置いてあるところからペンチ一個とナイフ一丁を取り出し、はいていたズボンの左ポケットに入れて屋根に上がり、電灯線を左手に持ち、すぐその前に左ポケットからナイフを取り出し、ナイフを右手に持つて電灯線の被覆を切るため力を入れて押しつけるようにし、一、二回切り込み、そこからぐるつと被覆線全体を切り廻すためナイフを廻した。そして中の銅線にナイフで切り込んだが、簡単に切れなかつたので、今度はペンチを取り出して切り込んだ所より少し離れた所で電線をペンチではさんでつかみ、銅線を何回も折り曲げるようにこねくり回したら、銅線が折れたように思う。この電線を切るときのやり方はナイフとペンチを両方使つた記憶は明確で、本日述べたことが一番正しいという記憶があるので、この点付け加える。自分は今日家裁で保護観察処分になつたばかりで自由な身であり、今日述べたことは誰からも圧迫やこう言えと言われたりして述べたものではなく自分の本心から述べた正しいことである。なお裁判官に対してや検察庁で、これまでペンチだけで電灯線を切つたように述べたのは、ペンチとナイフの両方を持つて屋根に上がつたので、ペンチだけで切る方が早いはずだから、ペンチで切つたのではなかろうかと考えてそのように述べたものだが、よく当時の記憶をたどつてみると今日のが正しいと思うので申し添えた次第である。」と述べている。

西野が公判証言で、ナイフとペンチで電灯線を切つたと述べているのは、おおむね右供述を踏襲したものであるが、右供述中でその記憶の確かさと何人の誘導をも受けていないことをわざわざ強調していることは、全くその逆の実情を暗示しているように思われる。これまでの供述の経過に照らして、西野の脳裡にここで明確な記憶が自らよみがえつてきたとはほとんど考えられないが、同人の記憶の正確性如何にかかわらず、検察官にとつて右の供述変更が客観的証拠との矛盾を避けるために必要であつたことは、二九年九月一一日付の科学捜査研究所技官大久保柔彦作成の鑑定書によつて知ることが出来る。右鑑定書によれば、「電話線と電灯線は、いずれもナイフ状工具によつて切り込みを与えたのち、繰返して曲げを与えて切断したものであり、いずれも切断面の観測においてペンチ又はペンチ様工具を使用した切断痕はなく、ペンチ又はペンチ様工具を使用したものではない。」と判定されている。右鑑定は同年八月三〇日に終了した旨の記載があるので、検察官がその頃右結論にそわない西野の「ペンチで切つた」という従来の供述を変更させる必要を認識していたことは、推認するに難くない。

もつとも同年七月二八日に受信された東京地方検察庁次席検事より徳島地方検察庁次席検事宛法務電信は、「大久保技官の鑑定結果を聴取するに資料たる電話線の一本にナイフで切り込んだと思われる明瞭な痕が二個、電灯線の一本にナイフで切り込んだと思われる軽い痕が二個あり、資料たる電線類の指示切断面はナイフで切り込んだ上折り曲げて切断したものと思われる。右切断面はペンチその他の工具によつて切断されたものとは認められず、ナイフで切り込んだ上折り曲げて切断する以外の切断方法は考えられない。」との内容で、検察官は既に七月末ころから大久保技官の鑑定結果と西野の「電灯線をペンチで切つた」という供述とのくいちがいが生じる可能性を認識していたことが認められるけれども、その後同年九月一日付で徳島地方検察庁次席検事より東京地方検察庁特捜部伊藤検事宛の「本年八月一一日付貴官を経て電信で国警科学捜査研究所に鑑定を嘱託した電灯線切断の器具は匕首類であるかペンチであるかの点につき現在までに判明した結果を至急通知乞う。勾留二〇日の満期が明日になつておりますので念のため。」との電信照会がなされたことにも鑑みれば、検察官はその頃まで大久保技官の鑑定結果を確定的なものとは考えていなかつたことがうかがわれ、鑑定が終了した段階で、西野の供述が客観的事実に合わないことを確認し、これを変更させる必要に迫られたと考えることができる。

しかしながら西野は、前記供述変更を行う二日前の九月一日に施行された村上検事による検証の際には、三枝方の屋根の上でペンチを使つて電灯線を切断する状況を実演し、その写真が検証調書に添付されているのみならず、供述変更の直前に受けた家庭裁判所の少年審判においても、依然電灯線をペンチで切つたと述べているのであつて、当時の西野本人にとつては、そのような切断方法の詳細はどうでもよいことであつたと考えられるにせよ、これらの点からしても前記の供述変更が西野の「明確な記憶」にもとづいて自発的になされたと評価し得るものではなく、大久保鑑定にもとづく検察官の積極的な示唆あるいは誘導のもとに、初めてなされたものであることがうかがわれるのである。

ともあれ右供述変更によつて客観的証拠との矛盾は解消したが、電機店の店員である西野が本当に電灯線を切断したなら、西野自身「ペンチで切る方が早い」と述べているのに、人目を避けて手早く済ませなければならない作業に、なぜナイフを用いたのか、大いに疑問である。

5 新開鶴吉及び櫛渕泰次の各証言及び供述について

(一)  前記のとおり、西野は大道から帰つた後で電灯線を切るため屋根にのぼろうとした時、「新開さんのお爺さんらしい人」に危いぞと止められたので、やめて下におりた旨証言している(西野がこのことを記録上はじめて述べたのは、二九年八月四日付の藤掛検事に対する供述調書においてであつて、これによると、「寝巻のままで足場伝いに屋根に上がろうとして、新開や阿部や田中のおばさんが見ているのに気づき、あわてて飛びおりた。確かに新開に危いぞといわれたので、びつくりしておりたと思う。」と述べている)。

この点につき、三枝方の東隣りで時計商を営んでいる新開鶴吉は、原第一審第四回公判において、「被告人が病院へ出かけてから五分位して西野が寝巻のまま工事場二階へ上がろうとしていたので危いと注意したことがある。」と証言しているが、同人はその以前の二九年九月一四日付村上検事に対する供述調書中では、「三枝方に行つて店の出入口から中をのぞくと、被告人が「誰で」とどなつたので、おかしいと感じ、表でブラブラしているうちに、西野がどこからか帰つてきて、間もなく足場から屋根へ上がろうとするので、危いぞと声をかけると、上がるのをやめた。その頃阿部が医者を案内して帰つてきたように思う。」と述べており、後者によれば同人が西野を制止した時被告人はまだ家にいたことになる。西野の証言によつても、西野が新開に制止されたのは大道から帰つて間もなくのことで、被告人はまだ在宅していたということになるので、時間の点ではこれに符合する。しかし、西野は偽証告白後には、この頃屋根に上がつて切れている電灯線をつないだと述べており、新開が屋根にのぼりかけている寝巻姿の西野を見て制止したこと自体は事実であつても、そのことが直ちに西野による電灯線切断の裏付けにはならない。

(二)  次に西野の証言によれば、同人は電灯線を切つた後、すぐに店にいた私服警察官に「電線が切れとるでよ」と知らせ、屋根の上に案内して切つた箇所を示し、その際分離されている線をつなぎ合わせようとして制止され、警察官に求められるまま、持つていたペンチを渡しておいて下におりたというのである。一方、当時徳島市警察署鑑識係巡査であつた櫛渕泰次は、原第一審第三回公判において、「当日午前六時半頃三枝方へ行つたところ、店にも四畳半の間にも電灯はついておらず、被告人は病院へ行つた後だつた。まず四畳半の間で指紋検出にかかつていたが、その最中に、電灯線、電話線が切られているという話をしているのが聞こえたので、その現場をそのままにしておけ、見に行くから、と言つて指紋検出を続けたが、よい指紋が出ないので、西野と思われる店員に案内させて屋根に上がり、電話線の切断箇所を見た後、電灯線の所へ行くと、屋根に設けられた腕木から垂直に屋内に引き込まれている部分のうち一本だけが切り離してあつた。その際、西野が別に一本電線を持つており、電灯線をつなごうとしたので、現場をはつきりさせるため、そのままにしておけ、と注意した。電灯線等の切れている状況について写真撮影した後、西野のペンチを借りて切り口を採取し、後を修理しとけと言つて下におりたところ、真楽部長がおり、実地検証をするから手伝つてくれと言われ、その準備をしていると、県本部の鑑識課から係員がきたので、その鑑識の手伝いをした。」と述べ、西野の証言と大筋では一致する。

しかし右の櫛渕証言によると、三枝方に到着した時刻は午前六時半頃で、しかも店でも四畳半でも電灯は消えていたというのであるから、西野が電灯線を切つたとすれば、櫛渕の到着前ということにならざるを得ない。電灯が消えたのは西野による電灯線切断とは関係なく、それよりも前の出来事であるとしない限り、そうなる。かつ櫛渕は到着後四畳半の間で指紋検出作業をして見るべき成果がなく、その後西野と共に屋根に上がつたというのであるから、それまでにかなりの時間が経過していたはずで、その点では、西野が「切断後直ちに警察官に知らせ、切つた場所に案内した」と述べているのとは、明らかにくいちがつている。

また西野の証言では、積極的に電線が切れていると警察官に告げて案内したようであり、その際補修用電線を持つて行つたのかどうか判然としないが、ペンチだけを持つて行つたという趣旨のようであり、警察官にペンチを貸せと求められてこれを渡した後屋根からおりたと言い、「後を修理しとけ」と言われたことに触れていない(むしろこれと矛盾する)などの点で、櫛渕証言と異る節があるので、この点に関連する西野の公判前の供述についてみると、村上検事に対する二九年七月二三日付四枚綴りの供述調書では、「すつかり夜が明けてから警察官に私が電灯線が切れていると知らせると、どこかと言うので切つた場所に案内した。その時私はペンチを持つて行つたので、切れている両端の先をこのペンチではさんで、被覆をむき取るようにして中の銅線を出し、その銅線と銅線をつなぎ合わそうと思い、一つの先端を手に持ち、ちよつとつなぎ合わしますと言つたら、その警察官に、ちよつと待て、そんなことをしたらいかんと止められた。私はまだ被覆をむいてはいなかつた。警察官がペンチを貸せと言うので渡したが、その時警察官が電灯線の一部を切り取つたかどうかは気付かなかつた。その時私は警察官と一緒におりたか、私が先におりたか覚えていないが、おりてからしばらくした頃、店の表外側歩道上で、警察官が長さ四、五寸位の赤被覆電灯線二本を持つて人に見せていたので、切り口を証拠にとつたのだと思つた」旨、同検事に対する同月二四日付供述調書では、「電灯線を切つてから私服の警察官に何食わぬ顔して「電線が切れとる」というと何処かというので屋根へと案内した。この時私は切断に使用したペンチをそのまま持つていたが、警察官はあやしみもしなかつた。電灯線の切断箇所を指示してから、切れている両方の線を引つ張り寄せたら、継げる状態にあつたので、知らん顔して継ぎ合わそうと思い、切つたところを二本とも引き寄せ、一方の切り口近くの被覆を持つていたペンチで裂こうとすると、警察官が「そんなことするな。証拠になるから置いとけ。」と言つたので止めた。次いで警察官にペンチを貸せと言われたので渡すと、その警察官は両方の切り口を四、五寸ずつ切り取つたように思うが、あるいは私が警察官に命じられて切り取つたのかも知れない」旨の各記載があつて、これによると補修用電線を持つて行つたとは思われず、「後を修理しとけ」と言われたこともないようであつて、やはり櫛渕証言とは一致しない。

次に櫛渕の村上検事に対する二九年八月五日付供述調書をみると、「三枝方に着いたのは夜の明け具合から見て午前六時四、五〇分位ではなかつたかと思う。電気はついておらず、余り暗いので店員に頼んで電池を出してもらい、屋内の指紋検出にかかつたが、どこからも指紋が出なかつた。その作業中に後で西野と判つた店員が店土間から私に「電灯線が切れている」と声をかけたので、どこが切れているのかときいて同人に案内させ、西野が電話線、電灯線の両方の切断箇所を指示したので、順々に写真をとつた。当時どちらも切断されたままで、勿論継ぎ合わせや修復はされていなかつた。この時西野は電灯線を継ぎ合わせるための別の電線が電話線の継ぎ合わせ材料を持つていないのに、ペンチだけ一丁持つていた。私はその時は別に不思議に思わず、西野からそのペンチを借りて電話線と電灯線の切り口をそれぞれ二つずつ切り取つた。西野はなぜか電灯線が切られている場所に近寄つたので、切り口に触られては困ると思い、触るなと注意した。切り取つた時刻は、指紋検出に約一時間かかつたと思うので、午前七時半近くではなかつたかと思う。」と述べており、公判廷における証言とは時刻の点で大きくくいちがつている上に、西野は電線を持つていなかつたと言い、西野が電灯線を修理しようとするのを止めたとは言わず、単に触るなと注意したと言う点などでも相違がある。因みに櫛渕が証人として出廷したのは二九年一一月一五日であるから、約百日の間にかなりの変化が生じたわけである。右供述調書の記載によれば、「切断後直ちに警察官に知らせた」という西野証言とのくいちがいは一層明らかである。

櫛渕はその後丸尾芳郎検事に対する三四年四月二七日付供述調書では「六時三〇分頃に三枝方に着き、一時間位たつて七時三〇分頃に切断現場へ案内されたのではないかと思う」旨、同年九月九日の検察審査会における供述では「私は自分で電灯線を切り取つたのではなく、店員に命じて切り取らせた後、電灯がつくようにしておけと命じた。その時刻は午前七時半か八時頃と思う。電話線は私が自分で切り取つた」旨、林正二検事に対する三五年四月四日付供述調書では「四畳半で水屋の指紋検出にかかつてから十分位のちに電灯線が切れているという声がきこえたが誰の声か判らなかつた。私は、そのままにしておいてくれと言つて指紋検出を続けた。私が三枝方に着いてから二時間は過ぎたと思う頃、和田福由警部補がきた。私は自分の指紋採取作業を終えてから、和田警部補、村上清一巡査らの障子の桟などの血液指紋採取を手伝い、それが終つた時、村上が「電灯線は二階で切られている」というので、同人や他の巡査と共に店員に案内させて屋根に上がつた。店員にペンチを貸せと言つたが持つていなかつたので下から取つて来させ、私がそのペンチで電話線、電灯線の順に切り口を採取した。当時電灯線には九号写真に写つているような白い紙は巻いてなかつたと思う」旨、その都度前と異る供述をし、最後に事件後四半世紀を経た五三年七月五日付の木村検事に対する供述調書では、「六時半頃着いてから指紋の検出に小一時間位かかつたのち屋根に上がつた。私自身電灯線を切り取つた記憶はない。実況見分者が真楽與吉郎巡査部長であるなら、私は必ず同部長の指示を受けて切り取つているはずで、私が独断で切り取り、後を修理させるようなことはない。切つたとすれば、その後真楽が実況見分して、その指示を受けて切つているはずである。西野が別の電線を持つていて、電灯線を修理しようとするのを、制止したかどうかについては記憶がない。」と述べている。

この最後の供述については、余りにも多くの歳月を隔てた過去を顧みたものであるから、その信憑性をあえて論じるまでもないとしても、櫛渕の供述に一貫性がないことは著しい。ただ、これだけ変化している同人のどの供述も、西野が証言で述べる「電灯線切断直後に警察官にそのことを知らせ、切つた場所に案内した」という事実と一致するものはなく、そのうち最もくいちがいが少ない櫛渕の公判証言は、むしろ信用し難いものであつて、櫛渕が西野に案内させて切断場所に行つた時刻は午前七時半より早くはなく、仮に和田警部補が来てからのこととすれば、同警部補が到着したのは午前九時一五分頃(原第一審第三回公判における和田福由の証言)であるから、それよりも更に相当後のことになる。そもそも自分で電灯線を切つておきながら格別の理由もないのに早速その結果を警察官に注進に及ぶということ自体、心理的に納得し難いものであり、特に本件全記録を通じてうかがわれる西野の実直小心というべき人間像には、ふさわしからぬ行動と映るのであるが、右のような一連の櫛渕供述と対比して見ると、この点に関する西野証言は、ほとんど事実を反映していないと断じてよいと思われる。また櫛渕の証言中で、(イ)西野が補修用電線を持つて行つたとか、(ロ)電灯線を継ぎ合わそうとしたので制止したとか、(ハ)櫛渕が「後を修理しとけ」と言つたとか述べられている点は、いずれもその当時電灯線が補修されていなかつたことを示唆するが、櫛渕は最初からそれらの事実を述べていたわけではなく、西野は(ロ)の点を認めるだけで、(イ)、(ハ)についてはむしろ否定的な供述をしており、(ロ)の点でも櫛渕と西野の供述は具体的には一致しているとは言えないのであつて、これらの点に関する櫛渕証言の信憑性は、それほど高いものではないということが出来る。要するに櫛渕の証言あるいは供述によつて西野証言の真実性が裏付けられると考えることには問題があり、むしろその破綻をもたらしているという見方が成立する。

6 石川幸男の証言及び供述について

(一)  西野が事件後電灯線を切つた事実を洩らしたという点について、三枝電機店で西野と共に働いたことがある石川幸男の証言及び供述があるので、これについて検討する。

同人は原第一審第六回公判において、およそ次のとおり証言している。

「三枝電機店には二七年四月から二八年七月中旬まで勤め、二八年一月に雇われた西野と一緒に住込み店員として働いていた。今年(二九年)の四月三日に私方(三好郡三縄村)の近所の八幡神社の祭礼があつた時、西野を招いて遊びに来させた。その時私が、大将はどなにして殺されたんかときくと、西野は、「午前五時頃に悲鳴が聞こえたので裏の戸を開けて見た。悲鳴は火事だと言うように聞こえたが、火事のようではなかつたので、また小屋の中に入つた。するとまた叫び声が聞こえ、出て行くと電灯が消えた座敷で大将が殺されていた。」と言つた。それから西野は、奥さんに頼まれて電線を切つたと言つたが、私は冗談だと思い、その時私の友だちの西岡進が遊びに来て私を呼んだので、西野に「そんなことしたら大変でないか」と言つただけで、すぐ西野と一緒に外へ出、話はそれきりになつた。その後新聞で、西野が電線を切つたことで逮捕されたという記事を読んで、冗談のようにいつていたが本当であつたのかと思つた。」

原第二審判決は石川の右証言を重視し、西野の公判証言の信憑性を裏付ける有力な証拠としている。

(二)  しかし石川は原第一審判決の確定後間もなく、渡辺倍夫に対し、右証言は偽りで、検察庁で執拗な取調べを受け、西野がお前に話したと言つているのに知らないはずはないだろうと責められたので、初めは否定していたが根負けして、聞いた覚えがないことを聞いたように述べた調書をとられ、公判でもそのとおり証言したものであると述べた(渡辺倍夫作成の三三年七月四日付石川幸男の供述書の写し)。石川はその後も再三徳島地方法務局の調査に対し、同様の供述をしている。

そこで石川の公判前の供述について検討してみると、同人はまず二九年七月二八日に徳島池田区検察庁で湯川次席検事の取調を受け、同年四月三日に西野が遊びに来て一泊した時、誰が亀三郎を殺したのだろうという話をしたが、西野は誰か判らんと言い、この事件について別に変つたことは言つていなかつた旨述べている。この時検察官は石川に葉書を示して問い、同人は、お示しの葉書は私の兄正治が私に代つて書いたもので内容についてはよく知らないが、その前に来た手紙類を見て頂けば事情が判ると答えている。この問答によると、検察官が石川を取調の対象としたのは、西野の手元にあつた石川からの便りの文面などから、同人が西野から事件についての話を聞いている可能性があると考えたことによるのではないかと思われる(石川は次の久米警部補に対する供述調書で、西野から一〇回位便りをもらい、自分もその都度ではないが返事を出したと述べている。なお後記石川キクヱの供述参照)。

石川は次いで同月三〇日に徳島東警察署で警部補久米貞夫に対し、西野が遊びに来た時の状況を詳細に述べさせられている。この時作成された供述調書は一二枚に及び、西野から聞いた事件当時の模様や、西野が事件後店をやめようとして被告人の弟冨士淳一に説得され、やめられなかつたこと、亀三郎が料理店にいる女を連れて大阪に行つたといううわさがあつたことなどに触れているが、西野が電灯線等を切つたという話を聞いたことには、全く触れていない。久米警部補による取調は翌三一日にも続行され、石川は、亀三郎と黒島テル子の仲があやしく、黒島が店に来た時、被告人が亀三郎に当てつけるような素振りを見せて、その晩は大道の家に行つて泊つたなどと述べた後、「この度のお調べの要点は西野が私方に来て泊つた時、事件当時に同人が誰かに頼まれて何かしたことを聞いていないかとの点であることは判つたが、調べる人に大事と思われるような話は聞いていない。西野が事件直後に奥さんに頼まれたとか言つたような気もするが、頼まれて何事かをしたということについては全く記憶がない。もし電線を切つたというような話を聞いていれば、私も電気に趣味を持つているので頭にはつきり残るはずであるが、そのような覚えは全くない。」と明言している。

しかし石川は同じ七月三一日に徳島地方検察庁で村上検事の取調に対し、ついに供述を変え、「私は昨日も警察で西野から大事なことを聞いてはいないかとやかましく取調を受けたが、私が三枝の奥さんや西野から口止料をもらつているのではないかなどと言われて、私がよほどの悪人で西野を庇い西野が罪にならんようにわざと隠しているように、私を犯人扱いにされたので腹が立ち、知つていることも隠していたのであるが、只今のようにやさしく尋ねられたのに感激して、これから正直に、私が西野より同人が奥さんに頼まれて電線を切つたという話を聞いた時の状況を述べる。」と前置きして、「四月三日の午後二時頃西野が遊びに来たのでお膳を出して酒も勧めた。西野は三合か三合五勺位飲んだ。この時私が事件の日の様子を聞き、最後に犯人は判つとんかいと尋ねると、西野は、「実はわしはえらいことを頼まれてやつた。奥さんから頼まれて電話線を切つた。」というので、私はびつくりして、「そんなことをしよつたら、えらいことじやないか。」と言つたが、この時西野は相当酒を飲んでいたので、でたらめを言つたのかとも思い、あるいは酒で口が軽くなつて思わず重大なことをしやべつたのかとも思つた。この時小さい子どもが、西岡進方に遊びに来るように言いに来たので、私は西野を連れて外へ出た。その後は事件に直接触れる話はせず、三枝方の得意先の名前をあげて、その近況を聞いた位で、西野は翌朝早く帰つた。」との趣旨を述べている。

二日後の八月二日には、刑事訴訟法二二七条にもとづき、西野に対する公益事業令違反及び有線電気通信法違反被疑事件の証人として、裁判官による石川の尋問が行われ、石川の証言内容は、西野が線を切つたという話をした後で、他言しないように口止めをした旨述べているほかは、おおむね村上検事に対する供述の内容と同じである(但し、西野は単に線を切つたと言つたように思うが、私は新聞を見て事情を大体知つていたので、電話線と電灯線の両方を意味していると思つたと述べている)。

同じ八月二日付で石川の母キクエ(二通)及び兄正治の藤掛検事に対する供述調書が作成されている。右両名の取調は同検事が三縄村の石川方に出向いて行つたものである。

このうち兄正治は、「弟は七月三一日の朝徳島の検察庁に呼ばれて朝早く出て行き、昨日の昼になつてやつと帰つてきた。私共は弟が二晩も帰らないので非常に心配していた。弟は私に、西野から電線を切つた話を聞いたことはないかと何遍も尋ねられ、よく考えてみると西野と昼めしを食べた後わしが茶をくみに立とうとした時西野が実は電線はわしが切つたのだという話をしたように思うので、そのように言つてきたと話した。弟はさらに、警察や検察庁にできるだけ協力はしたいが、このたばこの忙しい時に旅館泊りで調べられるのでは、警察も検察庁も少し無理じや、秋の暇の時なら何日でも協力できるんじやけどと言つていた」旨の供述をしている。

また母のキクヱは四枚綴りの調書中で、「幸男が二晩も帰らないので家の者が非常に心配した。帰つてから聞くと、西野が電話線を切つたという話をしなかつたかと何遍も繰返し繰返し尋ねられ、西野がそういう話をしたようにも、しなかつたようにも思うので、よく考えたら、昼飯の後で西岡の家に遊びに行く前に、西野がちよつと電話線はわしが切つたと話したように思い出したので、そのとおり答えてきたと言つた。秋の暇の時なら何日でも徳島に居て協力するけど、たばこの取入れに忙しい時にはかなわん、体がせこいとこぼしていた。西野が電線を切つたと話していたということを、昨日まで幸男から聞いたことはない。一週間前にも幸男は池田の検察庁に呼ばれたが、その時は西野に出した手紙のことで調べられたと言つていた」旨供述している。

なお、西野は七月二九日付の検察事務官に対する供述調書中で、「石川方に遊びに行つて同人に事件当時のことを話すように言われ、思い切つて被告人に頼まれて線を切らされたと打ち明けると、石川は大してびつくりもせず、えらいこと頼まれたのうと言い、二人で奥さんがおかしいなあと話し合つた。」との供述をしている。

(三)  以上にみたところによると、当時一七歳の少年であつた石川が、再三にわたる取調に、甚しい迷惑と精神的圧迫を感じていたであろうことは、容易に想像できる。同人は七月三一日付の村上検事に対する供述調書中で、一週間か一〇日前に新聞で西野が線を切つたという記事をみて、あの話は本当だつたとびつくりした旨述べているが、真実同人が新聞記事に符号する西野の打ち明け話を聞いていたとすれば、それを認めさえすれば、早く取調から解放されるはずなのに、湯川検事にも久米警部補にも、その事実を隠していたことになるが、その理由は考えにくい。当時被告人は未だ逮捕されていたわけではないが、石川は被告人に対する容疑をある程度裏付けるような亀三郎の女性関係については、かなり具体的に述べているのであるから、特に被告人を庇う気持があつたとは思われない。久米警部補の調べ方は高圧的であつたので否認したが、村上検事にはおだやかに問われたので正直に話す気になつたというのも、そのままには信じ難い。また西野が一旦打ち明け話を始めたのに、その真偽を問いただそうともせず、半信半疑のままで話を尻切れとんぼに終らせたということも、決して自然とは言えず、作為を感じさせる。

石川の公判証言は右のような曲折を経て得られたものであり、同人が後にこれを翻したことにも鑑みると、右証言は信用すべきものとは考えられない。

もつとも同人は、南館陸奥夫検事に対する三四年三月二五日付供述調書中では、「西野が私に、あれは奥さんがおかしいと言うので、どうしてかと尋ねると、実は奥さんに頼まれて電話線を切つたんじやと言つたというような記憶が、村上検事に色々尋ねられているうちに、ぼんやりではあつたが思い出され、はつきり断言するだけの勇気はなかつたので、そういう言葉を聞いたように思うと述べた。従つて全然記憶にないことを検事に責められて述べたのではない。」と供述し、偽証告白を撤回しているが、右供述も結局あいまいなものであつて、さほど重視するには値しない。

7 喜田理の証言及び供述について

原第一審第一〇回公判において、証人喜田理は次のように述べている。

「名東郡佐那河内中学校で西野を二年間教えた。西野が少年審判で保護観察決定を受けた時、同人を迎えに行き、鑑別所から同人の下宿先の富永方まで一緒に帰る途中、西野に正直に述べたかどうか尋ねると、正直に述べたと言つた。西野は私に、叫び声を聞いて店の間に行くと奥さんから腰に何か冷いものを当てられ、電話線と電灯線を切つてこいと命じられ、いうことをきかないと命が危ないと感じたこと、次いで大道への使いを言い付けられるとともに、これを捨てて来るようにと新聞紙の包みを渡され、両国橋の上から川に投げ込んだこと、検察官には紳士的に調べられたことなどを語つた。私は二年間西野を教えた経験から考えて、同人が嘘を言つているとは思わなかつた。」

右のような喜田の証言は、石川の証言の場合とは異なり、その内容が証人の経験した事実をそのまま語つたものであることについては、格別疑問の余地がない。また喜田は二九年九月一二日付の村上検事に対する供述調書中で、西野「こんなに大した罪にもならず釈放されるのだつたら、奥さんにいらん義理立てなどせず、早く何も彼も話すのだつたのに、できるだけ奥さんを庇おうとして隠し立てしたので損した」、「奥さんから、電灯線や電話線を切つたことなどを話すと、お前も四年か五年監獄に行かねばならんぞとおどされたので、自分がその位であれば奥さんはどんな罪になるかも判らんと恐れて、奥さんを庇うため義理立てした」、「奥さんのいうことをきかぬと、怒られて首になるかも知れず、それが非常に恐かつた」などと語つた旨供述し、西野は至つて正直で嘘をついたことはなく、二年間教えた間に私や他の教師から叱られたことは一度もなかつたと付け加えているが、その供述自体の信憑性についても問題はない。

しかし、西野が四五日間にわたる拘束をようやく解かれた直後に旧師に右のように語つたからと言つて、それが西野の本心をそのまま吐露したものか否かについては、大いに疑問の余地がある。西野は早晩検察側の証人として公判廷に立たされる立場にあり、その時は検察官らに対して既に述べたとおり証言せざるを得ないと考えていたはずである。そういう立場にある西野としては、身柄拘束中に述べたことがたとえ偽りであつたとしても、第三者に対してはあくまで真実を述べたように語ることは、十分あり得ることであり、むしろ厳しい取調に屈して真実を曲げたと告白することの方が困難であろうと考えられる。そのような告白は、それ自体恥ずかしいことであるうえに、公判廷で従前の供述を覆す覚悟がなければ、ますます信用を失い、面目を傷つける結果になつてしまうはずである。西野が本来正直な少年であつたとしても、これまでになめさせられた苛酷な経験の直後に、保身のために嘘をいうことは、何らあやしむに足りない。

従つて喜田の右のような証言及び供述をもつて、西野の公判証言の真実性が裏付けられるとするのは相当でない。

8 西野の言動に関するその余の証拠について

便宜上、ここで西野の言動に関するその余の証拠をまとめて検討する。

西野の父国貞及び兄健太郎の各二九年九月一二日付村上検事に対する供述調書は、喜田の同検事に対する同日付供述調書と同様、釈放後の西野が検察庁で述べたことは間違いないと語つたという内容であるが、当時の西野は親兄弟に対しても真実を告白することが出来なかつたと考えても不合理ではない。西野の父国貞はその調書によると義理堅い純朴な人柄であつたことがうかがわれ、西野が新聞で報じられているよりももつと深く被告人の犯行に関与しているのではないかと心配する反面、西野の供述が被告人に濡衣を着せているのではないかとも憂慮しており、もし西野が父に検察庁で述べたことは事実無根であつたと告白すれば、親子ともに深刻なジレンマに真面せざるを得なかつたであろう。

西野の偽証告白後である三四年四月六日付の丸尾検事に対する国貞(二通)及び健太郎の各供述調書は、西野が阿部の偽証告白後も国貞らが真実を話すように促したのに対し、裁判所や検察庁で述べたとおりであると言い続けていたというものである。

また喜田理の南館検事に対する同年三月二四日付供述調書には、同人が西野に対し、人を冤罪に陥れることの重大さを説き、真実を述べるように強く説得したのに、西野は「阿部が何と言おうと自分は正直に事実を述べて来た」旨繰り返していたこと、その後西野が一転して偽証を告白したことを知り、あらためて問いただしたところ、西野は、最近不幸が続くので占師に占つてもらい、「何か嘘を言つている人がいるから不幸が続くのだ。本当のことを言えば家が栄える。」と言われたので、真実を述べる気になつたと語つたことが記載されている。

喜田の右供述中の西野の話に出てくる占師と思われるのは御嶽さんの祈祷師をしている前田喜一であるが、同人は丸尾検事に対する同年四月七日付供述調書(二通)で、三三年九月中に西野が父に連れられて二回にわたり相談に来たので、正直に真実を述べよという趣旨の話をしたところ、西野は、自分はこれまで真実を述べているので、そのままで通すと言つていた旨述べ、私が西野に「嘘をつくと家に不幸が絶えないから本当のことを言いなさい」などと言つたことはないと、西野の話を否定している。

西野国貞も前記の丸尾検事に対する供述調書(七枚綴り)で、最近特別な不幸が起つたことはないと述べているので、西野が喜田に語つた偽証告白の動機に関する話は、弁解のためのこじつけではないかと思われる。

また富永正一の南館検事に対する三四年三月九日付供述調書には、同人が西野に対し、万一偽証していたのであれば、改めるよう再三促したのに、西野は「わしの言つていることが本当だ」と言い張つていたこと、その頃西野から同人宛に来た偽証告白を促す差出人不明の手紙や葉書を見せられたこと、そのうちの葉書の文面に脅迫がましい文言があつたことなどが記載されている。

更に兵藤栄蔵作成の鑑定書によれば、西野宛の三三年九月六日付消印がある葉書三通及び同月二〇日付消印がある葉書三通が存在し、その文面は、「何という恐ろしい野郎だ。お前のような不敵な奴は今にきつと制裁を加えられるだろう。私が三枝さんを殺しましたとおとなしく名のつた方が、お前の身のためにも死んだ三枝さんに対しても罪滅ぼしになるのだ。多くの人々は阿部君こそ真の勇者である。それに引きかえお前は卑怯者よと噂されるのは知らんのか。お前が前非を悔い三枝殺しは私ですと名のるなればよし、まだどこまでも白を切り通すようなれば、お前は誰かに殺されるぞ云々」というように、野卑悪質な脅迫を内容とするものであることが認められる(なお右鑑定書は、右葉書六通の筆跡が渡辺倍夫の筆跡と一致するとしているが、松倉豊治作成の三四年四月三〇日付鑑定書はこれを否定するもので、右のように西野を亀三郎殺しの犯人呼ばわりしている文面からしても、渡辺がこれを作成したとは考え難い)。

以上の各証拠は、確かに西野の公判証言を維持しようという意思が相当に強かつたことを示すと共に、同人の偽証告白が多分に外からの圧力によつていたことをうかがわせる。

しかし西野の公判証言及びこれに沿う供述が、後記の刺身庖丁を捨てた件に関する部分を含め、甚だ疑問が多いものであることに変りはなく、ことにそれが前記のとおり六週間以上に及ぶ身柄拘束を手段とする取調から生じたものであることを考慮すれば、公判証言を維持しようという西野の意思自体、取調に対する嫌忌恐怖の念と密接に結び付いた他律的なものであることは、推認するに難くないから、右各証拠も公判証言の積極的な裏付けとなるものとは考え難い。

この外に答島節美の南館検事に対する三四年三月一七日付及び司法警察員に対する同年二月二五日付各供述調書には、二九年当時、徳島市万代町の多川自動車修理工場で事務員をしていた頃、同年春に同工場の修理見習工として就職した西野から、本件殺人事件について、「あの事件は奥さんがやつたという気がする。」という話を聞いた旨の記載がある。しかし西野がそういう話をしたことは事実であるとしても、その時期は西野が逮捕される前であるには違いないが、いつ頃のことか明らかでなく、西野が検察官の取調の影響を受けてそう言つたという可能性もあり、仮にそうではなく、西野が自分だけの考えから被告人に対し疑いを抱いていたとしても、それが合理的根拠にもとづくものであつたとは限らない。西野は偽証告白後の検察審査会における供述(三四年九月二日)でも、「私は今でも茂子があやしいと思うことがあります。それは事件当時主人が殺されているのに茂子が余り落ちついていたからです。」と述べており、答島に対する発言も、その程度の漠然たる主観的印象を洩らしたに過ぎないと考えることも出来、これをさほど重視する必要はない。

9 補修後点灯説の問題点

これまで見たとおり、電灯線、電話線を切つたという西野の証言及び供述には、至るところに疑問があり、これを裏付けるとされる第三者の証言等によつても、さほど補強されるとは認め難いのであるが、その反面、電灯線切断の点については、これを切断したのが外部からの侵入者であるということの可能性の有無が決定的な問題であつて、もしその可能性が明確に否定されれば、前記のような数々の疑問にかかわらず、依然として西野がこれを切断したという結論が避けられなくなる。切断が外部犯人の仕業であれば、それは当然に坂尾が安全器の蓋を閉じたことにより電灯がつくよりも前のことでなくてはならないから、その間に切断箇所の補修が済んでいなければならない(これを肯定する見解を以下補修後点灯説という)。

検察官はそのような可能性はあり得ないというのであり、もしその主張が是認されれば、電灯線は点灯の時より後で西野によつて切断されたと認める外はない(かく認める見解を以下点灯後切断説という)。

警察官の右主張の主な根拠は、(イ)現場写真によれば実況見分当時電灯線切断箇所が補修されていなかつたと認められること、(ロ)当時現場にいた警察官らが揃つて補修の事実を否定していること、(ハ)電灯が再び消えた原因が右主張事実以外には証拠上認められないこと、(ニ)補修後点灯説によれば、電灯線の補修が出来たのちに捜査員が外部犯人によつて切断されたままの切り口を証拠品として切り取り領置したことになり、これを可能にする補修の方法は、電灯線の切り離された両端を直接互いにねじり合わせたり、別の電線の両端にねじり合わせたりするのではなく、証拠品として切り取るべき部分には手を触れず、それぞれの切り口から少し離れた箇所で電灯線の被覆をむいて銅線を露出させ、その各露出部分に別の電線の露出させた両端を巻き付けて連結する方法(以下ブリッジ型補修という)しかないが、西野による補修の結果がそのまま残つていたと思われる二九年七月二三日の村上検事による実況見分当時、電灯線の切断部分は、ねじり合わせ型の方法で連結されていたことの四点に帰すると考えてよい。

10 現場写真の検討

(一)  前記のとおり、事件当時の電灯線切断現場を撮影した写真として、実況見分調書添付の九号写真と、「現場写真記録」中の番号2の写真(便宜上、以下2号写真という)が現存し、そのいずれにも前記の弧状線が画面に薄く現れている。但し前記のとおり、両者は同一のネガフィルムにもとづくと認められるものである。このうち後者は本再審公判で新たに取調べられたものであるが、前者は実況見分調書の一部として、原第一、二審でも証拠調の対象となつていたのに、弧状線の存在は全く注目されず、これが問題として取りあげられたのは、被告人が西野、阿部を偽証罪で告訴した前記の偽証被疑事件に際し、担当検察官がその存在に気づいて疑問を抱き、その実体を解明するため、科学警察研究所技官小松盛行の鑑定を求めたのが最初であつたと推認される。

当時同技官は三五年二月二二日付鑑定書において、弧状線は補修用電線であり、これによつて電灯線の切断部分は再び接続されているとの趣旨の結論を示したが、検察官は事件当時現場におもむいた警察関係者を新たに取調べ、電灯線は切断されたままであつたという一致した供述を得て、右鑑定結果を採用しなかつたことがうかがわれる。

なお小松崎技官は木村検事に対する五三年一〇月一二日付供述調書においては、「私は九号写真の右上の碍子(画面中央に上下に二個並んだ碍子のうち上のものを意味するので、上側碍子という方が適切である)から左方下部に細く黒い線らしきものがあるのを電線だと判断したわけで、現在もこの右上碍子から左下方に向い黒い影のように写つているものは、電線らしくもあり、板の模様のようにも見えます。右上碍子のわずか左下方と、右側引込線の碍子(正しくは碍管)から左方に延びた電線の先が白くなつているのが、佐尾山技官のいう結び付けたコヨリであれば、電線は右コヨリの部分から切断されていて、その間の連絡したように見える部分は、ちようどその後方の板の模様が重なつているのかも知れないと思います。」と述べているが、その全体の趣旨からすれば、前記鑑定書の結論を全く撤回したものとは言えない。右調書の内容は佐尾山明の林検事に対する三五年四月四日付供述調書のそれに関連するもので、後者によれば実況見分当時写真をとるに当り、電灯線の切り口の位置をはつきりさせるために、切り口に紙を巻いて撮影したというのである。確かに九号写真(2号写真も同様)には、切断によつて上下に分離した本来の電灯線の切り口と思われる二箇所に白いコヨリを結び付けたような状態が写つているが、そのことが直ちにブリッジ型補修の存在と矛盾するとは言えないから、右に摘記した小松崎供述調書の記載は、さほど重視する必要はない。

しかし既に述べたとおり弧状線の実体が電線だとすれば、なぜそれが九号写真及び2号写真のいずれにおいても、前から設置されている電灯線にくらべて著しく薄く、原第一、二審では全く無視されたほどにしか現れていないのかという疑問は解決していない。逆に弧状線が電線ではなく、むしろ実体がないもので、何らかの偶然の原因によつて画面に生じたに過ぎないと解するとすれば、弧状線の画面上上部にある端が、切り離された電灯線の上部の切り口付近とつながつているように見え、弧状線の下部は背後の板壁の板目あるいは木目と重なつているように見えるため、どこまで延びているのか、定かには見分け難いが、一応は電灯線の下部の切り口の方へ延び、切り口につながつているように見えることが、果して偶然の結果に帰し得るであろうか、そのような現象が生じる確率はほとんどゼロに近く、奇跡としか言えないのではないかという疑問を禁じ得ない。

(二)  この点について徳島県警察本部刑事部鑑識課技術吏員長谷目正美は、五六年二月七日付鑑定書において、九号写真撮影当時の条件を再現するため、当時使用されていたのと同種類のカメラ、感光材料、現像薬品などを用い、更に同種の古材、碍子、碍管、被覆電灯線などを用いて模擬現場を設定し、撮影実験を繰り返した結果、いかなる方法で撮影しても、補修用電線のみが、従前の電灯線にくらべて極端に薄くしか写らないということはなく、ほぼ同じように写るはずであるという結論を得、また弧状線の下半分が板壁の重合の陰影あるいは木目と重なつているかについて、九号写真を部分拡大して検討してみても、電線と認め得るものが識別できず、切り離された被覆電灯線の一部に接続結線された痕跡も識別できないので、弧状線は補修用電線ではないと判断した上、弧状線が現れた原因についても実験の結果フィルム原板上に水滴が付着し、そのままプリントしたことによつて線状痕が生じたものであるとの見解を示している(以下これを長谷目鑑定という)。

(三)  検察官は更に本再審公判において、千葉大学工学部画像工学科教授久保走一の証言を求め、同人作成の鑑定書五通及び意見書二通を提出した(以下同人の証言及び右各書面の内容を一括して久保鑑定という)。

同人作成の五九年二月六日付鑑定書二通によると、九号写真及び2号写真をそれぞれ接写して基礎資料とし、これを拡大し、あるいは明暗のコントラストを強調した陰画写真を作成し、更に輪郭を強調するため、通常の写真に陰画写真を重ね合わせたネガ・ポジ重合像を作成して、それぞれを検討した結果、弧状線は上下いずれにおいても切り離された電灯線とはつながつていないという結論が示されている。

同人はまた同年二月二〇日付鑑定書において、レンズ及びフィルムによつて記録される写真像の細部の写り方は、レンズ及びフィルムの中で生じる光の広がりによつて劣化するので、写される線が細いほど相対的に太い像としてあらわれるという理論及び実験結果にもとづいて、九号写真中の弧状線以外の電灯線を直径五ミリメートルの赤被覆電線であるとした場合、弧状線の実体があるとしても、一・三三ミリメートルよりやや細い直径しかなく、電力を供給する被覆電線とは考えられず、仮に裸金属線としても普通の電灯線よりかなり細いものであるから、弧状線は補修用電線とは認められないとした上で、当公判廷において、弧状線が生じた原因につき、処理が済んだフィルムを吊して乾燥させる際に、現像剤、定着剤の飛沫あるいは水滴が付着し、これが上方から下方へと順次乾燥し、痕跡を残したものではないかと証言している。

(四)  右の長谷目鑑定において、電灯線のうち切断箇所を新たにつないだ部分のみが、その余の部分にくらべて、九号写真の場合のように極端に薄く写ることはないと指摘する点は、その根拠とされている実験の範囲、方法等につき格別疑問点を見出し難く、弁護人側が提出している後記石原俊及び富澤一行作成の各鑑定書等においても、直接有効適切な反論をしているとは言えない。

もつとも九号写真及び2号写真を念入りに見ると、もともと電灯線の一部であることが明らかな部分においても、たとえば画面の上側碍子と、そのすぐ左下で切り口に前記の白いコヨリを結び付けたように見える箇所との中間の部分などは、これに接続しているように見える弧状線と大差ない程度に、不鮮明にしか写つていないし、左右に二個並んでいる碍管の右の方から出ている電灯線も、碍管寄りの部分では、かなり薄いという印象を与える。特に2号写真ではそのように見える。

また補修用の電線は未使用の新しいものであるから、前から使用されていた古い線と同じようには写らないのではないかと考える余地はある。

(五)  次に長谷目、久保両鑑定が、共に弧状線は電灯線の切り離された部分とつながつていないとする点については、確かに弧状線の下半分は板壁の重合の陰影あるいは木目と思われる太い線と重なり合つているように見えるため、それが電灯線の切り口の方へつながつていると確認することは出来ないが、つながつていないと断定することも困難である。この点では弁護人提出にかかる千葉大学工学部画像工学科講師石原俊作成の鑑定書中の「九号写真のようなピンボケした画像の一部を十倍二十倍に引き伸ばすと、粒子の荒れ方、あるいは画像の荒れ方がひどくなり、また画像の輪郭の鋭さが急激に低下するため、誤認することが多い。」との長谷目鑑定に対する批判を無視し難いと思われる。同じく石原鑑定中にある「九号写真のようにピンボケした写真の場合、線が背後の板壁に著しく近づいているところでは、線自体の日陰になる部分と板壁に出来る線の影像とが重なり合つて、その線が太く見え、線が板壁から離れているところでは、光が当つている部分の線の濃度が板壁の濃度と等しくなつて、線自体の日陰の部分だけが現れるために、その線が細く見えることがある。」との趣旨の指摘も、あながち是認出来ないものではなく、そうだとすれば弧状線の下半分は、右の理由で線が太く見える場合に当り、板目等と重なり合つて太く見えるのではないと解する余地もある。

一方、弧状線の上部は、久保鑑定書(昭和五九年二月六日付二通)中のネガ・ポジ重合像を見ると、切断された電灯線とつながつていないようにも見えるが、右鑑定書二通がそれぞれ掲げているネガ・ポジ重合像を比較すると、一方は九号写真、他方は2号写真をそれぞれ接写した写真を基礎資料としたものであるが、全体的に明らかな画質の相違が認められる上に、弧状線も前者の方が後者より明瞭に現れている。前記のとおり九号写真と2号写真は同一のフィルムから焼き付けして作成されたと認められるのに、このような差が生じる原因について、久保教授は当公判廷において、ネガとポジの濃度の与え方が少し違うためであつて、写真上から物体の存在を検出するという目的には、何らの障害も生じないと証言している。しかしこのように同一のフィルムから焼き付けられた複数の写真にもとづいて作成された各ネガ・ポジ重合像が、同教授が述べるような理由で、それぞれ異なる印象を与えるとすれば、この方法による判定の正確性にも疑問が生じる。かつ、これらのネガ・ポジ重合像も拡大写真にもとづいて作成されたものであるから、前記石原鑑定書の長谷目鑑定に対する批判が、ここでも妥当する可能性がある。

以上見たところによると、弧状線が電灯線の切り離された部分を接続するものではないとする長谷目、久保両鑑定の結論には、疑問の余地がある。

(六)  久保鑑定が弧状線の実体が仮定して、その太さについて判断している点は、九号写真の画面上で認められる赤被覆電線と弧状線の太さをそれぞれ計測して、その比を一・〇〇対〇・四六とし、赤被覆電線の実際の太さを五ミリメートルとしていることにもとづく。この線の太さの計測方法は、九号写真の線像を拡大鏡で観察し、高濃度部で濃度が等しくなつた部分の幅をa、線像の領域として認められる部分の幅をbとして、aとbの算術平均値を求め、線の太さとするものである。

これについて久保教授は、等しい熟練度で計測すれば等しい測定値が得られるとしているが、弧状線の像は被覆電灯線のそれにくらべてコントラストが低いものである上に、九号写真自体がいわゆるピンボケした写真であることからすると、弧状線像のどの範囲がaあるいはbに該当するかの判定は甚だ微妙で、観察者によつて異なるが、むしろ自然であろうと思われる。因みに長谷目鑑定は、弧状線の太さを下側碍子から左側碍管に通じている電灯線の太さと等しく、四・九九ミリメートルと計測している。このように客観性が必ずしも認められない測定値を前提とした結論には、にわかに従い難い。

(七)  もつとも弧状線が薄くしか見えず、特にその下半分の当るとされる部分では、その存在自体必ずしも確認出来ないことは確かなので、この点に関する長谷目、久保両鑑定の以上の見解は直ちに斥け難い点があるが、その反面、弧状線を実体がないものとして、それが生じた原因を偶然の作用に帰しようとする右両鑑定の所説には、次のとおり大いに疑問がある。

まず長谷目鑑定がいう水滴原因説については、前記石原鑑定書中の「フィルム面に水滴が付着したネガで印画紙に焼き付けした場合、水滴痕の内側と外側では濃度差が生じるので、水滴痕の輪郭が判る。その濃度差が大きければはつきり判り、濃度差が小さくなるに従つて不鮮明になるが、九号写真の円弧状の内側の濃度と外側の濃度に差は認められず、水滴らしい輪郭も認められないので、この部分に水滴はなかつたと見るべきであり、またフィルム原板の水滴が円弧状に印画紙に焼き付けされることは考えられない。」との指摘が妥当すると考えられる。

次に久保証言によれば、フィルムの乾燥過程で付着した現像剤、定着剤の飛沫あるいは水滴が乾燥し、その痕跡として弧状線を生じたというのであるが、実験の結果による見解ではなく、現在では入手困難な三〇年前のフィルムであれば、右のようなことがあり得るという推測にとどまる上に、右のような見解によれば、九号写真及び2号写真の画面上に、同様な痕跡が二つ以上生じることもあつてよいはずであるが、弧状線以外には同様な現象は認められず、かつ弧状線の位置及び形状は前記のとおり補修用電線として認めるのに何ら不自然がないものであつて、右見解がいうような原因によつて偶然にそのような結果が生じたとするのは、余りにも確率の大小を無視して、奇跡的な現象を認めようとする恣意的判断ではないかと思われる(この批判は当然前記の長谷目鑑定の所説に対しても当てはまる)。

11 実況見分調書の記載及び警察官らの供述について

(一)  実況見分調書には、事件当日の午前七時五〇分から同一一時五〇分にわたつて行われた実況見分の際の状況として、「店舗入口屋根上の電話線を切断され、更に同所より四メートル南寄りの店舗屋根上の電灯線一本が切断されており、切り口を採取して鑑定依頼した。」との記載があるが、電灯線が既に補修されていたことを示す記載はない。このことから見ると電灯線は切断されたままであつたと理解するのが一応自然な読み方と思われるが、右の記載自体甚だ簡略なものであることからすると、仮に電灯線の切り口には手を触れず、その双方の切り口から少し離れた部分に別の電線をそれぞれ結び付ける方法によつて、切り離された電灯線を再び接続する措置が施してあつたとしても、そのことが当然記載されたはずであるとまでは言えない。右実況見分調書全体の記載内容から判断すると、実況見分の重点は犯行現場である四畳半の間とその周辺の状況に置かれていたことが明らかで、電話線・電灯線が切られている点については、調書の末尾近くに四行ほどの記述があるに過ぎないのであるから、これに関する写真が四枚添付されていることを考慮しても、当時の状況では捜査上格別の意義があるとは思われない電灯線が補修されている事実が、見分者の注意を引かずに見過ごされた可能性がないとは言えない。現に右調書の末尾には、「不備の点は別紙現場見取図三葉及び現場写真三四葉を以て補充した。」と明記されているのに、なぜか写真は二八葉しか添付されていないことからしても、右調書の記載には遺漏無きを保し難いのである。

(二)  次に当時現場におもむいた警察官らの供述についてみるに、原第一審では、徳島市警鑑識係巡査櫛渕泰次、同村上清一、鑑識主任巡査部長西本義則の三名が、それぞれ電灯線切断現場に行つたことを証言しており、このうち櫛渕巡査の証言は既にみたとおりで、村上巡査は第三回公判で、「現場へ午前六時五分か一〇分頃に着いた。西本部長の指揮を受け、まず現場撮影をしたが、状況が複雑で市警の鑑識機材では間に合わないと考え、国警本部へ応援を求めに行き、鑑識課員の登庁を待ち、佐尾山技官、和田警部補らと現場へ引返し、同人らと共に現場鑑識をした。室内の鑑識が終つてから外部の鑑識に移り、次いで西野に案内されて電灯線が切られている所へ行き、その状態を撮影した。その際残留指紋の有無を櫛渕巡査が検出していた」旨、西本部長は第五回公判で、「午前五時四〇分か四五分頃現場へ着いた。電線の切れている現場へは午前七時頃行つた。鑑識係の者にその現場へ行つて電線の切れを証拠として持つて帰るように指示し、その後私が現場へ行つた」旨、それぞれ供述している。これらの証言は、いずれも屋内の電灯の明りが一旦ついた午前六時一〇分よりのちに、電灯線が切断された状態を確認したというものであるが、前記のような切断部分に手を触れない方法による補修が行われていなかつたことまでを確認したものではない。しかし櫛渕巡査は前記のとおり村上検事に対する二九年八月五日付供述調書で、「電話線・電灯線は当時どちらも切断されたままで、継ぎ合わせや修復はされていなかつた。」と明言している。

その後、西野、阿部に対する偽証被疑事件の捜査に際して、前記九号写真における弧状線の存在が検察官の注意を引くに至つて、櫛渕、村上の両名及び事件当時徳島市警西分署鑑識係であつた吉内市治、徳島県警察本部技官佐尾山明の合計四名が、電灯線の切断された状況を現認した者として、検察官から九号写真を示された上で供述を求められ、いずれも電灯線が補修されていた事実はなく、弧状線の如きものも存在しなかつたと述べている(林検事に対する吉内、村上の各三五年二月五日付及び櫛渕、佐尾山の各同年四月四日付供述調書)。このうち佐尾山明は当公判廷においても証人として同様の供述をしている。

このように当時の捜査関係者らの供述では、電灯線補修の事実は、積極的に否定されるか、あるいは無視されるかであつて、補修後点灯説は成立の余地がないことになるが、これらの供述も結局九号写真及び2号写真における弧状線の存在に何らの説明を与えていないことからすれば、その信憑性は必ずしも高く評価出来ない。いかにも常識的には、弧状線が現実に補修用電線として存在したとすれば、捜査員らが揃つてこれを見落したはずがないと思われるところであるが、前記のとおり当時の実況見分は屋内の犯行現場を中心として行われ、鑑識活動の努力もその方面に集中していたと考えられ、電灯線や電話線については、それらが切断されているという事実にしか、関心が向けられなかつたとしても、あえてあやしむべきではなく、電灯線が補修されているか否かが、将来捜査上で重大な意味を持つと考えるべき理由もなかつたはずであるから、そのような見落しの可能性を無視することは出来ない。

12 電灯が二度消えた原因

補修後点灯説を是認するとすれば、坂尾が安全器の蓋を閉じることによつて一旦ついた電灯が、その後間もなく消えてしまつた原因は何か。この問いに対しては証拠上具体的に原因を特定して答えることが出来ず、そのことが前記のような西野証言に対する数々の疑問にもかかわらず、数次にわたる再審請求審において、その信憑性を覆し得ないとされた有力な根拠であつたと考えられる。

しかし電灯が消えた原因は必ずしも西野が電灯線を切つたことによるとは限らないのであつて、前記の村上清一は警察官の中では早くから被告人に疑惑を向けていた数少ないうちの一人であるが、原第一審第三回公判において、「ラジオ屋の店などでは、よくヒューズが切れたりして停電が起こることがあるのに、被告人が電灯がつかないからと言つて、すぐ賊に電線を切られたと申し立てたのは、おかしいと思つた。」と証言しており、電灯線を切らなくても停電が起こり得ることを示唆している。前記のように西野の証言及び椎野猛の検察官に対する供述からすれば、西野が電灯線を切りに行くことが出来たのは、早くとも午前六時五〇分頃であり、仮に五分位の幅を持たせて六時四五分頃としても、二度目に電灯が消えたのはそれより前のことであつたという蓋然性が高く、そうだとすれば西野の電灯線切断とは関係がなかつたことになる。また阿部が原第一審第二回公判で、「西野と一緒に小屋の前の水道で顔を洗つていた時に電灯が消えた。」と述べている証言を信用すれば、やはり消灯は西野の行為とは関係なく起こつたことになる。

一方坂尾安一及び四宮忠正の原第一審第四回公判における各証言並びに坂尾の村上検事に対する二九年七月二二日付供述調書を総合すれば、事件当時は木曜日で配電線工事のための停電作業日に当たり、三枝方が属する内町線も停電の範囲に含まれていたことが認められ、その時間帯は坂尾の右供述調書によれば午前七時三〇分から同一一時三〇分までとされるが、四宮の証言では午前七時から停電する予定があつたとされ、あるいは何らかの事情でその時刻が早められたと考えられなくもない。

結局電灯が二度目に消えたことは、その原因は判らないにしても、西野の行為とは結び付かない蓋然性が濃く、点灯後切断説の裏付けとしては、必ずしも重視出来ない。

13 村上検事による実況見分の結果について

村上検事は二九年七月二三日、電灯線切断の箇所及びその修理されている状況を明らかにするため、四国電力営業所工務課細井隆雄外一名立会の上、三枝方母屋の屋根の上で電灯線屋内引込箇所の実況見分を実施し、その結果が同検事作成名義の同日付実況見分調書に記されている。なお、その際、切り離されていた電灯線をつなぎ合わせてあつた補修用赤被覆線(長さ四二センチメートル)をその上下両端の元の線との連結部分を含めて切り取り、被告人から任意提出を受けて領置している。

右実況見分調書には、「縦に並んだ二個の碍子の距離は一〇センチメートル、その下部の横に並んだ二個の碍管の距離は一〇センチメートル、下部の碍子と左側碍管の距離は二二センチメートルあつて赤被覆線で接続され、上部の碍子と右側碍管の距離は三二センチメートルあつてこの間長さ四二センチメートルの弓状の赤被覆線で接続され、右碍子より下五センチメートルの箇所と右碍管より上一〇センチメートルの箇所で裸線の状態でねじり合わせて継いである。立会人細井隆雄は会社の工事人はこのような継ぎ合わせ工事はせず明らかに素人の仕事であると申述。右二箇所の継ぎ目から上部は二センチメートル下部は三センチメートルの箇所で切断領置。」との記載があり、写真三枚が添付されている。ここで領置された赤被覆線は現存しないが、西野は原第一審第三回公判で右電線を示されて、「見覚えがあります。この事件の時私が切つた電灯線をつないだ際に使用した電線です。」と述べ、捜査段階でも右実況見分が行われた当日である二九年七月二三日付の村上検事に対する二枚綴りの供述調書で右電線につき、「その赤い被覆のある線中、つなぎ合わしてある中の方の色の比較的鮮明な部分が私が最前述べたラジオ荷造り箱から切り取つて持つて行つて継ぎ合わした電線だと思います。それはその両端近くの線と互いにねじ合わして結んだ恰好が私が結び合わした時の物に間違いないと思われるからです。」と述べ、同日付同検事に対する四枚綴りの供述調書で、「この継ぎ合わしをした後同部分を配電会社からきてもらつて修理し直してもらつた覚えはありませんから現在そのままになつていると思います。」と述べている。右調書では継ぎ合わせの方法について、「切れている線の両端と持つて行つた電灯線の両端のそれぞれの被覆をペンチで剥ぎ中の銅線を出して両方の先端の各線を相互にねじ合わして剥ぎ合わした」旨述べており、これは領置された現物を直接示されての供述であろうから、その現状に即して述べたことに間違いなく、これによれば連結の方法がねじり合わせ型であつたことは明らかである。補修後点灯説を前提とすれば、捜査員による電灯線切り口の採取も補修後のことでなくてはならないから、最初の補修の方法は切断部分をそのまま残して置くものでなくてはならず、右のようなねじり合わせ型ではあり得ない。そうすると右の前提を維持するためには、村上検事が実況見分をするよりも前に、誰かが電灯線の補修をし直したと考えるしかない。しかし右実況見分調書の記載にあるとおり、電力会社の工事人が再補修をしたとは考えられない。かつ事件当時建築中であつた新館は二八年一二月末に完成し、翌二九年一月以降は三枝電機店の店舗も被告人一家の住居も新館に移転し、従前の三枝方母屋は空家となり、細井喜一郎醤油店の倉庫としてのみ使用されていたことが証拠上明らか(原第一審裁判所の二九年一二月二二日付検証調書並びに原第一審第一四回公判における三枝満智子及び三枝皎の各証言)なので、その後わざわざ電灯線の再補修をした可能性は乏しい。結局再補修が行われたとすれば、事件後余り日を経ないうちに、西野か阿部かがしたと考えるしかなさそうであるが、両名ともそのような供述は全くしていない。これらの点からすると、電灯線の補修は西野の手で一回行われただけで、そのままの状態が村上検事の実況見分の時まで残つていたという検察官の見解が有力になつてくる。補修後点灯説の立場からは、西野が事件後間もなく補修をやり直したが、そのことを供述する機会がなく、記憶を失つてしまつたと考えるしかないであろう。西野は記憶力が多少劣る傾向があると自ら認めており、右のような可能性もあり得なくはない。

14 補修後点灯説に沿う西野の供述及びその余の証拠

(一)  事件当日である二八年一一月五日付の司法警察員に対する供述調書において、西野は、「奥さんは店の方で電池か何かを探していまして、電気がつかんと言つているので、電気をひねつたがつかず、よく見ると隣家の新開時計店と私の店のところの四配電線の片方を切つてあつたんで、それをつないで部屋を明るくしました。」と述べている。公判証言によれば、西野が自ら切断した電灯線の補修をしたのは、警察に呼ばれて取調を受けたのちのことであるから、西野はまだ切れたままになつている電灯線を既に補修したと嘘を言つていることになるが、そのような嘘をつく必要も利益も全くあり得ない。もつとも村上検事に対する二九年七月二四日付供述調書中には、警察に行く前に電灯線の補修をしたという部分もあるが、櫛渕巡査らの供述中の電灯線の補修は出来ていなかつたという点が信用出来るという前提に立つてみると、警察に行く前とするのは疑問である上に、そもそも西野が電灯線を切断したという時刻が既に日の出後かなり経過してからのことであると解されるから、その後に切れた線をつないだとしても、「部屋を明るくしました」と言えるような時期ではなかつたことが明らかで、いずれにしても西野の電灯線切断を認める立場からすれば、西野の前記供述は、ほとんど無意味な嘘を含んでいることになる。

なお西野の前記供述は、事件後間もなく屋内の電灯がついた事実を、西野も現認していたことを示しているが、それにもかかわらず、西野がその後に電灯線切断を実行したと考えるのは、後記のとおり甚だ疑問である。

西野は二八年一一月二六日付の浜健治郎検事に対する供述調書でも、「大道から帰つてみると店には医者や警察官が来ていて亀三郎が死んだのが判つた。その頃被告人が電灯がつなかいというので、泥棒が電灯線を切つてはいないかと思い調べたところ、果して一つだけ切つており、継いで部屋の中を明るくした。」という趣旨の前とほぼ同様な供述をし、同月二八日付の司法警察官に対する供述調書では、「誰かが電灯がつかないので調べてくれというので、自分がスイッチの所から線を伝つて順に調べていくと、店の屋根の看板の裏付近で電話線と電灯線が切断されているのを発見した。」と述べている。更に二九年七月五日付の村上検事に対する供述調書においても「(医者が来てから)奥さんが電気を見てくれというので、私は電池を看護婦に渡し、南側のウインドゥについている蛍光灯やヒューズなどを調べたのに異状がないので、新館の方へまわり、表側の屋根に上がつて調べると、家の中に引き込んだ所より二尺位外の所で一本だけ切られているのが判つたが、電話線が切られていることは知らなかつた。」と述べているが、村上検事はなぜかこの調書に電灯線を補修した事実の有無に関する供述を録取していない。

一方、阿部は司法警察員に対する二八年一一月二七日付供述調書で、「西野がどこか電灯線が切れているやら判らないと言つて屋根に上がり、電灯線の切断箇所を発見して修理したので店に灯がついたが、そのうち運悪く停電になつた。」と述べ、当時の西野の供述と符合する。阿部は更に村上検事に対する二九年七月六日付供述調書でも、「市民病院の先生が帰つて間もなく西野が電灯線を調べて来ると言つて屋根に上がり、後で切断箇所を発見したので修理したと言つており、電気がついたが、ちよつとの間でまた停電になつてしまつた。」との供述を維持している。

前記の西野の供述は、補修の方法については何も述べていないが、前記のとおり補修後点灯説を前提とすれば、ブリッジ型補修をしたと考える外はない。点灯より前に補修が行われ、更にまたその前に捜査員による電灯線切り口の採取が行われていたという可能性は、証拠上到底認められない。この点につき西野は、同人に対する法務事務官安友竹一作成の三三年一〇月一〇日付調査書(供述者として西野の署名指印がある供述録取書面、以下同じ)で、「大道から帰つて来て暫くすると阿部が医者を連れて来た。被告人から電気がつかないと言われ、スイッチを調べたが異状がなかつたので、配線を調べるため屋根に上がつて見ると、電灯線が一本切断されていた。一旦下におりて巡査にこのことを告げたところ、切断箇所を動かさないようにして別の線を持つて行つて修理するように指示されたので、店にあつた電線の切り端を持つて行き、別図のようにして継いだ。」と述べている。右の別図とは次のようなもので、ブリッジ型補修を示しているということが出来る。

(二)  一方、前記武内一孝の原第一審第五回公判における証言中、西野の右供述に照応すると思われる部分は、次のとおりである。

藤掛検事

被告人が病院へ出かける前後に三枝方の電灯がついたか。

茂子が病院へ行つて後、時間ははつきり判りませんが、電灯のついた事を確認しました。

証人が何をしている時に電灯がついたか。

私が現場保存のため座敷に居る時ではなかつたかと思います。

なぜ電灯がついたと思つたか。

言い遅れましたが医者が来る前後に店員が絶えずその座敷を行つたり来たりしていたので、私がその店員に電線はどこが切れているのかと聞きますと、どこか知らんが切れている所が判ればつないでも構わぬかといつたので真暗で仕方がないからつなげと言つておきました。それで私は店員が修理したと思いました。

そのようなことがあつたのは医者の来る前か後か。

医者の来る前であります。

その店員は誰か。

西野清であります。

同人はこれに先立つて二九年七月二八日付の村上検事に対する供述調書でも、「斎藤病院の医者が死体を見ている時に店員の西野が死体のある部屋へ電池を持つて照らしながら何回も出たり入つたりし、部屋の電気のソケットにはさわらなかつたが、店の土間の方で天井の方やあちこちを電線が切られていると思つてか探している様子なので、私は西野にどこが切れているのかと尋ねると、今探しているが切れていたらつないでもよいかと言うので、私は暗いから継がねばいかんなあと言つた。そのうち部屋の電灯がついた。点灯したのは西野があちこち切れているのではないかと探していた時から間もなくのことだつた。点灯してから間もなく、西野が死体現場の部屋を通りかかつたので、どこが切れとつたかと聞くと、前の外が切れていたと言つていた。その後匕首が発見された。」と述べている。武内の原第二審第五回公判における証言及び法務事務官に対する供述(三三年八月二六日付調査書)も、以上とほぼ同様の趣旨である。

右のような武内の証言及び供述は、西野が電灯線の切断箇所を見つけて巡査に報告したという点及び同巡査から具体的に補修の方法を指示されたという点とは一致しないが、医師が来る前後に西野が電灯線の切断箇所を探しまわつていたこと及び武内が電灯線を補修してよいという承認を西野に与えたことを認めている点で、西野の前記供述の有力な裏付けということが出来る。かつ武内が述べている西野の行動は、西野が電灯線を切つたとする見解に立てば、同人の演技と解する外はないが、甚しく不自然であり、人目を避けて少しでも早く電灯線を切るという目的には全く反することが明らかである。また点灯後西野が現に電灯で照らされている四畳半を通りかかつたとすれば、西野は点灯の事実を認識したに違いない(このことは他の証拠からも十分にうかがわれる)が、外部犯人の侵入を装うという目的からは、その後に電灯線を切断することは無意味であるばかりか、自滅的な行為となること位は、西野にも容易に理解できたのではなかろうか。

(三)  検察官は西野が大道から帰つてから坂尾が修理に来るまでの間に、西野が電灯線の補修をするだけの時間的余裕はなかつたと主張している。

そこで検討すると西野自身大道から三枝方に帰り着いた時刻について、まちまちに述べてはいるが、前記のとおり大道へ行く途中五時二五分頃両国橋派出所に立ち寄つたこと、村上検事に対する二九年七月二四日付供述調書で、五時三〇分頃派出所を出、四、五分で大道の家に着き、そこで二、三分かかり、大道から店まで帰るのに七ないし一〇分かかつたと述べていることからすると、五時四三分から四八分の間に帰り着いたと一応は認められる。しかし右調書によれば西野が帰つた後で大道からまず紀之が駈けつけ、次に皎、登志子が到着し、その後斎藤病院の医師と看護婦が来たと認められ、武内の前記証言によると同人が五時三〇分少し前に三枝方に着いてから約一〇分後に医師が来たとされていること、西本義則の前記証言によると同人が五時四〇分ないし四五分頃三枝方に着いた時医師二名が既に来ていたとされること、西野の前記供述では両国橋派出所を出た時刻が遅過ぎると考えられることからすると西野は五時四〇分までには既に三枝方に戻つており、斎藤病院の蔵田医師もその後数分以内に(遅くとも五時四五分までに)三枝方に着いたと考えられる。

一方原第一審第四回公判における坂尾安一及び四宮忠正の各証言によると、坂尾は午前六時頃四宮に三枝方へ修理に行くように言われ、五分ないし一〇分後にオートバイに乗り、営業所から三枝方に三分位で着き、営業所の時計で六時二〇分までに同所に帰り着いたと認められる。もつとも四宮は営業所の時計は五分や一〇分はずれていることがあると述べているけれども、坂尾が三枝方に着いたのは一応午前六時一〇分前後と認められる。なお安友法務事務官作成の三三年八月一九日付調査書に録取された供述では、坂尾は六時一三分頃三枝方に赴いたと述べている。

従つて西野が坂尾の到着までに電灯線の補修をするには、蔵田医師の来診の時から数えても、二五分以上の時間があつたということが出来、これだけの時間内に電灯線の切断箇所を探し当て、ブリッジ型補修を完了することは格別困難とは考えられないから、検察官の前記主張は是認し難い。

(四)  しかしながら西野が明瞭にブリッジ型補修をしたことを述べているのは、安友法務事務官が前記三三年一〇月一〇日付調査書に録取した供述においてのみであり、その後の供述では、おおむねねじり合わせ型補修をしたように述べている。

三四年一月二九日付の安友法務事務官作成の調査書で、西野は「前に申し上げたように巡査の指示によつて切断箇所を別の線で継いだ。このことは巡査も見て知つていると思う。新館の窓から四、五人の巡査らしい人が見ていた。検察庁でその話をしたら、そんなばかなことがあるかと叱られた。」と述べているが、そのままには信用し難い。翌一月三〇日付の同事務官作成の調査書によると、「巡査から切断箇所を探してみよと指示されたので、屋根に上がり、電灯線が切断されているのを発見して報告すると、巡査は私と一緒に上がり、継いでもよいと言うので、私が切れている線を直接継ごうとすると、巡査は鑑識に必要だからそのまま継いだらいかんと叱り、私のペンチで切断箇所の両端をそれぞれ一〇センチメートル位切り取つた。それで私は店から別の線を持つて来て、昨年一〇月一〇日に述べたように補修した。」というのであるが、これによると切り口部分を採取してから補修したというのであるから、ブリッジ型補修をする必要はないはずであるのに、一〇月一〇日付調査書のように補修したというのは矛盾を免れない。もつともこの場合には別の線を継ぎ足さなければ接続することが出来ないはずであるから、別の線を持つて来て継いだという意味で、前回述べたとおりと言つているとも理解出来るが、そもそも補修後点灯説の立場からは、切り口の採取を補修に先行させるのが無理なのであるから、右の供述は結局補修後点灯説とは矛盾すると言わざるを得ない。

三四年四月一二日付の日弁連人権擁護特別委員会における西野の供述内容は、右一月三〇日の供述内容と同様である。

その後同年九月二日の検察審査会における西野の供述は、「電灯線をつなぎに屋根に上がつたのは警察官と私の二人で、外に数人の者が窓からのぞいていた。警察官が切断箇所を証拠にとつてしまつたので、残つた部分の端の被覆の箇所を両方ともナイフでけずり取つて線を裸にし、補修のため持つて上がつた二尺位の一・六ミリメートルの電灯線の両端の被覆も元の線と同様ナイフでけずり取り裸にし、それを元の線の裸の部分にそれぞれねじりつけてつなぎ合わせた。その時茂子はまだ家にいた。」との内容であり、明らかにねじり合わせ型補修をしたと述べている。同月二三日の検察審査会における供述は、「修理しようと思い補修に必要な電灯線を持つて屋根の上へ上がりかけたところ警察にそのままにしておけと制止された。その後警察の方で切断されていた電灯線を証拠として採取した。」との内容であつて、やはり切り口の採取が補修に先行したという趣旨と思われる。。

要するに三四年一月以降の西野の供述は、「補修の時期はまだ被告人が家にいるうちであるが、補修する前に警察官が電灯線の切り口を証拠品として切り取つたので、別の線を持つて来て、両端をねじり合わせて接続した。」というようにまとめられる。しかし坂尾が来て電灯がつくより前に警察官が電灯線の切り口を採取したという可能性は証拠上認めようがないから、西野が電灯線は初めから切断されていたと主張しながら、右のように述べることは、どうしても自己矛盾たることを免れないのである。

西野はその後第二次及び第五次の再審請求に際し、三五年七月八日及び五四年七月一九日の二回にわたり、証人として尋問されたが、いずれの証言もあいまいながら右のまとめの範囲内のものであつて、ブリッジ型補修をうかがわせるものはなく、補修の時期は切り口の採取より後であつたように述べている(西野に対する証人尋問は第四次再審請求の時にも行われたが、電灯線の補修に関する供述は録取されていない)。

以上のとおり、西野の供述は、電灯線切断に関する公判証言を否定するという立場においても、甚だ不十分なものである。しかしそのことが公判証言の信憑性を裏付ける方向に働くとみるには、公判証言について既に指摘した様々な疑問点が、余りに多過ぎると思われる。

(五)  補修後点灯説の裏付けになると思われるその余の証拠として、富澤一行作成の五四年一〇月二日付鑑定書がある。右鑑定書によると、事件当日に証拠品として領置され、原第一審で刑三号証の一及び二として取調べられた電灯線の切れ端二本のうち、刑三号証の一の警察官が切り取つた方の端に、直径一・六ないし二・〇ミリメートルの銅線が巻き付いていたと推定される。もつとも原物は事件確定後処分されてしまつたので、右の鑑定は大久保柔彦作成の鑑定書に添付されている刑三号証の一、二の写真にもとづいてなされたものである。

大久保鑑定書の記載によれば、刑三号証の一は長さ約一〇センチメートル、同二は長さ約六センチメートルで、いずれも線径一・六ミリメートルの錫鍍金ゴム被覆絶縁電線であり、写真によると刑三号証の一の最初の切り口とは反対側の端に線状の物体がわずかに巻き付いているのが認められる。その形状から見て、これが警察官による切り取り領置後、わざわざ巻き付けられたと考えるのは不自然で、切り取り前から既に巻き付けてあつた線の一部であることの蓋然性が高い。

ところで西野がいつ電灯線を補修したかは別として、補修の際に別の線を使用したとすれば、それは切断された元の電灯線と同様な物で、心線の太さは一・六ミリメートルであつたと考えられ、検察審査会における西野の前記供述(三四年九月二日)では、そのことが明らかにされている。

そこで右富澤鑑定書の推定に従えば、刑三号証の一の片端に巻き付いている線は、西野がブリッジ型補修をする際に、結線部分に補修用電線の端の被覆を剥ぎ、露出させて巻き付けた心線の一部であつたと解することが可能になる。

そうだとすれば西野が補修した後で切り口が採取されたということの客観的物証となるわけである。

櫛渕泰次が林検事に対する三五年四月四日付供述調書中で、刑三号証の一の片端に別の線が一部巻き付いているのは、私がペンチでこれを切り取つた当時、そこに結び付けられていた線の切れ端だと思うと述べているのは、その限りでは右の見解に沿う。

もつとも佐尾山明は木村検事に対する五四年一一月二九日付供述調書及び五六年八月一八日付鑑定書で右の見解を否定して、刑三号証の一を採取した当時、元の切り口との区別をはつきりさせるために、後から切つた方の端に裸銅線を巻き付けたとしているが、それは具体的な記憶ではなく、推測による見解であることが明らかな上に、大久保鑑定書添付の刑三号証の一の写真を見れば、これに巻き付いていると見える線が切り取り領置後に付加されたものと解するのが不自然なことは前記のとおりであるから、右見解には従い難い。

また佐尾山は右の鑑定書中で、大久保鑑定書中の写真にもとづき、計測ルーペ、顕微鏡移動測微計、顕微鏡写真を用いて測定すると、刑三号証の一に巻き付いた線の太さは二・〇ミリメートルであるとの結論を示しているが、右の鑑定も富澤鑑定と同様、写真にもとづく二次的な測定であり、佐尾山鑑定の方が正確性においてまさつているという根拠は乏しい。

結論として、刑三号証の一に巻き付いている線状の物の実体が、これの切り取られる前に、西野がブリッジ型補修に使用した電線の心線の一部である可能性は、かなり有力であると言える。

15 まとめ

以上に検討した結果を総合すると、西野が被告人に頼まれて電灯線、電話線を切断したという直接証拠である西野の公判証言及びこれに沿う供述は、甚だ疑問が多いものであつて、その信憑性はひとえに補修後点灯説の不合理性を論証することによつてのみ支えられるというべきところ、補修後点灯説についても既に指摘したような難点があり、これを否定する検察官の主張の方が常識的に受け入れ易い部分があることは争えないが、その反面、これを裏付けると思われる証拠もかなり有力であつて、全体としてみると西野による切断が合理的な疑いの余地を残さない程度に立証されたとは認め難く、切断が外部犯人によつて亀三郎の殺害前に行われた可能性を否定するのは相当でない。

三 凶器とされる刺身庖丁について

1  西野の公判証言及び公判前の供述

(一)  被告人から事件直後に刃物を渡され、これを捨ててくれと頼まれたという西野の証言は、もしそれが信用出来るとすれば、それだけで被告人に対する嫌疑を成立させるに足りる。

この点に関する公判証言の具体的内容は、およそ次のとおりである。

(イ)  原第一審第二回公判

藤掛検事

被告人からは大道へ行つて来てくれと言われただけであつたか。

大道へ行つて来てくれと言われた時に何か新聞紙で巻いたものをどこかへ放つて来てくれと言われたので、それを受け取り、自転車で大道の方へ行きました。

新聞紙で包んだものというのはどんなものか。

一尺位の長さの平べたいものです。紐で括つてあつたか。

括つてありません。

証人にはそれが何であるか外へ出てからも判らなかつたか。

外へ出て自転車に乗る時それを持ち上げた折、新聞紙に包んである端から切れ物の先のようなものがちよつと出ているのが見えました。私はそれをそのまま寝巻のふところに突込んで自転車に乗りました。

それが何かということは判らなかつたか。

判りませんでした。

切れ物のようであつたというが柄は付いていたか。

柄のようなものが付いていました。

その切れ物のようなものの先は尖つていたか。

どうであつたか気がつきませんでした。

それを包んである新聞紙が湿つているという感じはしなかつたか。

そんな感じはしませんでした。

証人はそれからどうしたか。

自転車に乗つて八百屋町から両国通を通り両国橋まで行つた時、奥さんが放つてくれと言つたのを思い出し両国橋の真中辺から新町橋の方へ向いてその新聞紙に包んだものを川の中へ放り込みました。

自転車に乗つたまま放つたのか。

そうです。自転車に乗つたまま片足を橋の欄干にのせ右手で放りました。

自転車は進行方向に向けていたのか。

そうです。阿波商支店の方を向いていました。

どのようにして放つたのか。

右手で力一杯というほどではなく放りました。ところがそれが落ちる途中巻いてあつた新聞紙が取れて切れ物と思われるものがちやぶんと先に落ち新聞紙は後からひらひらと落ちました。

その切れ物らしいものの長さはどの位か。

柄も入れて一尺位のものと思います。

それを川の中に放り込んでから証人はどうしたか。

私は橋の上でくるりと向きを変えて両国橋の巡査派出所へ行きました。

なぜ派出所へ行つたのか。

泥棒が入つたことを言いに行つたのです。

(中 略)

被告人から放つてくれといつて渡されたものが切れ物だということはそれを受取つた時判つたのではないか。

受取つた時には判りませんでしたが自転車に乗る時に先にいつたように切れ物のようなものだということが判つたのです。

被告人はその切れ物を何のために捨てさせようとしたのか証人には判らなかつたのか。

私もおかしいなあとは思いましたが何のためか判りませんでした。

(中 略)

後から考えたこともないか。

後から考えると大将が倒れていたし、あの刃物で大将を突き刺したのかいなと思います。

(中 略)

この事件が起る前に三枝方の炊事場には庖丁を置いてあつたことを知つているか。

知つております。

その当時三枝方では店で炊事をしていたか。

店の方では炊事はしておらず食事は大道の家から運んでいました。

すると店の方では庖丁は全然使つていなかつたか。

そうです。漬物を切る位でした。

三枝方にはどんな庖丁があつたか。

刺身庖丁と出刃庖丁がありました。

その刺身庖丁というのは新しいものか。

新しいのではなく中位の古さのものでした。

その刺身庖丁はいつから三枝方にあつたのか。

いつからあつたか知りません。

この事件の当時にはあつたのか。

ありました。

その刺身庖丁を証人は使つたことがあつたか。

使つたかどうか記憶がありません。

この事件の前頃にその刺身庖丁が三枝方の炊事場にあつたことは間違いないか。

間違いありません。

その刺身庖丁の長さはどの位か。

柄も入れて一尺位であつたと思います。

柄には何か印が入つていたか。

四角い焼判が押してあつたように思います。

証人はその庖丁をこの事件のあつた日以後三枝方の炊事場で見たことがあるか。

この事件後は炊事場の庖丁掛けには掛つていなかつたように思います。

庖丁は何時も炊事場の庖丁掛けに掛けてあるのか。

そうです。

証人が被告人に頼まれて両国橋から捨てた切れ物と今言つた刺身庖丁とは長さとか手に持つた感じなどから同じものだと思うか、または別のものと思うか。

長さは大体同じであつたと思いますが他の点は判りません。

両国橋から捨てた切れ物はその形から見て刺身庖丁だとは思わなかつたか。

大体刺身庖丁のようなものだと思いました。

この事件後三枝方の刺身庖丁が無くなつていることについて証人はどう思つたか。

おかしいなあとは思いましたが別に深くは考えませんでした。

証人は阿部と刺身庖丁が無くなつているということについて話し合つたことがあるか。

あります。昨年一一月一五、六日頃裏の小屋で話し合いました。

その時阿部とどんな話をしたのか。

裏の小屋で阿部と寝ながら話をしたのですが、その内容ははつきり記憶しません。

証人は阿部に対し被告人に頼まれて切れ物を両国橋から川の中へ放り込んだということを話したのではないか。

はつきり記憶がありませんがそんな話をしたような気もします。

(中 略)

村上検事

証人は三枝方の庖丁を使つたことはないのか。

私自身は使つたことがありませんが奥さんが漬物を切るのに使つていたのは知つております。

証人が両国橋から捨てた刃物と三枝方にあつた刺身庖丁とは同じ品物ではなかつたか。

はつきりとは判りませんが私が両国橋から捨てた刃物が刺身庖丁ではなかつたかと思います。

(ロ)  原第一審第一一回公判

松山弁護人

被告人から大道へ行くようにいわれた際、これをどこかへ捨てて来いといわれて新聞紙包みを渡されたのか。

そうです。四畳半の間のところで渡されました。

その時証人は靴を履いていたのか。

半長靴を履いていました。

その新聞紙包みを渡されてからどうしたか。

私の着ていた寝巻のふところに入れました。

証人はその時寝巻の上からどんな帯紐をしていたのか。

ズボンのバンドで締めていました。

証人は不断大道の方へ行くのにどこを通るのか。

新町橋と両国橋とを半々位に通つていました。

証人は新聞紙包みを何処へ捨てて来いといわれたか。

どこへともいいませんでした。それで私は両国橋の上から新町川の中へ投げ込みました。

どんな風にして投げ込んだか。

右手で握つてそれを前へ振るようにして放り込みました。

自転車に乗つたまま片足を橋の手摺に掛けて放り込んだとか、放り込むと落ちる途中新聞紙で巻いてあるのが取れて中のものが先に落ち込んだというようなことは前にいつたとおりか。

そうです。

両国橋の上から放ろうということはどこで考えたか。

両国橋へ行つてから考えました。

その新聞紙包みは何だと思つたか。

持つた時の感じとか包みの長さから考えて刃物だと思いました。

それ以外に刃物だと考えられることはないか。

ありません。

包んである新聞紙は破れていなかつたか。

どうであつたか気がつきませんでした。

証人は前に自転車に乗る時新聞紙の端から切れ物の先のようなものが出ているのを見たと証言しているがどうか。

そんなことがありましたので、そういいました。

本当に切れ物の先が出ていたのか。

出ているのを見ました。

その先を見たから刃物だと思つたのか。

それと長さとか持つた感じから刃物だと思つたのです。

どんな刃物だと思つたか。

深くは考えません。ただ切れ物だと思つただけです。

証人は前に両国橋から捨てた刃物は刺身庖丁だと思つたとも述べているがどうか。

それは後になつて三枝方の刺身庖丁が無くなつているからそうでないかと考えたのです。

証人は本当に被告人から刃物を預つたのか。

今いつたように刃物を預つたことは間違いありません。

その刃物は何に使つたものだと思つたか。

何に使つたか判りませんでした。

普通捨ててくれと頼まれた場合人に知れないようにそつと捨てると思うが、証人は先に言つたようにさつと放り込んだのか。

そうです。それが何か知らなかつたからです。

証人が刃物を捨てて来いといわれたのはその日朝起きてから普通でない色々の事があつた上でのことであるが、何か考えなかつたか。

おかしいとは思いました。

裁判長

それまでの経過から見て夫婦喧嘩の末亀三郎を刺したのではないかと被告人のことを何とか考えなかつたか。

(証人は答えない)

松山弁護人

証人は川へ投げ込んだ新聞紙包みがちやぶんという音がして水に落ち込むまで見ていたのか。

刃物がちやぶんと落ち込む音は聞きました。新聞紙がひらひらするのは見ましたが川へ落ちるまでは見ていませんでした。その時には未だ暗かつたので遠方の方の水面は見えましたが刃物の落ち込んだ両国橋の下付近の水面は見えませんでした。

その時川の水は満ちていたか干いていたか。

判りませんでした。

証人はそれから両国橋の派出所へ引き返したのか。

そうです。新聞紙包みを放り込んだ時振り返つて見ると派出所のあるのが見えたので引返して行きました。

そして自転車を北の方に向けたまま自転車からおりて派出所へ入つて行つて届けました。何と言つて届けたかは忘れました。

(ハ) 原第一審第一二回公判

藤掛検事

証人が被告人から捨てて来てくれと言われて受取つた新聞紙に包んだものはどこ位の長さのものか。

一尺位でした。

それを持つた時、柄はあるように感じたか。

柄はあつたように思います。

それを見た時証人はこれは刃物だと思つたのか。

奥さんから受取つた時には新聞紙で包んであつたので刃物かどうか判りませんでしたが、それを持つて自転車に乗る時先の方が少し新聞紙から出ていたので、それを見て刃物だと思いました。

その時この刃物は一体どうしたものかと考えなかつたか。

おかしいとは思いました。

何のためにこれを捨てるのか、これはどうしたものであろうかということは考えなかつたか。

(証人は答えない)

その前に四畳半の間を通る時亀三郎の倒れているのを見ており、更に被告人から電線を切るように頼まれたりしたのちのことであるが、この刃物はどうしたものかと考えなかつたか。

(証人は答えない)

証人はこの法廷で証言する前に裁判官の証人尋問を受けたことがあるか。

あります。

その際その刃物はどうしたものと思つたかという検察官の尋問に対し証人は「奥さんがこの刃物で亀三郎を刺したので、それを隠すために、これを放つて来いと言つたのだと思つた」と述べているが、どうか。

その時にはそれが正しいと思つたので、そのように言いました。

その点について、前回公判廷において裁判長の尋問があつた時、なぜそのように述べなかつたのか。

裁判官の証人尋問の時には記憶も新しかつたので、そのように言つたのですが、今は記憶がはつきりしないのです。

新聞紙包みの刃物がべとべと湿つたような感じはしなかつたか。

どうであつたか、はつきり覚えていません。

新聞紙に包んだ刃物は出刃庖丁か短刀か刺身庖丁か、どういう刃物だと思つたか。

細長かつたので、刺身庖丁のように思いました。

(ニ) 原第二審検証期日(昭和三一年八月二九日)における証人尋問

裁判長

証人は事件当日の早朝、茂子に頼まれて、新聞紙に包んだものを川へ捨てるため、両国橋へ行つたことがあるか。

あります。

どのようにして捨てたか。

検証現場で説明したように両国橋の西側欄干の中程のところまで自転車で乗りつけ、自転車に乗つたままで右足を欄干の下の方の横桟にかけ、左手でハンドルを持ち右手で包みの一方を握り腕を体の左側の方から半円を描くように水平に振つて西側の川へ向つて放り投げました。

包み紙の新聞紙は二頁大のものであつたか四頁大のものであつたか。

どちらであつたか覚えません。

新聞紙で包んだままで紐で括つてはなかつたか。

紐で括つてはありませんでした。

中には何か包んであつたか。

包み紙の端から刃物の先が出ていたので刃物だと思いました。

先はどの位出ていたか。

ほんの少しだけ出ていました。

川へ放る折、先の出ている方を持つて投げたか、それともその反対の方を持つて投げたか。

どちらを持つて投げたか覚えません。

両国橋まではどのようにして持つて行つたか。

寝巻のふところへ入れて行きました。

ふところに入れて行つた折、先が腹に刺さるようなことはなかつたか。

そのようなことはありませんでした。

茂子から受取つた時にすぐそれが刃物だと判つたか。

暗かつたので受取つたすぐには判りませんでした。

(中 略)

茂子から新聞紙包みを頼まれたのはいつか。

奥さんにドスを戻してからすぐ後でした。

新聞紙に包んだものが電話線を切つた刃物だとは思わなかつたか。

電話線を切つたドスではなかつたように思いました。

川へ投げた時新聞紙にくるまつたままで川へ落ちたか。

新聞紙と中身とが離れて別々に落ちました。

どおちらが先に落ちたか。

中身の方が先に落ちました。

何か音がしたか。

ボチャンという音が聞えました。

合田裁判官

新聞紙と中身とはいつ離れたか。

水平に投げたのですが、まつすぐ西へ水平に飛んでから下方へ落ちはじめる時に離れました。

(ホ) 原第二審第三回公判

岡林弁護人

包みを受取る時に茂子からどこへ捨てるように言われなかつたですか。

どこへ捨てるようにとは言われませんでした。

なぜ川へ捨てたのか。

どこでもよいからと思つたので川へ捨てたもので、別に理由はありません。

(ヘ) 原第二審第九回公判

岡林弁護人

庖丁を捨てたことについて被告人の茂子から口止めされたことがありますか。

一、二回あつたように思います。

それはいつ頃、どういう機会に、どんな風に言つて口止めされましたか。

忘れました。

庖丁のことを一番最后まで言わなかつたのは、どうしてですか。

別にどうと言つて私が意図したことはありません。

それ以前にも庖丁のことを言つたことがありますか。

ありません。

庖丁のことについては、証人がはじめて捨てたと言つた時より何日位前から調べられていましたか。

覚えません。

庖丁のことを尋ねられるより前に、三枝方の庖丁を持つて来てありましたか。

それを前から持つて来てあつたのか、調べる時に持つて来たのか判りませんが、庖丁は持つて来てあつたように思います。

(二) 次に西野の捜査段階における供述についてみると、既に指摘したとおり刺身庖丁に関する事実が同人の供述中にはじめて現れるのは、逮捕後約四週間を経た二九年八月一八日付の藤掛検事に対する供述調書においてであり、右調書は「私は昨年一一月五日の事件のあつた朝のことで私が見たり聞いたり又自分でやつたことについては残らず申して参りました。奥さんに頼まれて電灯線や電話線を切断したことや又主人と奥さんがあの朝座敷でもじり合いをしていたことなどは正直に申し上げました。ところが今一つ大事なことを隠しておりました。それを正直に申し上げます。という文言で始まるもので、被告人から新聞紙にくるくる巻いた長い物を手渡され、これをどこかへ放つて来て、それから大道へ行つて皆を起して来てくれと頼まれたこと、それを寝巻のふところに入れる時に刃物だと判つたこと、刃物の先が一、二センチ位包みからはみ出ており、新聞紙には何かべとべとしたものがついている感じがして、それが血であろうと思つたこと、両国橋の真中辺でこれを新町川に捨てた時、刃物と新聞紙が分かれて新聞紙はひらひらと落ちて行つたことを語り、「なぜこのことを隠していたかと申しますと、こんなことを云わなくとも事件は解決つくだろうと思つていたし、またこんな事を云うと、私がいよいよ共犯者のように疑われて罪が深くなるように思うていたからであります。」と述べた上、「この私の放つた刃物は当時店の台所の棚の上に置いてあつた刺身庖丁ではないかと考えております。事件前までは確かにナギタンと刺身庖丁があつたのですが、事件後見えなくなり、ナイフのようなもので漬物を切るようになつたのであります。」と付け加えて結んでいる。

同月二〇日、刑事訴訟法二二七条による裁判官の証人尋問が行われ、西野は前々日の藤掛検事に対する供述とほぼ同じ趣旨を述べた上、「刃物を処分したことを誰かに話したことがあるか。」という裁判官の問に対し、「事件後一四、五日たつて私が集金に行つて帰つた時奥さんから帰りが遅いと言つて叱られました。その晩阿部に私が事件前刺身庖丁があつたが今あるかと聞くと阿部は「ない」と言いました。それで私が事件の朝奥さんから切れものを捨ててくれと頼まれて捨てたと話し、その刃物は刺身庖丁でないかと思うと言いました。」と述べ、また検察官の「これまで刃物の処分について述べなかつたのは、なぜか。」という問いに対し、「奥さんと共犯と思われたら困るので隠していました。」「奥さんがやつたという証拠も出て、奥さんが単独でやつたと考えてもらえるように感じたので、話すようになりました。」と答えている。

(三) このように、西野は刺身庖丁の件について黙つていた理由を一応説明しているが、既に見て来た同人の検察官らに対する累次の供述の跡をたどつてみれば、その理由は容易に納得出来るものではない。

確かに被告人に頼まれて殺人の凶器と思われるものを捨てた事実が明らかになれば、自己の罪責が一層重くなり、共犯の疑いをこうむることもあり得ると西野が考えるのは、一応もつともであるが、共犯にされることがおそろしければ被告人の単独犯行、あるいはそうでないとしても自己とは無関係な犯行であることが立証されるように、決定的な情報を早く提供する方が有利なはずであるし、検察官が西野を殺人の共犯に問われるのではないかという不安に陥れるような取調をしたとは考えられない。また西野が刺身庖丁を捨てたという事実そのものは、被告人が自白すれば判つてしまうことであり、既に阿部に語つているとすれば、阿部の口からもれる可能性もあり、それが真実である限り、隠し切れることではない。かつ西野は七月二一日の逮捕以来連日の厳しい取調にさらされ、検察官の意図に沿つて被告人の罪責を立証する供述を重ねているのに、刺身庖丁を捨てたことだけを一ヶ月近くにわたつて隠し続けていたというのは、何と言つても不自然の観を免れない。

また血が付いた凶器と思われるものを川に捨てた直後、派出所が見えたからと言つて、格別必要もないのにわざわざ警察官に事件発生の届け出をするということも、普通人の心理としては理解し難い行動である。そもそも両国橋に巡査派出所があることを西野が知らなかつたとは考えられず、血が付いた刃物をふところにして寝巻姿で派出所の前を通つたり、派出所の巡査の目が届く可能性がある場所で証拠物件を川に投げ込むような行動に出るということ自体、その真実性が一応疑われる供述である。

他方、被告人の立場からしても、どこへ捨てよという指示も与えずに、重大な証拠品を西野の処分に委ねるというのは、余りにも粗雑なやり方である。刺身庖丁の血を洗つて台所に戻しておくことが出来ないわけではなく、むしろその方が得策であつたと考えられる。無論殺人を犯した直後の動転した心理状態では、凶器として用いた物を一刻も早く身のまわりから遠ざけたいという衝動に駆られたとしても不思議はないが、西野がもし刺身庖丁を発見の可能性がある場所に捨てれば、自ら墓穴を掘る結果になりかねないのに、何の注意も指示も与えず、ただ捨ててくれと言つて渡したというのは、いかにも不用心過ぎるという疑問を禁じ得ない。被告人がその後西野に刺身庖丁の包みをどこに捨てたのか尋ねた事実が証拠上認められないことも、右の疑問を一層深くするものである。

(四) 松倉豊治作成の二八年一一月一九日付鑑定書によれば、亀三郎殺害の凶器は、切つ先が尖つている鋭利な片刃の刃物であるとされ、事件現場で発見された匕首は、一応この条件に合うものであつたから、捜査官が凶器としてこの匕首が用いられたことの可能性を考えていたであろうことは容易に推測出来る。もつとも佐尾山明作成の同年一二月三日付鑑定書によれば、匕首の刀身には人の血痕が付いているが、その量が少なくて血液型の検出は困難であるとされているけれども、右鑑定結果によつても、この匕首が凶器である可能性が否定されたとまでは考えられない。

しかし、その後検察官が科学捜査研究所に鑑定の嘱託をした結果、富田功一及び山村醇一作成の二九年八月一四日付鑑定書によつて、「匕首には一応血痕らしきものが付いているようであるが、血液とは断定することは出来ない。血痕と疑わしいものの付着している部分について、人血証明の沈降反応を試みたが、人血が付着していることを確認し得なかつた。」との趣旨の結論が示され、検察官はこの頃、あらためて匕首以外に被告人が手にすることが出来る凶器があつたと考えるに至つたものと推認し得る。同月一八日に西野がはじめて刺身庖丁が凶器であつたという判断に結び付く供述を検察官に対してしたのは、右のような想定にもとづく誘導的追及に迎合した結果ではなかろうかと考えられる。そうだとすれば、既に長期の身柄拘束のもとに置かれている西野が、架空の事実を創作して述べることも、多分にあり得ることとしてよい。

2 刺身庖丁の捜索の結果

西野が捨てたという刺身庖丁を発見するために、二九年八月二六日から同月三〇日までの五日間にわたり、両国橋の上流二〇メートル、下流二〇メートルの範囲で、大規模な川ざらえが行われたが、目的物を発見することが出来なかつた。

原第一審第九回公判における大柳忠夫の証言によれば、最初の二日間は潜水夫が川底を探し、三日目、四日目には漁業用のマンガンと称する用具で上流から下流に向つて探し、五日目にはゼリーと称する物で川底を引つかいて探したが、結局刺身庖丁は見つからなかつたというのである。

このことについて潜水業者である大柳は、刺身庖丁は軽いので潮の満ち干や船のスクリューの回転によつて移動し、また刺身庖丁自体が腐触することも考えられ、川に捨ててから一〇箇月も後に捜索しても、発見の可能性は極めて乏しい旨の見解を述べている。右見解そのものは一応常識的に是認することが出来、刺身庖丁が見つからなかつたからと言つて、これを捨てた事実がないと積極的に否定するには当らないと考えられるけれども、とにかく物証の裏付けは得られなかつたのであるから、右事実の存在を疑い得る余地は依然残されているわけである。なお、西野は前記のように新聞紙で包んだ刺身庖丁を捨てた時、中身が新聞紙と離れて先に落ちたと述べているが、原第二審の検証の結果によれば、実験のため両国橋の上から新聞紙に包んで川に捨てた庖丁は新聞紙と一体となつて落ちたのであつて、このことも一応の疑問点として指摘し得る。

3 西野の寝巻の胸に付いた血痕について

西野の前記証言及び供述によると、西野が寝巻のふところに入れた新聞紙包みの表面には血が付いていたと考えられ、新聞紙の包みから少しはみ出していた刺身庖丁の刃先に血が付いていた可能性もある。そうだとすれば西野の寝巻の胸あるいは衿付近に、その血が付くのが自然だと思われる。

かつ松倉豊治作成の二八年一一月一九日付鑑定書によれば、亀三郎の血液型はO型であるから、刺身庖丁が同人を刺した凶器であるとすれば、西野の寝巻の胸あるいは衿付近から、O型の血痕が検出される蓋然性が高いということが出来る。

当時西野が着ていた寝巻は、事件後三週間余り経た二八年一一月二八日に、裁判官の捜索差押許可状にもとづき、司法警察員が西野らの小屋の中で発見し押収したもので、当裁判所はこれを昭和五八年押三二号符号八として領置した。

これに関する三村卓作成の二八年一二月一七日付鑑定書によると、右寝巻の表側前裾付近には、A型の血液が若干付いているが、新聞紙に包んだ庖丁をふところに入れた場合に接触する可能性がある部分のうちでは、右胸部に極めて微量の米粒大の褐色斑痕が一個存在するのみである。

右斑痕につき、当裁判所は金沢大学医学部教授永野耐造の鑑定を求めた。その結果同人が作成した鑑定書によれば、右斑痕は左右径約六ミリメートル、上下径最大約三ミリメートルの大きさで、中央が縦にくびれた形をなす人の血痕であつて、寝巻布地の表側から付着したものであり、血痕全般に強いA型活性が存在し、血液型は明らかにA型であること、かつ血痕のほぼ全般にわたつて、所々に微弱なB型活性が存在し、血痕内の二箇所に微弱なO(H)型活性が存在すること、血痕の範囲以外の周辺の布地には人血の痕跡はないが、ほぼ全般にわたり微弱なA型活性と微弱なB型活性が存在し、O(H)型活性は全く存在しないこと、すなわち血痕を含む周囲全体に微弱なA型及びB型活性を有する血液以外の何らかの物質が付着していること(このA型活性は血痕内部では付着血液の強力なA型活性によつてマスクされていると考えられる)が認められる。

右の鑑定結果につき、永野鑑定人は当公判廷における証言で、O(H)型を示す物質は自然界にかなり沢山あるが、右血痕中のものについては人のO型血液に由来する可能性が最も高く、汗などの体液によるものであれば、血痕中の二箇所のみに局限されることはなく、周囲全般ににじんで広がつていると考えられ、A型あるいはB型の血液が酵素の作用で分解され、O(H)型活性を示すことは、特殊な条件のもとでは起り得るが、血液が付着してから比較的早い時期に乾燥され、証拠物として保存されているような場合には、血液型分解酵素の作用を受ける可能性はないので、そういう現象は生じ得ない旨述べている。

以上の見解に従えば、西野の寝巻の胸には、A型人血の外に、ごく微量のO型人血が付着していた可能性が高いというべきであるが、これがA型人血にまじつて同時に付着したのか、異る時期に付着したのかは、右証言においては不明とされる。

ところで被告人の血液型はA型であり(佐尾山明及び三村卓作成の二八年一二月一九日付鑑定書並びに原第一審第三回公判における村上清一の証言)、被告人も事件当時刺されて出血し、その血が落ちていたと認められる現場を西野は寝巻のままで歩きまわつていたのであるから、西野の寝巻の裾に付いていたA型の血は被告人の血であろうと考えられ、胸部に付いたA型の血についても、同様である蓋然性が高い。

西野自身の血液型は記録上明らかではないが、本件事案の審理経過に照らすと、仮に同人の血液型がO型またはA型であれば、弁護人は本再審公判において、容易にそのことを立証し得たであろうと考えられるので、同人の血液型はそのいずれにも該当しないものと一応推測出来る。勿論西野が使用している寝巻に事件とは無関係な原因で第三者の血が付くこともあり得なくはないが、偶然に付く程度の量であれば、それほど長い間、洗い落されずに残つている可能性は乏しいから、胸部に付いた血も被告人の事件当時の負傷に由来すると考えるのが合理的である。同様な理由から、仮に胸部にO型人血が付いていたとすれば、その付着の時期も寝巻が押収された時からそれほどさかのぼるとは考えられないし、別々の機会に付いた血が、共に寝巻の胸の米粒大の同一箇所に付着するということも、到底考えられない。

従つて被告人に最も不利益な考え方をすれば、刺身庖丁に亀三郎のO型の血と、亀三郎が一旦これを奪い取つて被告人を刺した結果付いた被告人のA型の血とが混在していたのが、更に西野の寝巻の胸に付いたのではないかという推定が一応可能である。

しかし出血の量は、亀三郎のO型血液の方がはるかに多かつたはずであるのに、胸部の血痕は全体として明らかにA型であつて、O型血液は存在するとしても極めてかすかに痕跡をとどめるのみであることは、右の推定を疑わしめるものであるし、血液が寝巻の裏側からではなく、表側から付着していることも、庖丁をふところに入れた結果としては説明しにくい点である。西野がいうように、新聞紙包みにまでべとべとしたものが付いていたとすれば、むしろ寝巻の裏側に一層血が付くのが自然ではないかと思われる。

前記のO(H)型活性がO型人血に由来するということも、必ずしも断定は出来ないと考えられ、この点を一応切り離して見れば、事件当時西野の寝巻の胸に被告人の血が偶然に付き、米粒大の血痕をとどめたとしても、必ずしもあやしむべきではない。

結局、右血痕の存在が一応検察官の主張の裏付けとなり得ることは認められるが、決定的なものとは言えず、結論は他の証拠との総合判断の結果に待たなければならない。

4 刺身庖丁が無くなつた事実は認められるか

(一) 阿部は藤掛検事に対する二九年八月一八日付供述調書において、「事件後半月位して西野が被告人に帰りが遅いと叱られた晩、二人で店をやめようかと話し合つた。事件当日二人で亀三郎と被告人の争いを見たことから、主人を殺したのは被告人に間違いないなあ、こんなことは他人に話さん方がええなあという話をした。その時西野が突然、台所で使つていた刺身庖丁を事件後に見たかとたずねるので、見ておらんと答えると、西野は、その庖丁のことをわしは知つておるんじやと言つた。西野がその庖丁がどうなつたか言つていたことは間違いないが、その内容は今はつきり覚えていない。西野はその庖丁を被告人に頼まれてどこかへ持つて行つたような話をしたと思う。」と述べ、翌八月一九日付の同検事に対する供述調書では、「二八年の四月に三枝方に雇われた時、三枝方の台所には、いつもさびたナギタンが置いてあつた。それで私たちが食べる漬物を刻んでいた。同年七月中旬にナギタンが見当らなくなり、その代りに買つて間もない新しい刺身庖丁が台所の棚に置いてあつた。それからはずつとこの庖丁で漬物を刻んでいた。それは刃の長さ約二〇センチメートル、柄の長さ約一〇センチメートル位で、柄の真中辺に小判形のマークがあり、その中に製造会社の名前が右側に小さい字で焼き込んであり、左側に大きな字が一つか二つあつたと思う。私がこの庖丁を最後に使つたのは去年の一〇月末頃に国体があつた日の朝で、これで漬物を切つた。事件後四、五日目に台所の棚からこの庖丁が無くなつていることに気付いた。その後西野からこの庖丁をどこかへ持つて行つたような話をきいて、事件の時この庖丁が使われたのではないかということや西野が庖丁の行方を知つていることを薄々察していたが、西野に迷惑がかかると思つて黙つていた。」と述べている。

阿部の原第一審公判における証言中刺身庖丁に関する部分も、簡略ながらおよそ以上と同様のことを述べている。

(二) 検察官は二九年八月一三日、令状により三枝方を捜索した結果、刺身庖丁一本(刑五号証の二)と共に出刃庖丁、菜切庖丁各一本(刑五号証の一及び三)を押収した。その後同月二一日に三枝皎が検察庁で取調を受けたのち、帰宅して水屋の中から別の刺身庖丁一本を見つけ、検察庁に知らせてこれを任意提出した(刑六号証)。この庖丁は先が折れていた(二九年八月一三日付捜索差押許可状、同日付捜索調書及び差押調書、三枝皎作成の同月二一日付任意提出書、同日付領置調書、原第一審第一四回公判における三枝満智子及び三枝皎の各証言、検察事務官に対する三枝皎の同年九月一日付供述調書、原第一審第一回公判調書中の押収目録)。

これらのうち刑五号証の二の刺身庖丁の柄には、「義信改」という文字のマークがあり、刑六号証の刺身庖丁は、先が折れている上にねじれていて、柄に「源玉虎」という文字のマークがあつた(岡田花枝の村上検事に対する二九年九月一七日付供述調書)。なお井内昇一の藤掛検事に対する同年八月二四日付供述調書によると、同人は両国橋で中屋という名称で金物商を営み、昭和二四、五年頃から三枝方に商品を売つていること、二七年の一月か二月頃被告人が店に来て刺身庖丁と菜切庖丁を一本ずつ買つたこと、「源玉虎」のマークが入つた品は当時店にあつたこと、「義信改」という品は二五、六年頃までは置いていたが、その後は取扱つていないことが認められる。

(三) この二本の刺身庖丁がいつから三枚方にあつたかは一応別として、これらとは別に西野が捨てたという刺身庖丁が事件当時三枝方に存在しなくてはならないので、この点について更に検討すると、二八年五月一日から六月末まで三枝方に女中として雇われていた中西益子は、二九年八月二〇日付の村上検事に対する供述調書中で、「二八年五月一日から同月末まで八百屋町の店に住み込んでいた当時、菜切庖丁と刺身庖丁が一本ずつあつたが、刺身庖丁は被告人が魚料理に使うだけで私が使つたことはない。菜切庖丁は刃があちこちこぼれて大分痛んでいたが、刺身庖丁は柄の方が少し黒くなつているだけで、刃全体が光つている割合新しいもので、長さは柄を含めて三〇ないし三六、七センチ位あつた。翌六月一日から同月一杯大道の家で女中をしたが、洋裁を習うために七月一日にやめた。そこには刺身庖丁も菜切庖丁もなかつたので、八百屋町の菜切庖丁を持つて行つて使つた。その間一度店員が私が作つた御飯と一緒に菜切庖丁も店に持ち帰つたことがあるが、間もなく取り戻した。店にあつた刺身庖丁は一回大道に持つて来て使つたことがあるが、すぐ店員が持ち帰つた。私が大道にいる間は私が作つた食事を店員が店へ運んでいた。」と述べ、刺身庖丁を示されて、「昨年五月当時八百屋町の店にあつた刺身庖丁は、長さや刃の幅、厚み、形、光り工合などがこれに非常によく似ていた。」と述べている。刑六号証の刺身庖丁は当時まだ領置されていなかつたから、ここで示されているのは明らかに刑五号証の二の方である。

中西は次に同年九月九日付の藤掛検事に対する供述調書で、「昨年六月中に一度だけ、八百屋町の店員が、漬物を買つたのに庖丁がないと言つて、大道の家から菜切庖丁を持つて行き、その日のうちに返した。また被告人が晩のおかずにしなさいと言つて大道に魚を持つて来た後で、店員が八百屋町に置いてあつた刺身庖丁を届けてくれたことがあり、その時も店員の石川か阿部が食事を取りに来た時、庖丁を一緒に持ち帰つてもらつた。このほかには店から刺身庖丁を大道に持つて来たことはない。」と述べた上、刑六号証の刺身庖丁を示されて、「八百屋町の店にあつた刺身庖丁はもつと新しかつた。このように先が折れて砥石で擦り減り刀身が左に曲つた刺身庖丁は見たことがない。」と述べている。

中西の同月二五日付村上検事に対する供述調書の内容は、前の二通とほぼ同じであるが、最後に刑五号証の二の刺身庖丁について「そのように割れ目のある古びた刺身庖丁は見たことがない。被告人が使つていた刺身庖丁は、これと長さや形は大体似ているが、柄がもつと白く、刀身も光つていて、あまり砥石で擦り減つてはおらず、割合新しい品であつた。」という前と異る供述が録取されている。

一方、中西が女中をやめた後で雇われた佐々木良子は、二九年八月二一日付の村上検事に対する供述調書で、「昨年九月から一二月末まで三枝方に雇われた。但し日頃は大道の家に寝泊りして働き、月に三度位店に行つて掃除や洗い物をした。雇われた時大道の家には既に菜切庖丁と出刃庖丁があつて、これらを使用したが、刺身庖丁は同じ物を大道で使つたり八百屋町の店で使つたりし、その都度被告人や西野、阿部が持ち運びしていた。これも私が雇われた時からあり、刺身庖丁はこの一丁だけであつた。主人が殺される前の月の昨年一〇月一五日頃、被告人が「おつくりせんならんから」と言つてこの刺身庖丁を大道から店へ持つて行き、そのままになつていた。この庖丁は長さが柄を含めて一尺二、三寸の普通の刺身庖丁で、柄は黒くなつていて、大分使つた品に見えた。刃物は研(原本ではこの一字脱落)ぐ部分はかなり光つていたが、峯に近い砥(原本では「石」と書きかけてある)石を当てない部分は、かなり黒くなつていた。しかし錆びてはいなかつた。」と述べ、示された刺身庖丁につき、「被告人が大道から持つて行つた刺身庖丁は、長さ、刃の厚み、幅などが、これに非常によく似ていた。」という。右供述調書は徳島地方検察庁で録取されたものである。

ところが村上検事は同日更に佐々木の住居地で同人を取調べ、供述調書を作成しており、同人は右調書中で、「私が本日検察庁で被告人が昨年一〇月中に店へ持つて行つたと述べた刺身庖丁は先が折れた相当古い物です。」と言い、示された刺身庖丁について、「先が折れていること、研ぎによる減り方、少し曲つていることから、被告人が持ち帰つた品に間違いないと思う。」と述べている。これが刑六号証の刺身庖丁であることは明らかであるから、その前に検察庁で示されたのは、刑五号証の二の方だと考えられる。

以上によれば、刺身庖丁の同一性に関する中西、佐々木両名の数次にわたる供述は、同一人の供述においても一貫性が乏しく、これらを矛盾なく理解することには困難があるが、刺身庖丁の数については、右両名が知る限り、事件前の数箇月間を通じて、三枝方で使用されていた刺身庖丁は一本しかなく、これを八百屋町の店と大道の家の両方で使つていたということになる。そして佐々木が述べるように事件前の一〇月一五日ころ被告人が大道にあつた刺身庖丁をわざわざ八百屋町に持ち帰つたとすれば、当時被告人の手元に別の刺身庖丁があつたとは思われず、原第二審判決が判示しているように被告人の犯行が計画的なものではないとすれば、被告人が事前に別の刺身庖丁を準備したとは考えられないし、そういう証拠もないから、亀三郎を刺した凶器は佐々木がいう刺身庖丁であつたと理解するのが最も自然であろう。

しかし、佐々木がいうように、被告人が持ち帰つたのが刑六号証の刺身庖丁であつたとすれば、右のような解釈はもとより成り立たない。無論、それが刑五号証の二であつたとしても同じことである。佐々木は同じ日に二本の庖丁を別々に示されて、その一方について被告人が持ち帰つた物に似ていると言い、他方については同じ物だと思うと言つており、しかも後者には先が折れて刃がねじれているという特徴があることを考えると、佐々木の供述がどの程度信用出来るかは問題であるが、いずれにしても同人の供述からは、被告人が持ち帰つた刺身庖丁が紛失したという結論は出て来ない。

これに反し中西の最後の供述によれば、同人が女中をしていた当時被告人が使つていた刺身庖丁は、領置された二本のうちのいずれでもないことになりそうであるが、中西がその庖丁を見た時から右供述の時までの間には一年二箇月の隔たりがあり、かつ同人は右供述においても、その庖丁の長さや形は刑五号証の二に似ていると言い、その以前にはもつと積極的に両者の類似性を認めていたのであるから、被告人が使つていた刺身庖丁と刑五号証の二が同一物である可能性はにわかに否定し難い。

要するに中西、佐々木両名の供述からは、事件当時三枝方に存在したことが確実に認められる刺身庖丁は一本しかなく、これが領置された二本のうちのいずれかである可能性があるという結論になる(もちろん事件当時にあつたはずの刺身庖丁が八箇月後の捜査の際に領置されなかつたとしても直ちにそれが凶器として使用された後に捨てられたと認め得るわけではない)。

なお現実に領置された二本の刺身庖丁がいつから三枝方にあつたのか、二七年一、二月頃被告人が中屋金物店で買つた刺身庖丁がその中の一本であるか否かについては、二七年一月初め頃から二八年三月下旬頃まで八百屋町の店で女中をしていた岡田花枝は、「私が雇われた当時、台所には出刃庖丁一本しかなかつたが、間もなく被告人がどこからか刺身庖丁と菜切庖丁を一本ずつ買つてきて、私が三枝方いる間はずつとこれら三本の庖丁を使つていた。八百屋町の店にはその外の庖丁はなかつた。その刺身庖丁は私がよく手入れしていたので、私がやめる時にもよく光つていた。私が勤めている間、その先が折れたことはないし、刃がねじれたこともないと思う。柄には四角のマークがあり、中に何か字が書いてあつたと思う。長さや刃の幅は刑五号証の二や刑六号証の刺身庖丁と同じようなものだつたが、そんなに汚れたり錆びたりはしていなかつた。マークも「源玉虎」や「義信改」とは違つていた。」(原第一審第七回公判における証言並びに村上検事、藤掛検事及び検察事務官に対する各供述調書)と述べ、三枝登志子が村上検事に対する二九年九月一一日付の二項から成る供述調書中で、岡田花枝がいた当時刺身庖丁の先が折れているのを被告人が見て、誰が折つたのかと腹を立てたと述べていることに対して、そのような事実はないと強く否定している。しかし岡田がマークの文字が違うと述べているのは村上検事に対する同年九月一七日付供述調書においてのみであり、日頃使つている庖丁であつてもそのような点にまで注意が向けられることは余りないと考えられる上に、実際使用していた庖丁にどんなマークがあつたかという具体的な記憶はないというのであるから、右の供述はさほど信頼すべきものではない。かつ右供述調書の別の部分では、「私が奥さんに買つてもらつた刺身庖丁は(刑六号証の)先の折れた薄刃の軽い庖丁によく似たもの」と述べており、岡田が三枝方を去つた後に同人が使つていた庖丁の先が折れたり刃がねじれたりすることもあり得るから、岡田の証言や供述を根拠として、被告人が中屋金物店で買い、岡田に使用させていた刺身庖丁と、領置された庖丁との同一性を否定するのは相当ではない。前記井内昇一の供述調書によつても、「源玉虎」のマークがある刑六号証の庖丁が当時被告人の買つた品である可能性は認められる(もつとも「義信改」のマーク入りの庖丁がたまたま店に残つていて、それを被告人が買つたということも、あり得なくはないであろう。)

刺身庖丁については、以上の外に石川幸男が、二七年一一月頃それまで見かけたことがない刺身庖丁が新しい紙箱に入れて台所の棚の上に置いてあり、翌二八年七月自分が店をやめるまであつた(二九年八月二一日付斎藤隆晴副検事に対する供述調書)と述べているが、炊事を担当している岡田が当時刺身庖丁は一本しかなかつたと述べているのであるから、石川が見たのがそれ以外の物であつたとは考えられない。

(四) 以上検討した結果によれば、岡田花枝が女中として雇われた頃から事件発生に至るまで、八百屋町の店と大道の家との両方を通じて、同時に二本以上の刺身庖丁が日常使用されていたことはなく、このことと領置された二本の刺身庖丁が共にかなり古い物であつたと認められること、事件後新たに刺身庖丁を買つたという証拠はないことからすると、西野、阿部がいうように事件当時右二本とは異る刺身庖丁が存在し、これが紛失したということは、むしろ否定されるのではないかと思われる。

5 まとめ

以上見たところによれば、刺身庖丁を捨てたという西野の公判証言及びその起源となつている供述は、右供述が現れた時期が余りに遅く、かつ供述の内容自体真実性が乏しいことなど、疑問が多いものであり、刺身庖丁自体発見されず、当時刺身庖丁が紛失したという事実も肯認し難いのであつて、寝巻の血痕の鑑定結果が一応被告人の血が西野の寝巻の胸に付いたことを推測させるなどの点で検察官の主張に沿うように見えることを考慮しても、右証言の信憑性は未だ認め難いものと考える。

四  匕首の入手経路について

1  阿部の公判証言及び公判前の供述

(一) 前記のとおり、本件殺人現場付近で発見された匕首は、二八年四月前後には、新天地の暴力団篠原組の手中にあつたことが、徳島市警の捜査によつて明らかにされており、被告人を犯人とするためには、この匕首が何らかの経路で事件前に被告人の手に渡つたものであること、言い換えれば被告人とは関係なく事件発生の際に外部から持ち込まれたものではないことを証明することが、絶対に必要であつた。

この点に関する阿部の公判証言は右の要請に答えるものであり、その内容はおよそ次のとおりである。

(イ) 原第一審第二回公判

藤掛検事

証人が顔を洗つている時見つけた匕首は、それまでに証人が見たことがある匕首か、又は全然見たことのない匕首か。

見たことのある匕首です。

どこで見たか。

事件の前に、炊事場の棚に置いてあるのを見ました。

工事場の壁に立てかけてあつた匕首はどんなものか。

鞘はなく柄には布を巻いて糸で括つてありました。

どんな色の布で巻いてあつたか。

布の色は紺色で糸は白かつたと思います。

その匕首は前に証人が三枝方の炊事場の棚で見たものと同じであつたか。

同じものです。

村上検事

炊事場の棚の上に置いてあつた匕首は、どこから持つて来たものか。

徳島駅前新天地の篠原という家から昨年一〇月末頃私が持つて帰つたものです。

どんなことからそれを持つて帰つたのか。

藍場町の森という家から、あんま器の修理を頼まれていたが、その修理が出来上がつたので、それを森方へ届けに行く時、奥さんから帰りに新天地の篠原方へ行つて、三枝と言つたら渡してくれるものがあるから、もらつて来てくれと言われました。それで私は出かけましたが、森の家が判らないので、一度店へ帰り、聞き直してまた出かけて、あんま器を森方へ届け、それから駅前の方から新天地へ行きました。

篠原の家はすぐ判つたか。

新天地の入口で聞くと、すぐ判りました。

篠原方には入口が二つあつたか一つであつたか。

入口が二つありました。それで東側の入口から入りますと女の人が出て来ましたので、三枝ですがと言いますと、それだけで判つたらしく、その人は二階へ上がりましたが、今度は西側の入口の方から、こつちへ来てくれと言いましたので、そこへ行きますと渡してくれました。

女の人というのは、どんな人か。

眉の毛の吊り上つた人ですが、年は三〇位でした。

西側の入口には何か目印でもあるのか。

入つた所に棚を吊つてありました。

その女の人から何を渡されたのか。

茶色の紙に巻いて紙紐で括つてある長さ一尺位の細長いものです。それを受取つて私は店へ帰りました。

帰つてからどうしたか。

持つて帰つて、店の電話機を置いてあるところで奥さんにそれを渡しました。すると奥さんは、へいとか何とか言つてそれを受取り、四畳半の間の方へ持つて行きました。

証人が炊事場の棚で匕首を見たというのは、その日か。

そうです。その日の夕方です。夕食の食器を取りに行つた時、棚の上に私が持つて帰つたものを置いてあつたので、開けて見ますと匕首であつたので、すぐ元のところへ置いておきました。

その匕首が、その事件後、壁に立てかけてあつたという匕首と同じものか。

そうです。

証人は、その後、篠原方で証人に匕首を渡してくれた女の人を見たことがあるか。

検察庁で一度会いました。その後篠原の家の方へ調べに行つた時にも会いました。

篠原方へ調べに行つた時には、検察官や裁判官も一緒であつたか。

一緒でした。

その時会つた女の人に匕首をもらつたことは間違いないか。

間違いありません。

藤掛検事

証人が篠原方から匕首を持つて帰つた時、西野は店にいたか。

おりました。

西野からその匕首のことについて聞かれたことがあるか。

炊事場の棚の上に置いてあるのは、どこから持つて帰つたのかと聞かれたので、私は駅前の新天地から持つて帰つたと答えました。

新天地の篠原方から持つて帰つたとは言わなかつたのか。

篠原方とは言いませんでした。

篠原方から持つて帰つた日以後、その匕首を見たことはないか。

それから二、三日して、奥さんに頼まれて、その匕首の柄に糸を巻いたことがあります。

証人が何をしている時、被告人にそれを頼まれたのか。

私が店でラジオの修理をしている時、炊事場にいた奥さんから呼ばれたので、上がつて行きますと、奥さんは匕首を持つて、この柄に布を巻き、その上に糸を巻きかけておりましたが、私にこの糸をもう少し固く巻いてと言いましたので、それを巻きました。

その柄に巻いてあつた布の色は何色か。

紺色でありました。

巻いてからどうしたか。

奥さんに渡しました。奥さんがそれをどうしたかは判りません。

匕首の柄を巻いた糸は何の糸か。

ラジオのダイヤルの糸だと思います。

なぜそう思うのか。

ラジオの修理にはその糸しか使いませんし、その日奥さんからダイヤルの古い糸ないでと言われたので、修理台の中から糸を探し出し、店で奥さんに渡してあつたので、その糸だと思うのです。

その糸は新しい糸か。

新しいものではなく、擦れて黒くなつた古い糸です。

証人が炊事場で被告人に呼ばれたのは、その糸を渡してのちのことか。

そうです。私が奥さんに糸を渡し、奥さんが糸を持つて四畳半の間へ入つて行つてから暫くして呼ばれたのです。

そのような出来事のあつたのは、大体いつ頃か。

匕首を持つて帰つた翌日か翌々日であります。

そのように証人が柄を巻いた匕首とこの事件後新築の家の壁に立てかけてあつた匕首とは同じものか。

そうです。

どんなところから同じだと判つたか。

匕首の形とか柄を巻いた布の色とか糸とか、その巻き方などで判りました。

(ロ) 原第一審第七回公判

藤掛検事

証人は、昭和二八年一一月五日以前に徳島駅前の新天地の篠原方から匕首を受取つて来たことがあるか。

受取つて来たことは間違いありません。

証人はその時まで篠原方へ行つたことはなかつたのか。

それより前一度ラジオの修理に行つたことがあります。

それはいつ頃か。

昭和二八年夏頃です。

(中 略)

そのようなことがあつたとすれば、証人としては、被告人に言われて篠原方へ行つた時には、篠原の家をよく判つていたわけか。

大体判つていました。

証人が匕首を取りに行く前に、三枝方に見たこともない若い男が来て、被告人と何か話をしているのを見なかつたか。

そんなことがありました。私が匕首を取りに行く一週間位前のことです。

時刻はいつ頃であつたか。

昼過ぎ頃であつたと思います。

証人はその男の姿を見たか。

見ました。

その男はどこで奥さんと話をしていたか。

店から四畳半の間への上がり口で話していました。

その男の人相とか服装を記憶しているか。

それは記憶していません。

その男の年齢はどの位か。

二五、六歳でした。

その男と被告人はどんな話をしていたか。

話の内容は聞いておりませんが、暫く話していました。

その男が店から帰る時何かあつたか。

奥さんが私を指して、この子をやるからと、その男に言つていました。

その男も証人の方を見ていたか。

見ておりました。

(中 略)

篠原方へ行けと言われた時、証人はどう思つたか。

前に店に来ていた若い男は篠原の若い者かなと思いました。

証人が篠原方へ行つた時には、その若い男はいなかつたか。

おりませんでした。

証人は最初その若い男を見た時、その服装などからして、どんな商売をしている人だと思つたか。

そんなことは考えませんでした。

何も感じなかつたか。

普通の仕事をしている人のように思いました。

普通の仕事と言つても色々あるが、どんな仕事か。

何か重労働をやつている人だと思いました。

証人が前に被告人から固い糸を取つてくれと言われ、ダイヤルの糸を渡したのはいつか。

匕首を持つて帰つた翌日か翌々日の昼頃であります。

どこでその糸を渡したか。

四畳半の間の上がり口で渡しました。

その時被告人は何か持つていたか。

どうであつたか記憶しません。

糸を渡してからどうしたか。

奥さんは糸を受取ると、そのまま奥へ入つて行きました。それから暫くすると阿部さんと呼んだので、行つて見ますと台所で奥さんが匕首を持ち、その柄に紺色の布切れを巻き、その上を私の渡した糸で巻こうとしていましたが、私が行くと巻いてくれというので巻きました。

(中 略)

証人が被告人に渡した糸は店の道具箱に入つていたのか。

そうです。道具箱に入つていたダイヤルの古い糸です。

どんな糸であつたか。

古い木綿糸のような白糸です。

古いラジオにはそんな糸を使つているのか。

そうです。

新しいラジオにはどんな糸を使つているのか。

黄色い糸を使つております。

(ハ) 原第一審第一二回公判

松山弁護人

証人が新館の風呂場に立てかけてある匕首を発見した時も、寝巻のままであつたか。

匕首を発見したのは顔を洗つている時でしたが、寝巻を着替えて後に顔を洗つたと思いますので、着替えをしていました。西野も一緒でした。

証人は匕首を手に取つて見たか。

手には取りませんでした。

その匕首には鞘はあつたか。

鞘はありませんでした。

匕首の刃には血が付いていたか。

血は付いておりませんでした。

匕首の柄はどうなつていたか。

何か布切れを巻き、更にその上に布切れを留めるために糸を巻いてあるのが見えました。

徳島駅前新天地の篠原というのは、前から知つていたのか。

一度、電蓄の修理に行つたことがあるので知つていましたが、家がどの辺にあるか、はつきり覚えていませんでした。

(中 略)

証人が被告人に頼まれて篠原方へ行き、匕首を受取つて帰る時、それが匕首であることは判つていたか。

ハトロン紙に包んで括つてあつたので、何かはつきり判りませんでした。

それが匕首だということを判つたのはいつか。

その日の夕方頃判りました。夕方頃それを炊事場の棚の上に置いてあるのを見て、包んである紙を開けて見ました。

その匕首と事件のあつた朝新館の風呂場のところで見つけた匕首とは同じものか。

同じものでした。

同じものだとはつきり言えるのか。

言えます。

証人がその匕首をはつきりと見たのはいつか。

奥さんに頼まれて匕首の柄に糸を巻いた時に見ました。

証人がその匕首を炊事場の棚の上で見た時、匕首には鞘があつたか。

鞘があつたかどうか記憶しません。

柄はどうなつていたか。

ぼろの布切れで巻いてありました。

(以下略)

(二) 阿部の公判廷における証言は以上のとおりであるが、既に指摘したとおり、阿部がよそから匕首を預つて被告人に渡したという事実を初めて述べたのは、二九年八月一一日に匕首所持の被疑事実により逮捕されてから一〇日も経た同月二一日付の藤掛検事に対する供述調書においてであり、しかもその内容は、藍場町の森会で若いやくざ風の男に、これを奥さんに渡してくれと新聞紙に包んだ匕首を渡されたというもので、翌二二日に至つてこれを嘘であつたとして撤回し、あらためて公判証言とほぼ同じ内容の供述をしている。

阿部も西野と同様、既に七月の初めから被告人が犯人ではないかと事件当時から疑つていた旨の供述をし、逮捕勾留後は事件現場での三枝夫婦の争いを目撃したことを述べているのに、匕首を取りに篠原方へ使いにやられた事実だけを最後まで隠していたというのは、いかにも不自然であり、そのことについて筋が通つた説明は全く与えられていない。

その上内容自体についても、理解に苦しむ点が甚だ多い。

そもそも被告人が何のために本件匕首を必要としたのか、そのことからして謎という外ないのであるが、仮に被告人が何らかの理由でこれを必要としたとしても、篠原組は証拠上明らかにれつきとした暴力団で、ヒロポン密売を収入源としていた悪の巣窟であり、村上検事自身が「冨士茂子に対する擬装殺人被疑事件捜査の経過」と題する書面中で、柔道五段の猛者である検察事務官すら、武装なくしては到底彼らの本拠に臨んで参考人の出頭を求めることは出来ないと二の足を踏んだ事実を記しているほどで、このような組織と気脈を通じ、あやしげな匕首のやり取りまでする間柄であることは、出来るだけ他人に知られまいとするのが当然であるのに、何故に格別信頼すべき理由もない阿部に使いを命じなければならなかつたのであろうか。

その上わざわざ阿部に見せつける意図でもあつたように、匕首の柄に糸を巻くという何の必要があるのか判らない作業をさせた上、その数日後に起つた殺人事件の現場に、当の匕首をこれ見よがしに立てておくというに至つては、余りにも不自然過ぎると言わざるを得ない。被告人はどうして阿部がその匕首の出所を捜査当局に告げないということを予期出来たのであろうか。

阿部は自らこの匕首を発見し、警察官に届け出ている。当時の捜査員が阿部に対しこの匕首に見覚えがあるか否かを問いただしていることは明らかであるのに、阿部が全く口を閉ざしていたのは、何のためであろうか。原第一審第二回公判では、私が篠原方から持ち帰つたとか奥さんに頼まれて糸を巻いたなどと言うと自分が罪になると思つたと説明しているが、匕首と知つて持ち帰つたわけではなく、糸を巻いただけで罪になるとは少年でも思わないであろう。むしろ知つていることを隠す方が将来不利益を招くおそれがあるとも考えられる。

これらの点だけからしても、阿部の前記公判証言及びこれに沿う供述は、にわかに信じ難いというべきである。

(三) 阿部は被告人に頼まれて本件匕首の柄にラジオのダイヤル糸を巻いたと述べ、確かに本件匕首の柄には糸が巻き付けてある。

しかし警察庁科学捜査研究所化学課技官近藤彰作成の二九年八月三一日付鑑定書によると、「本件の糸は麻繊維であり、一般にラジオのダイヤル糸としては生糸を原料としたダイヤル絹糸を使用するのが常識的であつて、本件の糸はダイヤル絹糸とは非常に違いがあるが、本件のような糸もダイヤル糸として間に合わせに使用することが、あるいはあつたかも知れない。」とされ、また二一年頃からラジオ店を営んでいた後藤田真太郎は、同人が知る範囲内ではラジオのダイヤル糸として白い糸が使用されたことはないと述べている(原第一審第一四回公判における証言)ことからすると、本件匕首の柄に巻いてあつた糸が、通常ダイヤル糸として用いられるものでないことは明らかである。もつとも二五年七月頃から二八年一月頃まで三枝方の店員であつた川村利男は、捜査段階において、「三枝方にいた当時古いラジオのダイヤルに本件匕首の柄に巻いてあるのと同様な白い糸が巻いてあるのを見たことがあり、修理箱にダイヤルから外した白い糸が入つていたこともあり、自分でも入れた記憶がある。」(村上検事に対する二九年九月一〇日付供述調書)と述べているが、同人も公判廷では「ラジオのダイヤル糸には大体三味線の糸のような黄色いものを使つており、白い麻糸のようなものを使つたのは見たことがない。三枝方で古いダイヤル糸が修理箱に入れてあるのを見た記憶もない。本件のような糸に見覚えはないが、そんな糸を古いラジオのダイヤルに巻いてあることもあつたように記憶する。」(原第一審第一〇回公判)という異る趣旨の証言をしており、検察官が多くの繊維関係の会社、商店、電機器具メーカー等について調査した結果によつても、本件匕首の柄に巻いてあつたような糸がラジオのダイヤル糸として使用されたことはないと認められるから、これが阿部のいうように三枝方の道具箱の中に入つていた可能性は乏しいというべきである。

2 篠原澄子の証言及び供述

(一)  篠原方を訪れた阿部に匕首を渡したとされるのは、篠原澄子であつて、同人は当時の篠原組組長篠原保政の弟重氏の妻であり、かつ保政の妻イクヱの妹にも当る。

徳島市警が外部犯人説を前提として篠原組の関係者に対し本件匕首の所持人を特定するための聞き込み捜査を重ねていた当時、篠原澄子も再三取調を受け、川口算男が本件匕首を持つていると思う旨供述し、刑事訴訟法二二七条により裁判官に対する同旨の証言もしていた(司法警察員に対する二九年三月四日付及び同月五日付並びに検察官に対する同月一一日付各供述調書、同月一三日付証人尋問調書)。

これらによれば、川口算男は篠原組で寝泊りしていた若い者で、二八年四月頃から篠原組のヒロポン取引の責任者をしていたとされる。

然るに篠原澄子は二九年八月二三日付の村上検事に対する二通の供述調書中で、以前の供述を覆し、本件匕首を阿部に渡した事実を認めたのであるが、右二通の供述調書の内容は実質的に異り、前の調書の誤りを後の調書で訂正したということになつている。村上検事がのちに作成した前記「冨士茂子に対する擬装殺人被疑事件捜査の経過」と題する書面によれば、篠原澄子は当時臨月で、横になつたまま取調に応じる状態であつたが、一旦取調を受けて帰つた後再び出頭し、供述の訂正を申し立てたので、あらためて調書を作成したというのである。

そこでその内容をみると、第一の調書(七枚綴り)では次のように語つている。

「私は匕首を担保にヒロボンを貸す取り次ぎをしたことがある。昨年三月末か四月初め頃、児玉フジ子が篠原方に来て、米の通帳と匕首を担保にしてヒロポンを借りて来るよう頼まれたと言つて私に風呂敷包みを渡したので、二階で寝ていた姉のイクヱにこれを取り次ぎ、その風呂敷包みを渡した。包の中には八寸五分か九寸位の鞘がない匕首一振と米穀通帳が入つていた。イクヱがヒロポン一五本を出してくれたので、私はそれをフジ子に渡した。当時フジ子は内縁の夫高木義貴と二人で新天地内で寝泊りしていた。数日後にフジ子がヒロポンを借りた本人が担保に入れた匕首や通帳を取りに来ていると言つたが、当時ヒロポン売買の責任者をしていた矢野清治がいなかつたので、私はフジ子に、清治さんがどこかへ持つて行つて今判らんけん、また来てくれとでたらめを言つて帰した。その後私がイクヱに、実は匕首を取りに来たと話したところ、あの匕首は違い棚の下に取り付けてある抽斗二つのうち、錠付きの大きい抽斗に入れておいたと言つていた。

次にこの匕首をラジオ屋の店員に渡したことがある。

昨年一〇月中旬頃の夕方頃、一六、七歳の少年が篠原方に来て、「ラジオ屋からですが」、「この間頼んであるもん判りますで」というので、「何かいなあ」と聞くと、「姉さんに聞いてみてくれるで」というので、寝ていたイクヱに聞くと、イクヱは「うん、矢の事じやけん、あれ見てあげな」と言つて、私に抽斗の鍵を渡し、私がその抽斗を開けるとハトロン紙に包んだ匕首があつたので、それを少年に渡した。亀三郎が殺されたことは、その日の朝、高木義貴の妹らしい人が来て、ラジオ屋の三枝さんの主人が殺されたんじやが、うちの兄ちやんは寝とるでとたずねている声を聞いて知つた。それから間もなく姉の部屋に行くと、イクヱも既にこの事件のことを聞いていて、二人で「ひどいおばはんやなあ」と話し合つた。と言うのは私としては三枝の奥さんが店員を通じて私方から匕首を手に入れ、これで夫を殺したもので、計画的な犯行だと思つたので、ひどいおばはんと言つたのであり、イクヱも同じ気持であつたと思う。」

篠原澄子は右のように述べた後に透視鏡を通じて阿部の面通しを求められ、私が匕首を渡した相手の少年に間違いないと認めている(すなわち複数の対象者の中から一名を選び出すという方法によつたのではない)。

ところが第二の調書(五枚綴り)では、「最前の供述には言い残したり間違つたりした点があるので更に詳しく述べる。」と前置きして、次のように述べている。

「昨年一〇月中旬頃、篠原方で、私の実兄矢野清治が、三枝ラジオ店の若衆が来たら、二階の一番西の違い棚の下の抽斗の中にある匕首を渡してやつてくれと私に頼んだ。それから一週間位後の夕方頃、一六、七歳の少年が来て「ラジオ屋からですが」と言うので、用件をたずねると、「この間頼んであるもの貸してくれるで」と言うので、三枝方から匕首を取りに来たと思い、二階に行つてイクヱに抽斗の鍵を借り、匕首を取り出して少年に渡した。この抽斗にはいつもヒロポンが隠してあつて、それを出し入れする都度私がイクヱに言つて鍵を借りていたので、この時もヒロポンを出し入れするようなふりをして鍵を貸してと言うと、イクヱもそう思つたのか簡単に貸してくれた。この匕首は児玉フジ子が佐野辰夫から預つたと言つて、ヒロポンの担保に置いて行つた物に間違いない。兄の清治は時々この匕首を勝手に持ち出していた。その後三枝の主人が殺されたときいた時、私は自分が三枝の店員に渡した匕首で奥さんが主人をやつたのかと思つて、ひどいおばはんやなあと直感的に感じた。」

このように訂正された結果、第一の調書では匕首のやり取りに関与していた篠原イクヱが、第二の調書では何も事情を知らずに抽斗の鍵を澄子に渡しただけで、被告人との結び付きを持つていたのは矢野清治であることになつた。ところで矢野清治なる者は、本再審公判で新たに取調べた同人に関する除籍謄本及び筆頭者を篠原保政とする戸籍謄本によれば、イクヱの弟、澄子の兄であるが、昭和二九年二月二一日に二六歳で死亡しており、この事実は検察事務官作成の同年八月九日付捜査報告書中に記載されているので、検察官においても篠原澄子を取調べる前に既に承知していることであつた。

およそ暴力団に関係する者が組織の秘密を守るために、特定の物の出所などを隠そうとする時は、これを死者あるいは消息不明者に結び付ける趣旨の供述をするのが常套手段であつて、捜査官にとつてこのことは常識以前の事柄である。篠原澄子が最初の供述でイクヱの名を出しながら、一旦帰宅した後に再び出頭して、イクヱの代りに既に故人となつている兄清治の名を出したのは、それが記憶違いをするような可能性がないことであるだけに、極めて不自然であり、到底そのままに信じ得ることではない。この供述変更がなければ、次には当然イクヱが取調の対象となり、被告人との関係について事情を聴かれたはずである。村上検事もこのような供述変更を鵜呑みにしたとは考えられないが、結局はイクヱやその他の篠原組関係者が被告人と接触があつたことを示す証拠は全く得られず、篠原組と被告人とを結ぶ唯一の人物は、既に死亡して取調の術がないとされることになつた。

二日後の八月二五日に篠原澄子に対する裁判官の証人尋問が行われ、澄子は「阿部が篠原方に、ここの姉さんの弟さんおりますかと言つてたずねて来た。そして、清治さんに頼んであつた矢を出してくれませんかと言つた。」との、前とは異る証言をしたが、その余はほぼ前々日の変更後の供述と同様の趣旨を述べた。

しかし澄子は原第一審の審理中に行われた受命裁判官による証人尋問に際しては、本件匕首については一切知らないと述べ、「検察庁で西野(阿部と言うべきを西野と聞いたと言う)に会わされ、同人がこの姐さんから匕首を受取つたのに間違いないと言つたので、検事に厳しく追及され、当時身重で苦しかつたので、仕方なく匕首を渡したことを認めた。」との証言をした(三〇年一〇月二七日付証人尋問調書)。澄子の原第二審における証言もこれと同様であつた(三二年一月二三日付証人尋問調書)。

(二)  篠原イクヱは村上検事に対する二九年八月一〇日付の供述調書で次のように述べた。

「私はこれまで警察や検察庁で昨年四月上旬頃川口算男が匕首一振を抵当に取つてヒロポンを貸したように述べて来たが、実は警察でこのことについては児玉フジ子と私の妹澄子の口が合つているから間違いなかろうと尋ねられ、私も確か昨年四月上旬に匕首を担保にしてヒロポンを貸した記憶があつて、児玉と澄子の口が合うなら間違いなかろうと思い、その通り認めていたもので、それが間違いであつたことを思い出したので、あらためて本当のことを述べる。川口が私方に来たのは昨年五月に入つてからのことで、四月にはまだ来ていなかつた。川口が来てから二ヶ月か二ヶ月半位後にヒロポン売買の責任者に同人をあて、その後八月の旧盆前の暑い頃、同人が私の部屋に来て、匕首を担保にヒロポンを貸してくれと頼まれたが、どうしようかと言うので、二、三日だけなら貸してもよいと承知したことがあるが、ナイフや匕首を担保にヒロポンを貸したことは前後三回あり、これはそのうちの最後のことであつた。その前に昨年(原本では「本年」と誤記)四月初めに児玉フジ子か澄子かが匕首を持つて同様な話を取り次ぎに来たので、承知して匕首を受取り、錠がかからない抽斗に入れて置いたことがあり、これまではそのことを一部間違つて述べていた。その数日後に預けた本人が匕首を取りに来たと聞き、抽斗を開けると匕首は無くなつていた。当時の若い者の中で無断で匕首を持ち出すような者は、高木義貴一人だと思う。」

その後前記の澄子に対する取調が行われた日の翌日である八月二四日付の村上検事に対する供述調書の内容は次のとおりである。

「澄子は昨日検察庁で調べられて帰つてから私に向い、実は姉さんに隠していたが、兄の清治から、ラジオ屋のぼんさんが来るけん、来たら姉さんに内緒で、二階の西の端の部屋にある違い棚の下に匕首があるから、それを渡してくれと頼まれて、その五日か一週間位後にラジオ屋のぼんさんが来たので、その匕首を渡してやつたと言うので、私は何でそんなら早く言わなかつたかと叱つた。前回の供述で児玉フジ子か澄子が持つて来た匕首がその数日後にしまつておいた抽斗から無くなつていたと述べたが、実際はいつ抽斗を開けて見たのか記憶がないので、この点訂正する。澄子が言うように矢野清治がこの匕首を時々持ち出していたとすれば、ちようどその時がそうであつたものと思う。」

以上のように篠原イクヱは本件匕首が被告人の手に渡つたことについては、全くあずかり知らないという立場を取り続け、そういう事実があつたことも、澄子の告白をきくまで知らなかつたというのである。

(三)  しかし、仮に本件匕首が篠原方から被告人の手に渡つた事実があるとするならば、当時その橋渡しをした者が誰であつたにせよ、警察の捜査の結果、本件匕首が篠原方にあつたものとして特定され、川口算男らの篠原組関係者が捜査線上に浮ぶ段階に至るまで、本件匕首の最後の所持人が外ならぬ被告人であるという事実が、組長の篠原保政らに知られずにいたとは、ほとんど考えられない。殺人事件の現場に遺留されていた匕首が、その直前まで篠原方にあつたということは、篠原組にとつては深刻な問題であつたはずであり、澄子がこれを事件の直前に三枝方の店員に渡したという事実を姉のイクヱにも打ち明けず、被告人が真犯人であると信じながら、ことさら篠原組関係者に対する疑惑を根拠付けるような虚偽の供述を捜査機関に対してすることは、あり得ないと断じてよいであろう。

それにもかかわらず、イクヱは八月一〇日の供述においても、匕首を持ち出したのは高木義貴だと思うと述べ、その他の篠原組関係者からも、匕首と被告人を結び付ける情報は全く出ていない。このような状況を理解し得る唯一の説明は、篠原組が被告人から、その秘密を守る見返りとして、代償を取り立てていたということしか考えられず、検察官も当然その可能性を念頭に置いていたことは、検察事務官作成の八月二四日付捜査報告書二通のうちの一通に、被告人が澄子に対し口止め工作をしている事実を聞き込み、引続き捜査中である旨の記載があることからも根拠付けられよう。なお他の一通の内容は、前日澄子が阿部に匕首を渡したことを自供した後、夫の重氏や保政らから叱られ、暴行を受けた事実が判明したというものである。

しかしながら被告人の口止め工作なるものについては、結局いかなる証拠も現れず、篠原組が被告人を恐喝していたというような形跡も全く認められなかつた。

(四)  以上の証拠を通観するに、事件の前にも後にも、被告人と篠原組との間に何らかのつながりがあつたという実質的な証拠は、全くないことが明らかである。単に阿部が被告人の言い付けで篠原組に赴き、澄子から匕首を受取つたという事実に沿う証拠があるだけで、その背景としてなければならない事情は全く説明されないばかりか、その存在を暗示する断片的な証拠すら発見されない。

このことは、そもそも商家の一主婦である被告人と、無頼の徒の集団である篠原組の構成員とが、ひそかに匕首のやり取りをする程度の密接な関係を持つということが、既に甚だ異常な事柄であることを考えると、そのような事実を認定するにつき、重大な障害となるものというべきである。確かに被告人はカフェ経営に従事したこともあり、その交際範囲は一般の主婦に比べれば広いものであつたと考えられ、過去にいわゆる渡世人との接触があつても、あながち不自然ではないが、篠原組と結び付く人物との接触があつたという具体的な証拠が全くないことは、本件捜査の進行中、篠原組関係者に対する聞き込みが広い範囲で行われたことがうかがわれるだけに、そのような事実がなかつたことを強く示唆するものと考えられる。

仮に被告人が篠原組から入手した匕首を、ことさら本件殺人現場に放置したとすれば、その意図についていかなる合理的な説明が可能であろうか。篠原澄子は検察官に対して、本件殺人事件の発生を知つた時即座に被告人の犯行だと直感したと述べている。この供述自体は、いかにも空々しいものと思われるが、真実被告人が本件匕首を現場に残したとすれば、どんな結果が予測出来るかを端的に示している。

これを要するに、篠原澄子の証言及び供述には、阿部の前記の公判証言及びこれに沿う供述を裏付ける証拠価値は認められないというべきである。

3 西野の証言及び供述

西野は二九年八月二一日付の村上検事に対する供述調書で、「これまで隠していたことが一つあるが、最後に申し上げる。」と前置きして(西野の供述調書冒頭にこの種の表現が用いられるのはこれが四度目である)、「昨年の九月か一〇月頃の午前に四〇過ぎのおばさんが三枝の店に来て、持参した電気マッサージ器か電気炬燵のような物の修理を被告人に頼んでいた。その日か、あるいは二、三日後であつたかも知れないが、阿部が被告人に地図を書いてもらつて、修理した物を持つて行き、午前一一時前後に帰つて来て、茶色のハトロン紙様の物で巻いた細長い物を被告人に渡していた。昼過ぎに炊事場の棚の上にそれが置いてあつたので、こつそり開けて見ると匕首が入つていた。奥さんが来て妙な顔をしてそれをどこかへしまつた。奥さんが主人を突き刺した道具は、この匕首か私が捨てた刺身庖丁かのどちらかだと思う。」との供述をした。更に翌八月二二日付の藤掛検事に対する供述調書では、「昨年一〇月頃、阿部が藍場町の森さんの家へ電気あんま器を届けに行き、その帰りに匕首を持つて来た。私はそれが台所の棚の上にハトロン紙様の物で包んであつたのを開けて見た。その晩阿部に「今日の紙包みはどこから持つて来たか」とたずねると、阿部は新天地じやと答えた。」と述べ、原第一、二審公判廷でも、これらと同様な証言をしている。しかし右捜査段階における供述は、結局同じ時期に阿部が供述したことを鸚鵡返しにしているに過ぎず、右供述及びこれに基く証言に積極的な証拠価値は認められない。

4 阿部幸市の証言及び供述

(一)  阿部幸市は阿部守良の兄であつて、原第一審第六回公判において次のように証言している。

「事件後守良が家に帰つて来た時、ラジオを聞いているとこの事件で川口某が逮捕されたというニュースが放送された。その時守良は、駅前の方から庖丁らしい物を預つて来たことがあるという話をした。私は新聞を読んでいたので何も言わなかつた。その時は守良が言つたことを何とも思わずにいた。守良が釈放されてから新聞に出ていたことは事実かときくと、事実だと答えた。検察庁で厳しい取調を受けたので嘘を言つたのではないかとたずねたが、嘘は言つておらんと答えた。釈放されて帰宅した翌日、事件の朝主人夫婦が喧嘩しているのを見たという話をした。」

しかし阿部幸市もまた事件確定後右証言を覆す偽証告白をしているので、証言の信憑性について検討するため、まず同人の捜査段階における供述を見ると、二九年八月二五日付の検察事務官丹羽利幸に対する供述調書では、「守良は奥さんがあやしいとか川口が真犯人でないとか言うことは一切口にしなかつた。」と述べており、匕首ないし庖丁の件には全く触れていない。この時阿部は既に篠原組からの匕首持ち出しの件を供述しているから、幸市に対してもその裏付けを取るための発問がなされたと思われるが、同人は弟から早く秘密を聞き出せなかつたことに責任を感じていると言うのみである。

公判証言と同趣旨の供述は、同年九月一日付の村上検事に対する供述調書で初めて現れ、その内容は、「守良が私方(名西郡神領村石堂)に今年の旧正月に帰つた日の翌日か翌々日の朝、私が徳島新聞を読んでいると、ラジオが川口逮捕のニュースを伝えた。その放送の後で守良が、「川口が犯人じやと言うているが、こう言うこともあるんじや。自分は亀三郎さんが殺される前に奥さんから頼まれて駅の西の方の家に行つて庖丁のような刃物を持つて帰つて奥さんに渡したことがあるんじや。」と言つたので、私は守良に、そんなことがあるなら警察でもし調べられたらそのことをはつきり話さないかんぞと言つた。」というものである。同日直ちに刑事訴訟法二二七条による証人尋問が行われ、同旨の証言が録取されている。

幸市は同月一〇日にも藤掛検事の取調を受け、同月六日に釈放された守良が帰宅後「新天地の篠原という家から匕首を持つて帰り、店にあつたダイヤル糸を匕首の柄に巻いた。事件の日の朝西野と二人で三枝夫婦の喧嘩を見た。」という話をした旨述べている。

(二)  次に事件確定後の幸市の供述についてみると、まず三三年七月八日、渡辺倍夫が幸市の自宅を訪れ、同人から公判証言は偽証であつたとの告白を得て、同人名義の同日付供述書を代筆者として作成した。

これによると、証言のような事実は全くないが、度々検察庁に呼ばれて、弟からしかじかのことを聞いているであろうと追及され、弟がいつまでも帰されないのがかわいそうになつたこともあつて、検事に言われるまま架空の事実を認め、後日そのとおり証言したというのである。

その後の同年八月二一日付及び三四年二月六日付の法務事務官安友竹一作成の各調査書(いずれも供述者として阿部幸市の署名指印があるもの)によると、更に詳細に、丹羽事務官から「匕首のことを弟から聞いているだろう。」と追及され、初めは否認したが、その後また呼び出されて、「弟が何もかも言つているんだから、早くお前も弟から聞いたということにしないと弟がいつまでも出られないぞ。」と言われ、連れて来られた守良が「言つているように思う。」と言うので、実際は聞いていないが、弟の言うとおりに認めたとの事情を述べている。

もつとも三四年四月一四日付の丸尾検事に対する供述調書では、偽証告白を撤回しているように見えるが、その内容を仔細に検討すると、調書の大部分は阿部一家や守良個人の資産、収入等に関するものであり、その余はおおむね守良の釈放後の言動に関する幸市の藤掛検事に対する二九年九月一〇日付供述調書の内容を確認する趣旨のものに過ぎず、この時読み聞かせた右調書(同日付調書二通のうち四枚綴りの分)中に、幸市が守良から匕首の件を聞いていたことを前提とする表現が断片的に含まれてはいるが、これをもつて幸市が偽証告白を撤回したものと評価出来るか否か、甚だ疑問である。

(三)  以上の証言及び供述を通観してみると、偽証告白後に検察庁の取調の苛酷さについて述べている点は、必ずしもそのままには受け取れないものの、匕首の件についてかなり執拗かつ誘導的な追及があつたことは、これを推認するに難くなく、一方公判証言及びこれに沿う供述には、にわかに納得出来ない点がある。殺人事件があつた家に雇われている弟が、事件前に庖丁のような刃物をその家の主婦に頼まれて取りに行つたと洩らせば、弟がもつと深く事件に巻き込まれているのではないか、弟の身に今後禍が及ぶおそれはないかと不安を抱くのが人情ではあるまいか。幸市自身年少の身ではあるが、父母に相談を持ちかける位の分別はあつてよいはずである。警察でもし調べられたらはつきり話せと言う位のことで、そのまま捨て置くのは、かなり不自然である。また阿部守良の立場からしても、同人が公判で述べている一切の事実を前提とすれば、被告人に対して抱いている疑惑は、はるかに深刻なはずであるのに、このように中途半端に秘密を洩らすのは、全く口をつぐんでいるよりも却つて不自然に思われる。

これらの疑問点と、幸市が事件確定後間もなく偽証告白をしていることに鑑みれば、同人の公判証言及びこれに沿う供述の証拠価値は乏しいというべきである。

5 向井福太郎らの供述

阿部幸市の外に神領村の村会議員で阿部方と同じ部落に属する向井福太郎、阿部幸市及び守良の姉阿部マサ子が、いずれも藤掛検事に対し、阿部守良が釈放された当時、検察庁で述べたことはすべて事実であると述べた旨供述している(二九年九月一〇日付各供述調書)。向井福太郎はその後も丸尾検事に対し、釈放後の阿部から事件の朝夫婦喧嘩を見たことや匕首をもらつて来たことを具体的に聞いた旨の供述をしている(三四年三月九日付供述調書)。阿部の小中学校の同窓生であつた岩西眞澄も、丸尾検事に対し、昭和三〇年頃の秋頃、阿部に青年団の運動会で会い、同人が事件について「茂子がやつたんじやろ」と言うのを聞いたと述べている(三四年三月一〇日付供述調書)。

阿部がこれらの供述にあるような言葉を口にしたこと自体は、事実と思われるが、それが真実を語つたものか否かは別の問題である。被告人に対する公判の開始前、あるいはその進行中、阿部が公判廷で証言すべきこと、あるいは既に証言したことと矛盾する言動を避けるのは、むしろ当然なことであつて、事件についてたずねられれば検察庁で述べたとおりに述べたであろう。たとえそれが嘘であつても、嘘を述べた理由を理解してもらうことは、客観的にも主観的にも困難であつたはずであり、これを公判廷で覆す決意と勇気がなければ、なおさらのことである。このように考えると、右向井らの供述に実質的な証拠価値を認めるのは相当でない。

6 まとめ

以上のとおり、篠原方から匕首を受取つて被告人に渡したという阿部の証言及び供述は、常識的に理解し難い異常なものを多分に含んでおり、これと一致する篠原澄子の証言及び供述も、たやすく信用出来ないものである上に、同人は公判段階では全く逆の証言をしている。そして被告人と暴力団篠原組との結び付きを示す証拠が全くないことからすると、阿部がその後一貫して偽証であると告白している証言を信用することは到底出来ず、阿部幸市の証言等によつてもこの判断は左右されない。

結局本件匕首が篠原組から被告人の手に渡つた事実を認めることはできない。

第七 犯行状況に関する客観的証拠と被告人の自白

前記のように被告人は亀三郎を殺したことを一時的に自白し、犯行の状況をある程度具体的に述べているが、ここでは、まず亀三郎及び被告人の各受傷状況、寝具、被告人の寝巻及び屋内各所に血痕が付着した状況等の客観的証拠を明らかにした上で、あらためて自白の内容及びその信憑性について検討する。

一  亀三郎の傷について

亀三郎の遺体を解剖した松倉豊治(当時徳島大学医学部教授)の作成にかかる二八年一一月一九日付鑑定書及び原第二審第五回公判における同人の証言によれば、亀三郎が受けた傷の状況は次のとおりである(添付図面(四)参照)。

(1)及び(2)創 頤下部の刺創((1)は頂下部右側から刺入したもので、左頸静脈を大半切破し、左下顎隅下方の(2)の傷口にわずかに刺出している)

(3)創 前頸最下部中央の刺創(左横わずか上の方に約三・六センチメートル刺入し、筋肉層内に終る)

(4)創 右前胸上部の刺創(胸腔内に入り右肺門部に達する深さ約九センチメートルの創傷、胸腔内に約二〇〇ミリリットルの出血を伴う)

(5)及び(6)創 (6)は心窩部左側から刺入したもので、皮下筋肉層の一部を切り、右季肋部の(5)に刺出

(7)創 心窩部下方の刺切創(ほとんど垂直に刺入し、肝臓左葉の一部を貫通し、膵臓及びその動脈を切断、深さ約七・三センチメートルに達し、腹腔内に約一、〇〇〇ミリリットルの出血を伴う)

(8)創 右上肢肘窩部の刺創(深さ約一センチメートル、筋肉層に刺入して終る)

(9)創 右肩甲下部の刺創(二・三センチメートル刺入し、筋肉層を切つて終る)

(10)創 左手掌面にある八個の切創(別紙図面に示すイ、ロ、ハ、及びニ、ホ、ヘは、それぞれ同一線上にあり、本来はいずれも一個の切創と認められる)

(11)創 左手背の切創(皮下に達するのみ)

右各創傷のうち、後記の被告人の自白との関連で特に注目すべきは(1)、(2)創であつて、これは自白中の「最後に亀三郎の咽喉を横から一突き刺した」とあるのに該当するが、自白ではこの時亀三郎は立つていたとされるところ、同人の身長は一六三センチメートル(前記松倉鑑定書)あるのに対し、被告人の身長は約一四〇センチメートル(和歌山刑務所在監中の被告人の身分帳)しかなく、この身長差を考えると立つている亀三郎に被告人がこの傷を負わせるのは困難である(小林宏志作成の鑑定書及び第五次再審請求審における同人の証言)。原第一審判決はこれを亀三郎が寝ている時最初に受けた傷であるとし、原第二審判決は亀三郎が倒れた状態などの低い姿勢にあつた時受けた傷であるとして、いずれも自白から離れた認定をすることにより、この難点を避けているが、右のような認定に対しては、後記のとおり、四畳半の間西側の壁の北寄りの隅に貼つてある「ラジオはテレビアン」のポスター及びその付近の壁に飛び散つている亀三郎の血が、どのようにして付いたかという問題との関連で、別の疑問が生じる。

二  被告人の傷について

松倉豊治作成の二八年一一月一八日付検案書によれば、同日被告人の身体を検診したところ、左季肋部に長さ約二センチメートルの創痕((い)創、上角部尖、下角部鈍)、背部左腰上部に長さ〇・八センチメートルの創痕((ろ)創、上角部尖、下角部鈍)及び左肱頭部に軽微な切創痕((は)創)があり、いずれもほとんど治癒しており、かつ鋭利な刃物によつて生じたものであつたと記されている(添付図面(五)参照)。このうち(い)、(ろ)創について、(い)から(ろ)への貫通創であるとする説(右検案書、松倉豊治の原第二審第五回公判及び第五次再審請求審における各証言、三上芳雄作成の鑑定書及び第五次再審請求審における同人の証言)と、別々に出来た二個の創傷であるとする説(被告人の治療に当つた医師蔵田和巳、同伊藤弘之の原第一審受命裁判官に対する各証言、小林宏志作成の前記鑑定書及び五九年七月一二日付意見書並びに第五次再審請求審における同人の証言、牧角三郎作成の鑑定書及び意見書並びに本再審公判における同人の証言)が対立しているが、蔵田医師の右証言によれば、被告人の傷はさほどの重傷ではなく、入院後四日目に傷口の抜糸もしないで退院した位であり、(ろ)創はその後ようやく発見されたもので、入院中は医師も患者本人もその存在すら知らなかつたこと、(い)、(ろ)創が貫通創であれば相当な重傷であつて、何らかの臓器損傷、毛細血管の切断を免れず、大量の出血や腹膜炎の併発を招くべきところ、被告人にはそのような症状が生じなかつたことが認められ、後者の説が正当であると考えられる。

右検案書、蔵田、伊藤両医師の各証言及び村上清一撮影の被告人の傷痕の写真六葉(二八年一一月一四日撮影)によると、(い)創の位置は被告人の左乳嘴の真下よりやや体の中央寄りで左肋骨の一番下あたりにあり、厚さ二、三ミリメートル、幅二、三センチメートルの刃物で左斜め後上方に向つて刀刃を上に、刀背を下にして刺され(右検案書の記載による)、傷口の縦の長さ約五センチメートル、深さは肋骨の上縁に達していたことが認められる。(は)創は、右検案書によれば、凶器の刃が触れる程度で偶発的に生じたものと認められる。

三  布団カバー(掛敷共)の血痕について

事件現場にあつた掛布団及び敷布団の布団カバーは、原第一、二審で刑九及び一〇号証として取調べられ、事件確定後廃棄されたが「現場写真記録」中の番号40及び41が敷布団カバー(原第一審第三回公判調書の押収目録には、刑九号証の品目及び個数が敷布団敷布二枚と表示されているが、原第一審判決は、「実際は敷布団カバー」としており、写真によつてもそのとおりである)の写真であり、番号42及び43が掛布団カバーの写真である。このうち40と41は大きさが異なり、被告人の原第一審第三回公判における供述によると、大きい方は亀三郎と被告人が敷いて寝ていたもので、小さい方は佳子の敷布団に掛けてあつたものであり、40が大きい方の写真と認められる。この写真によるとカバーの中央部分に薄黒く島状に広がつたしみが五、六個あるのが認められ、付属の説明文によるとこれらのしみはベンチジン反応によつて生じた血液反応である。検察官はこれを亀三郎が寝ている時被告人に腹を刺されたことにより浸潤血液が広範囲に付着したものであるとし、後記の被告人の自白に符合すると指摘する。

しかし被告人はまず寝ていた亀三郎の腹のあたりを一突きし、続いてどこかはつきり覚えていないが二突き位刺したと自白しており、これに符合すると思われる亀三郎の傷は前記の(5)、(6)、(7)創であるが、同人が床の中で寝たままこれらの傷を負つたとすれば、敷布団カバーには大量の血が付いたはずで、ベンチジン反応を待たずして一見明らかな血痕が相当存在しなくてはならないところ、右写真ではベンチジン試薬により現れたと思われるしみは大きく広がつているが、肉眼で直ちに認められる血痕と思われるものとしては、亀三郎が犯人と争つているうちに飛び散つた血と思われる黒い点が散在するものの、傷口から流れ出たある程度多量の血がしみ込んだと思われる濃厚顕著な血痕はむしろ認め難いのであつて、検察官の指摘には疑問がある。なお和田福由は「ベンチジン試薬は噴霧器で吹き付けるか、平はけで塗ると、肉眼で見えない部分の血液反応が青藍色状に出るが、写真にとると肉眼で見えるものより濃く撮影される。」と述べている(木村検事に対する五三年七月八日付供述調書)。この場合血液反応は一〇ないし二〇秒で現れるが、一分以上経過すると試薬自体が青藍色を呈することになる。

同人は原第一審第三回公判で、「敷布にはあまり血液は付いていなかつたと思います。」と証言しているが、この敷布というのは証言の前後関係によつて見ると、明らかに写真番号40の敷布団カバーのことである(実況見分調書には「既に布団等は取除いて敷いてなく(中略)西側の壁下には犯行時使用していた寝具の敷布で敷布団の敷布二枚と上布団の掛布一枚等血痕の付着した衣類をつくねて置いてあり」と記載され、事件当日押収された寝具がこれだけであることは、司法警察員真楽與吉郎作成の同日付領置調書によつて明らかで、これが原第一審第三回公判で刑九及び一〇号証として領置されたものである)。

後藤登志子(旧姓三枝)も検察審査会における供述(三四年一〇月一二日)で、「シーツにも血が付いていましたが、その血は飛び散つた血で、したたり落ちたような血ではありませんでした。」と述べている。

番号41は佳子の敷布団カバーの写真と認められ、これは被告人が亀三郎の遺体の上に掛けたものであるから(被告人の原第二審第六回公判における供述及び藤掛検事に対する二九年八月五日付供述調書)、その時にも血痕が付いたはずである。番号14の写真で亀三郎の左足のそばにある敷布団には、番号41の写真の左端に認められる血痕と一致する血痕が付いているので、このことからも番号41の写真にあるのが佳子の敷布団カバーであることが判る。

番号42及び43は同じ掛布団カバーを表と裏からそれぞれ撮影した写真で、亀三郎と被告人が共用していた掛布団(原第一審第三回公判における被告人の供述)のカバーを撮影したものと認められ、番号42の写真によりこのカバーの裏側に血痕が点々と存在するのが認められることからすれば、めくられた掛布団の内側に直接血が付いたことは明らかであるが、そのことは亀三郎が加害者と格闘した時、掛布団が内側を上にしてはねのけられていたことを示すことどまる。

四  被告人の寝巻の血痕について

事件当時被告人が着用していた寝巻は原第一、二審では証拠物として取調べられたが、事件確定後廃棄されて現存せず、その形状や血痕が付いていた状況を知るには、佐尾山明及び三村卓作成の二八年一二月一九日付鑑定書によるしかない。

右鑑定書の本文並びに添付の図及び写真によると、寝巻の前面では左右上腹部付近、右足部分、左袖等、背面では左背部付近を中心に中央下方にかけて、血痕が付着していたことが認められるが、このうち血液型判定のために採取された箇所は、左上腹部分(検体一)、左袖口前面部分(同二)、背面中央下右部分(同三)、右前裾前面部分二箇所(同四及び五)であり、検体四、五がO型で亀三郎の血液型に一致し、その余はA型で被告人の血液型に一致すると判定されている。なお右鑑定書の添付写真六には、寝巻の右前裾前面に付いている一群の血痕を赤線で囲んだ部分があり、佐尾山明の第六次再審請求審及び本再審公判における各証言並びに三村卓の外岡孝昭検事に対する供述調書によると、検体四、五はこの赤線で囲まれた飛沫状血痕の一部で、右一群の血痕は同時に付着したものと推定されるので、結局その全体が亀三郎のO型の血である蓋然性が高いと言える。和田福由が原第一審第一三回公判で、被告人の寝巻の右腰から約二〇センチメートルか、もう少し下の部分に、幅一〇センチメートル、長さ四五センチメートル位の範囲に円型及び楕円型のO型血液の飛沫が七〇個位付いていたと証言しているのも、結局右部分の血痕を指して言つたものと解される。

亀三郎の血がこのように被告人の寝巻に付いた原因は、被告人と亀三郎との格闘中に付いたのか、外部犯人と亀三郎との格闘中、そばにいた被告人に亀三郎の血がかかつたのかのいずれかであり、どちらの可能性も決定的には否定し得ないが、牧角三郎作成の鑑定書によれば、寝巻右前裾部分に付着する飛沫状血痕が示す血液の量は一ミリリットル以下の少量であろうと推測され、小林宏志作成の五九年七月一二日付意見書も同様の見解を採つている。後記の自白にあるように被告人と亀三郎とが凶器を奪い合つて必死に争つたのが真実であるとすれば、被告人の寝巻には亀三郎の血がもつと多量に、かつこれ以外の箇所にも、付いているのが自然だと考えられる。前記鑑定書記載の血液型判定は、必ずしも十分多くの箇所について行われたとは言えないが、三村卓の前記供述調書によると、寝巻に付いた血痕の大部分は浸潤性血痕で、これを着用していた被告人の血がしみ込んだものと推認され、飛沫状血痕と認められるのは、右検体四、五を含む一群の血痕のみであつたことがうかがわれる。

なお前記鑑定書の付図一には、寝巻の右袖に血痕が付いているように表示されているが、同鑑定書の付図二にはそのような表示はなく、同添付写真三の寝巻の右袖にも血痕は全く認められない。和田福由も原第一審第一三回公判における証言中で、被告人の寝巻の右袖には血が付いていなかつたが、格闘中腕まくりをしていたということも考えられると述べている。

ところで検察官は前記牧角三郎(九州大学医学部名誉教授)作成の鑑定書及び同人の本再審公判における証言を根拠として、被告人の寝巻の前記O型血液による飛沫状血痕群は、亀三郎の返り血を浴びたもので、後記の「ラジオはテレビアン」のポスター及びその付近の壁に認められる飛沫状血痕群と同様に、亀三郎の(7)創から出た血に由来し、両者はいずれも被告人と亀三郎とが四畳半の西北の隅にある押入の前あたりで向い合つていた時に付着したものである旨指摘している。牧角教授の見解によれば、(7)創以外の亀三郎の傷からは、いずれも血が流れ出ることはあつても噴出はしないが、(7)創の場合は、腹腔内に多量の血液がたまり、腹壁の刺通部分はごく狭くなつているので、何らかの原因で腹部が圧力を受ければ、傷口から血が噴き出し、飛沫状血痕の原因になるというのである。同教授は更に、この時被告人は押入を背にして亀三郎と向き合い、格闘しており、押入の板戸に割れ目があるのは被告人の背中が激しく当つて出来たもので、被告人の(ろ)創はこれによつて生じたと想定している。

しかし右見解の前提となつている(7)創以外の傷から血が噴き出すことはあり得ないとの判断は同教授のみが示しているところであつて、たやすく是認出来ない。

松倉豊治(兵庫医科大学教授)作成「三枝亀三郎殺害死亡事件に関する回答書」と題する書面には、「主として体外に、かつ噴き出す状態で出る出血というのは、(1)、(2)創、すなわち左頸静脈の大半切破による損傷部からの噴出がまず考えられるが、それが静脈である関係上(始めはかなりな程度に噴出するが)、動脈の損傷ほどに強く噴出するとはいえないのが通例である。それ以外の創傷においても、傷が生じた直後は、かすり傷程度のものを除き、一応は局所の細小動脈の損傷もあるので、大なり小なり血液の噴出はある。」との趣旨の記述がある。右記述は前記の松倉豊治作成の鑑定書中の(1)、(2)創に関する記載を前提としたものであるが、小林宏志(広島大学医学部教授)作成の鑑定書は、「左頸静脈の大半切断のみでは飛沫状血痕を生じるような出血は考えられない。」としながらも、「(1)、(2)創の刺創管の部位・深さからみて頸動脈からの細動脈枝は切断されていたであろうと解され、もし他の創傷による出血のため血圧が著しく下降していなければ、かなりの飛沫状血痕を生じることは可能と考えられる。」との見解を示し、第五次再審請求審における助川義寛(大阪市立大学医学部教授)の証言においても、「司法解剖の場合血圧が全くないので細小動脈の損傷を発見することは甚だ困難であり、亀三郎の場合も左の頸動脈から分岐した上甲状線動脈が切断され、これから血が噴出した可能性がある。」とされ、松倉教授自身も第五次再審請求審における証言中で、「本件では主要な血管である頸静脈が切り開かれていることが明らかであり、かつ頸動脈は傷ついていないことも現認しているので、こういう場合細小動脈が切れているかも知れないというところまでは一々記載しないが、創傷の位置からして細小動脈が切断されたということは当然あり得る。」と認めている。これらはいずれも牧角教授の説とは全く異なるものである。また亀三郎が普通に寝巻を着ていれば、(7)創はこれにおおわれるはずであり、同人の寝巻が保存されなかつたため確実な証拠はないが、事件当時亀三郎が裸に近い状態であつたとも考えにくいから(弁護人はむしろそういう可能性を考えているようにうかがわれる節もあるが)、(7)創から血が噴出することがあつたとしても、寝巻に遮られて外には余り飛ばないのではないかという疑問もある。

牧角教授の見解は、右のとおり是認し難い前提に立つている上に、様々な異る可能性のうちの一つを独断的に選択し、推論を積み上げて行くという傾向が著しく、厳密な事実認定の基礎としては明らかに不適切なものと言わざるを得ない。

和田福由作成の五六年八月一七日付鑑定書も、結論において被告人の寝巻のO型血痕群は、亀三郎と被告人がもつれ合つて争つている状態で、亀三郎の血が至近距離から付着したことを示すと判断しているが、右鑑定は亀三郎が体の前面に受けたすべての傷からの血が集中的に被告人の寝巻の極めて局限された部分に降りかかつたという不自然な推定をあえてし、また前記の如く右血痕群は一ミリリットル以下の血液が付いた程度と推測出来るのに、「粟粒大以上の血痕おびただしく」と表現して大量の血液が付着したものの如くいうのであるが、確かに和田自身右寝巻の現物を観察した経験はあるにせよ、前記の佐尾山及び三村作成の鑑定書にはO型血痕の形や量について何も記載がないこととも対比すれば、右のような判断の根拠は甚だ疑問であり、更に(7)創が膵臓動脈を切断していることから、その際動脈血液が噴出したとしている点も、医学常識上容認されないのであつて(助川義寛作成の五六年一〇月三日付意見書)、これまた採用の限りではない。

五  ポスター及びその付近の血痕について

実況見分調書、和田福由作成の二九年一二月一三日付鑑定書及び「現場写真記録」中の番号20の写真によると、四畳半の間の西側の壁には、北寄りの隅の方にポスターが貼つてあり、ラジオを右脇にして椅子に腰かけている女の上半身がポスターの右寄りに描かれ、その上部に「ラジオはテレビアン」という横書きの文字が並んでいること、また北側の西の隅に半間幅の押入があり、押入の板戸の中央より上部の桟が外れ、板戸の西の端の部分には縦に長い割れ目があること、ポスターの右(北)の端近くの女の肩あたり(畳から約一メートルの高さ)から、押入との間の壁にかけて、右下りに長く走り、一部は畳に届いている十数条の線状飛沫血痕がついていることが認められる。原第一審裁判所の二九年一二月二二日付検証調書(検証期日は同月五日)によれば、右ポスターは押入の板戸と西側の壁の接線より約三〇センチメートル離れ、ポスターの下部が畳から約六〇センチメートル、上部が約一四〇センチメートル(添付写真第一一にもとづく計測)の高さになる位置に貼つてあつたこと、押入の板戸の割れ目は戸の西端に接する部分の高さ約一メートルの横桟付近を中心として、ほぼ上下に板の木目に沿うような状態で長さ約三六センチメートルにわたり、それより上部の板が戸の枠から外れかかつたようになつていたこと、割れ目のある部分の下の方にも血痕があつたことが認められる。なお真楽與吉郎は原第二審における証言で、ポスターの下の畳の上には相当の血を拭つたような跡があつたと述べ、後藤登志子は検察審査会における前記供述で、「(被告人を斎藤病院へ連れて行つたのち)引き返して来た時家の中が大変ちらかつていたので大分片付けました。(中略)私が鑑識係の方が来るまでに拭き取つた血は全体の三分の一位でした。」と述べている。

右血痕の由来については、(イ)亀三郎が立つている状態で刺され、その傷口の動脈から血が噴き出して飛び散つたものであつて、血が付いた衣類や手あるいは凶器などを振つて血を飛ばせた結果とは考えられず、(1)、(2)創からの出血によるものと推測する説(小林宏志作成の鑑定書及び第五次再審請求審における同人の証言)、(ロ)傷口からの出血が体を伝わつて流れるほどになつているところで、立つている亀三郎の上体が板戸の方に急に動いた結果、振り払われるような形で出来た軽い放物線状の血痕であつて、(1)、(2)創からの出血による可能性が最も高いとする説(助川義寛作成の五三年一〇月一二日付鑑定書及び第五次再審請求審における同人の証言)、(ハ)飛沫状の血痕を形成させ得るのは上腹部の(7)創で、これによる出血が腹腔内に多量にたまつている時期に急激な圧力が腹腔内に加わり、(7)創による腹壁の刺通部分のごく狭い間隙から血滴群が噴出したために生じたとする説(牧角三郎作成の鑑定書及び本再審公判における同人の証言)及び(ニ)亀三郎の体がポスターか押入の板戸に突き当つた際に、腹部の(5)、(6)創からの出血が飛散したとする説(三上芳雄作成の鑑定書及び第五次再審請求審における同人の証言)があるが、前記のように(1)、(2)創により左頸静脈が切破されると共に、頸動脈から分岐した細小動脈にも損傷が及び、これから血が噴き出した可能性が高いのであつて、(イ)の見解が最も妥当と認められる。

そうすると前記のように亀三郎より二〇センチメートル以上も背が低い被告人が立つている亀三郎の咽喉を横から刺すことが出来るかという疑問が生じる(もつとも亀三郎が中腰にかがんだ姿勢で刺されたとしても、右のような血痕の高さと矛盾しないと解する余地はある)。

六  和田警部補の鑑識結果について

事件現場の鑑識に当つた当時徳島県警察本部鑑識課所属の警部補和田福由の原第一審第三回及び第一三回公判における各証言、同人作成の二九年一二月一三日付鑑定並びに実況見分調書によると、(イ)四畳半の間南側障子内側の西端親桟の畳から高さ約一〇五センチメートルのところに、指頭を斜め外に向けた形で血液による亀三郎の左拇指紋があり、親桟のこれより下の部分にも血が点々と付いていたこと、(ロ)この障子の内側に小豆の半分位の大きさで直角に飛びついたような血液の飛沫が十数滴付き、下の腰板にも斜めにさつと垂れ下がつて飛びついたような血液の飛沫が十二、三箇所に付いていたこと、(ハ)廊下にしたたり落ちた血液の上を摺つたような形跡があつたこと(実況見分調書添付の写真第二三号)、(ニ)亀三郎の拇指紋が付いた障子親桟の西側で廊下西端の便所入口前に近寄つた二箇所に被告人の血液による右足拇趾紋が、一つは便所の戸から約四センチメートル、敷居から約九センチメートルの位置に、一つは便所の戸から約一三・五センチメートル、敷居から約五センチメートルの位置に、いずれも西南向に方き、趾紋がずれて重なり合つた形で付いていたこと、以上の各事実が認められる。なお(ニ)にいう二箇所の趾紋の前者を趾紋A、後者を趾紋Bとすると、前記鑑定書によれば、AはBより濃く、血痕の一部が肉眼で見える程度であるが、ベンチジン反応による検出の結果、隆線が白く、隆線溝が青藍色を示して現れ、このことは隆線上に付着していた多量の血液が他の場所に強く押しつけられたために隆線溝に流れ込んだ状態で、趾紋Aがいわゆる逆転紋として印象されたことを示すものであり、Bは血痕の一部が極めて薄く肉眼で見える程度で、ベンチジン反応で隆線が青藍色を示す正像趾紋であることが認められる。

和田警察補は以上の状況から、(1)亀三郎は四畳半と廊下の間の敷居付近でも刺され、一旦廊下に体を出し、左手を障子親桟にかけていたが、そのままそこに崩折れたこと、(2)被告人の右拇趾紋には前進意欲が認められず、重心は室内にある左足にかけられ、その時被告人と亀三郎とは肩と肩が触れ合うような状態にあり、趾紋の重複移動は何らかの行動に出たことを示しているので、おそらく右両者の位置で障子の親桟に手を触れていた亀三郎に最後の刺傷が加えられたこと、③亀三郎がその場に崩折れ、坐り込んだのちに被告人が亀三郎の肩のあたりをつかんで四畳半の中に引きずり込んだこと、以上の推定が成り立つとし、原第二審判決はこれを全面的に是認している。

しかし右のような見解は、最も積極的に評価しても、可能な仮説の一つとしか言えず、証拠から導き得る唯一の結論と称し得るものではない。そもそも被告人の右足拇趾紋と亀三郎の左手拇指紋とがほぼ同じ頃に付いたという証拠は何もなく、その前提が認められなければ、それだけで②の推定は成立しなくなる上に、二箇所にある右足拇趾紋の位置やその付き方だけで、前進意欲の有無が判定出来るというのは、余りにも大胆な飛躍を含む議論と考えざるを得ず、その間隙が狭いことから、被告人が当時外へ逃げ出そうとしていたことを否定し得るという和田の証言(原第一審第三回公判)には、にわかに賛同出来ない。また前記鑑定書は趾紋Aの次に趾紋Bがついたとして、被告人が西から東に寄つた動きを想定しているけれども、逆転紋であるAが付いた直後、すなわち隆線の間の谷だけに血液が残り、これが印象された直後に、隆線の山の部分に付いた血液で正像紋が印象されることはあり得ないと解すべきであるから、この点も是認出来ない(小林宏志作成の五三年一月九日付意見書、助川義寛作成の前記鑑定書及び右両名の第五次再審請求審における各証言)。

むしろ、これらの拇趾紋の存在は、被告人の否認供述に沿うと解する余地もある。和田は原第一審第一三回公判における証言の際、村上検事の「廊下に付いている被告人の足跡は、被告人の言う如く、犯人が逃げて行く時、廊下で被告人を追い越し、被告人が便所の戸の方の方に引つついて、これを避けた時に付着したものとは考えられないか。」との問に対し、「そうではありません。現場の状況から私が説明したとおりの状況しか考えられません。」「茂子の言うとおりであれば、茂子の体には相当傷があり出血していたので、便所の扉に引つつくと扉に当然血が付くと思いますが、それが付着していません。それに現場が非常に荒れている状況及び犯行の時間が非常に長くかかつている点、その他廊下に置かれた茶缶の水を犯行後茂子が飲んだらしい様子が茶缶に沢山血の指掌紋が付着していることにより認められるので、もし賊が入つたのならそれだけの余裕はないはずである点などを考え合わせると、茂子の供述は嘘であると考えざるを得ません。」と述べているが、右のような否定の理由がさほど合理的であるとは考えられない。もとより村上検事は証人がこの問を否定することを期待していたのであるが、和田証人の答はむしろこれを否定する根拠が乏しいことを示している。なお実況見分調書には、「板の間左側(西側)の柱には血痕二箇所が付着していた。」との記載があり、その血痕の位置や血液型は明らかではないが、これが被告人の血である可能性はある)。

このように②の推定が不確実なものであるとすれば、①の推定は、被告人の犯行の裏付けとしては、格別の意味がない。

③の推定に対しては、助川義寛作成の前記鑑定書及び同人の前記証言において、実況見分調書添付の写真第一九号及び第二三号並びに前記和田鑑定書添付の参考写真(五)にもとづき、廊下上の血液を擦過した痕跡は、ある程度血液が凝固しかけた時に付いたもので、血液が廊下に落ちた後少し間を置いてから付けられたと解すべきこと、右痕跡は人体のような重い物を引きずつた痕ではなく、着物の裾などが血の上を幅広く二〇センチメートル位引つ張られてなでたようなものであることが指摘されている。和田警部補自身も原第一審裁判所の検証期日(二九年一二月五日)においては、亀三郎は敷居の内側で倒れてから自ら移動したのかも知れないと証言しているので、右擦過痕が倒れている亀三郎を何者かが引きずつた痕跡だというのは、単なる想像の域を出ないと言うべきである。

従つて前記(イ)ないし(ロ)の状況から、被告人の犯行が裏付けられるという見解は採用出来ない。

七  被告人の自白について

1前記のように、被告人が本件犯行を自白しているのは、村上検事に対する二九年八月二六日付及び同月二七日付の二通の供述調書においてのみである。

検察官は、当時村上検事が被告人に対しその供述の種々の矛盾点を挙げ、丁重な態度で説得した末、被告人は冷静な態度で頭を下げ、自白に及んだと主張し、本再審公判において証人丹羽利幸、同中野夫二郎は右主張にそう証言をしている。

しかし村上検事自身が原第一審第一八回公判で証言しているところから判断すると、その説得が果して情理を尽して被告人を納得させ、自らの意思による真実の告白に導く如きものであつたか否かについては、疑問を抱かざるを得ない。

同検事は次のように証言している。

「最初夫が殺された時の状況について尋ねると、朝早く奥さんおいでるでと二声位男の声がしたので起きあがろうと思うていると、先に主人が布団からすうつと出て行き、裏のガラス戸を開けたと思つた頃に主人があつと言つて後ろさがりに押入れの前の方まで後退して来ました(中略)と申しました。それで私は布団から御主人がすうつと出て行つたのは間違いないかと念を押すと間違いありませんと言うので、私は御主人が布団からすうつと出て行つたというのは変だ、それなら掛布団の布団カバーの裏側に血が付着するはずがないと言いました。また私は斬られたり刺されたりした時は痛いとか熱いという感じは受けるが、ひやりとした感じを受けたのは変だと言いました。更にまた私は警察の取調の際にその調書によると被告人の傷は賊にやられたと供述していないのは、つじつまが合わぬ、変ではないかと言いました。」

このように村上検事は被告人の供述中の三点を矛盾として指摘したわけである。このうち布団カバーの血痕に関する点については、現物が存在しない今日となつては、同検事の指摘にどれだけの意味があるかを十分に理解するには支障があるが、右証言から解し得る限りでは、同検事は被告人が「主人は布団からすうつと出て行き」と述べたことから、掛布団はめくれていなかつたはずだと結論し、それなら布団カバーの裏側に血が付くはずはないと指摘したものであろう。しかし被告人が言うような状況からは掛布団の一部はめくれて裏側が上に出ていたと考えるのがむしろ自然であり、「すうつと出て行き」という表現が適切か否かは別として、その言葉から直ちに、掛布団はめくれていなかつたと被告人が述べたようにきめつけるのは、単なる揚げ足取りに過ぎない。村上検事は更に被告人が「賊が逃げて行く際私はひやりとしたものを感じ、それが腹を刺された時だつたと後で判つた。」と述べたことをとらえて、刺された時にひやりと感じるのはおかしいと言うのである。被告人が刺されたという事実に疑いがあるなら、このような追及も理屈が立つのであるが、被告人が刺されたことは歴然たる事実である以上、その時にひやりと感じたのは変だと言われても、どこに矛盾があるとする趣旨か、被告人に理解出来るはずがない。検事と被疑者の間の問答でなければ、取るに足りぬ言葉とがめであるが、被疑者の立場にあつて検察官からかような意味不明の問いを突きつけられ、答弁を迫られては、途方に暮れる外はない。警察の取調に対し被告人の傷は賊にやられたと述べていないとの指摘に至つては全く根拠がないのであつて、被告人の事件当日の供述調書には「主人と格闘をしていた賊が私のそばに飛んで来ていきなり匕首様のもので私の左胸部を突き刺したのであります。(中略)そこで私も胸部を突き刺された傷の出血がひどかつたので、すぐに斎藤病院に入院したのであります。」と明瞭に記載され、その後の調書も同様である。村上検事がこれらの調書の記載を見落していたとは到底考えられないが、被告人としては調書に記載がないと言われれば抗弁の術がない。

要するに検察官のいう「矛盾の指摘」なるものの実態はかくの如くであつて、いわれなく被告人を困惑に陥れたに過ぎないのである。

被告人が自白を飜したのち、九月一日に被告人と西野、阿部両名との対質が行われ、対質尋問調書が作成された。その状況について村上検事は、「被告人と阿部との対質の際、被告人が阿部に「匕首を篠原から受取つて私に渡したというのは、あなたが(調書の記載によれば「私が」の誤りである)大道に行く前か、大道へ行つた後か」と尋ねたので、私は被告人に「右の問はあなたが匕首を受取つたということを前提として、単に日時の点が相違するので尋ねるのか」と言うと、被告人は「もう私は物を言いません」と言い、それからは全然物を言いませんでした。」と証言している。被告人の阿部に対する問いが村上検事のいうような前提を含むものでないことは自明のことである。しかるに村上検事の問いは、検察事務官が録取した調書の記載によると、「只今の質問は匕首を取りに行かしたり阿部から受取つたりしたことは間違いないのに、ただ日時だけが違つているから尋ねているように思われるがどうか」というのであり、これに対し、「被疑者は黙して答えず」と記載されている。右調書によれば被告人は匕首を取りに行かされたという阿部の供述を明白に否認したのちに阿部に対して問いを発したのであるが、村上検事は被告人の言葉をあえて曲解しようとしているのである。

被告人に対する取調の実情については、このように記録上散見される断片的な状況から、その全容を推測する外ないが、これらの状況からうかがわれる限り、検察官には被告人の供述に虚心に耳を傾け、然るのちその疑問点を解明しようという心構えは見られず、被告人が真犯人であることに疑問の余地はないという先入観に全く支配されていたと考えられ、かかる取調によつて被告人を心服させ、真実の自白に導くことが出来たとは認め難い。

2次に自白の内容について検討すると、その特色として、犯行の動機が全く語られず、その外にも犯人のみが知り得る秘密の暴露として評価し得る点が認められないことが注目される。

すなわち前記の八月二六日付調書によれば、亀三郎を殺害した状況は、「眠つている同人の掛布団をめくつて、その右側に坐り、右手に持つていた刺身庖丁で、暗がりの中で大体腹のあたりを刺し、続いてどこかはつきり覚えていないが二突き位した。三回位腹のあたりを突き刺した時、亀三郎は立ちあがつて、四畳半の間の西北隅にある押入れの方に後ずさりして逃げ、私もその後を追つて押入れの前あたりまで行つた。すると亀三郎は私が持つている刺身庖丁の刃先をつかんで、これを奪い取ろうとし、私は取られまいとして後退し、電灯がさがつている部屋の中央付近で争つたあげく、亀三郎が一旦刺身庖丁を取りあげて私の左腹を刺したが、その後また私がこれを取り返し、立つている亀三郎の胸や腹と思われるあたりをめつたやたらに突き刺し、最後に亀三郎の咽喉を横から一突き刺した。亀三郎は最後に部屋の東側の柱のところに頭を置き、足を南側に向けて倒れた。」というのである。

右自白において、凶器が刺身庖丁であることは、検察官が既に西野からこれに沿う供述を得て想定しているとおりであり、亀三郎が寝ているところを刺したというのも、同人にくらべて体力的にはるかに劣る被告人の犯行としては、ほとんどそれ以外の態様を考えられないところである。また亀三郎の傷の状況は客観的に明らかであるから、自白の内容は一応これに当てはまるような形に限定されるし、被告人が左季肋部に刺創を受けている事実からすれば、亀三郎に一旦凶器を奪われて逆に刺されたという外はなく、その前提として凶器を奪い合う争闘があつたことになる。ただ被告人がまず亀三郎の腹を刺し、最後に咽喉を一突き刺したと述べている点は、現実の体験から出ているように見え、原第二審第五回公判における松倉豊治の証言とも符合しているけれども、誰が犯人であるにせよ現場で激しい争いがあつたことは明らかなことである上に、被告人と亀三郎の間に刺身庖丁の奪い合いがあつたとする以上は、常識的に致命傷と考えられ易い咽喉の刺創が後から加えられたと考えるのは、素人としてもむしろ当然で、それが客観的事実に合つているとしても、特に秘密の暴露として評価すべきほどのこととは考えられない。

要するに右の自白内容は、検察官が予め抱いていた想定の範囲を一歩も出るものではない。

他方被告人が犯人であるとした場合、同じ四畳半で寝ている佳子に自己の犯行を知られないために、どんな手段を取つたのかが問題であるが、この点については検察官も具体的な想定を立てるだけの材料を得ておらず、そのことを反映して被告人の自白も、「私は刺身庖丁を取り上げられた時か、腹を刺された時か、その点覚えがないが、寝ている佳子を起しました。何と言つて起したか覚えていないが、とにかく佳子を裏へ出て行かしたように思います。」という甚だ不自然かつ具体性を欠くものになつている。

なお被告人は亀三郎が倒れた後、西野と阿部がやつて来たので、まず阿部を市民病院へ使いに出したのち、西野に匕首を渡して、屋根の上の電灯線と電話線を切つてくれと頼み、西野が戻つて来て「線を切つて来ました」と報告し、匕首を返したので、刺身庖丁を捨てることと大道へ使いに行くことを頼み、西野が出かけた後で匕首を新館の裏の壁に立てかけたと述べているが、すべて検察官の想定をそのままに、かつ、それのみを語つたものであつて、それらの行為の目的や理由は全く説明されていない。

以上が八月二六日付調書の内容であるが、翌二七日付調書も、事件当時犯人の遺留品として警察官に提出した懐中電灯が、実はもともと三枝方にあつたものであると認めている外は、事件前夜からの状況を述べているのみで、しかも就寝中目がさめ、亀三郎と言葉をかわしたことを述べたのち、これから先のことは今のところ言いたくないとして終つているもので、自白の信憑性判断に役立つような内容はほとんどない。

前記のような取調の結果得られた被告人の自白の内容が右の如きものである以上、その実質的証明力を重視することが出来ないことは、明らかと思われる(但し物証である懐中電灯の出所に関する点については後に改めて検討する)。

3弁護人は、被告人の右の自白は前記の亀三郎の受けた傷の状況と一致しないと主張し、次のように指摘している。

(イ) (5)、(6)、(7)創について

被告人は最初に亀三郎の腹部付近を刺し、続いてどこかはつきりしないが二突き位刺したと述べているところ、これに該当する可能性があるのは、(5)、(6)、(7)創だけと思われるが、(5)及び(6)創は凶器が(6)から入り(5)に抜けたもので、自白の如く仰向けに寝ている亀三郎の右側に坐つて右のような刺し方をすることは不可能である。また(7)創は凶器の刀背が亀三郎の左半身側に向いている形で刺されたことを示しているから、亀三郎の右側に坐つている加害者が右手に凶器を持ち、これに合う刺し方をするには、凶器を逆手に持ち替えない限り困難である上に、(5)及び(6)創と(7)創とは刺入方向が著しく異り、自白にあるように寝ている亀三郎を続けざまに刺したという状況とは符合しない。

(ロ) (1)、(2)創について

被告人の自白で、最後に亀三郎の咽喉を横から一突き刺したとあるのに該当するのが(1)、(2)創であるが、自白ではこの時亀三郎は立つていたと述べられているところ、亀三郎の身長は一六三センチメートルであるのに、被告人の身長は約一四〇センチメートルしかなく、この身長差を考えると、立つている亀三郎に被告人が(1)、(2)創を負わせるのは困難である。

(ハ) その他の創傷について

被告人は、刺身庖丁を取り返したのち、立つている亀三郎の胸や腹と思われるあたりをめつたやたらに突き刺したと自白しているが、亀三郎の傷は、右(イ)、(ロ)に挙げたものと左手の傷を除けば(3)、(4)、(8)、(9)の各創傷しか残らず、このうち右自白に合うのは胸部の(4)創だけで、前頸最下部の(3)創をこれに加えても、胸や腹のあたりをめつたやたらに突き刺したという自白とは甚だ差があり、その上(3)創と(4)創とは刺入方向が異り、連続的に刺されたものとは考えにくい。

(ニ) 左手掌面の創傷について

自白によれば、被告人と亀三郎とは互いに刺身庖丁を奪い合つて激しく争つたというのであるから、被告人と亀三郎の両方の手に、刃物を握つた結果生じた傷があるのが自然と思われるが、被告人の両手には全く傷がなく、亀三郎の右手も無傷であつて、同人の左手掌面の傷のみが問題となるが、これは左手の指を開いた状態で生じたと推定され(小林宏志作成の鑑定書)、庖丁の刃先をつかんだ結果生じた傷とは思われない。

以上の(イ)ないし(ニ)の各指摘は、犯人の自白が犯行の具体的状況を実際にあつたとおり客観的に再現したものでなければならず、かつそういうことが可能であるという前提に立てば、それぞれ首肯し得る点があるけれども、被告人が亀三郎殺害の真犯人であるとすれば、その犯行が極度の興奮と緊張のもとに、無我夢中の状態で敢行されたものであろうことは容易に推察され、そのような体験について細部にわたる点まで正確な認識や記憶があり得るということは、ほとんど期待出来ない。自白が誤つた記憶にもとづいていることや、記憶にないことを想像で述べていることがあつても、あえてあやしむに足りないと言うべきであるから、右指摘のような証拠とのくいちがいがあるからと言つて、直ちに自白全体の信憑性が覆えされるとまでは考えられず、このような見地からすれば、右(イ)及び(ハ)において指摘される疑問点は、必ずしも重視されるべきものとは思われない。

しかし(ロ)の点について問題があることは既に述べたとおりである。また(ニ)の点は、亀三郎の左手掌面の傷が指を開いた状態で生じたものであるとしても、そのこと自体は左手で被告人の切つ先を防ごうとして受けたものと解すれば、格別自白と矛盾しないが、亀三郎の右手に全く傷がなく、被告人の両手にも傷がなかつた事実と総合すれば、刺身庖丁の奪い合いをしたという自白(この点は思い違いなどとして部分的に否定する余地がないこと、被告人自身刺傷を受けている事実に照らし、当然である)の真実性について、やはり相当な疑問を生じさせる。

八  懐中電灯について

被告人は前記の八月二七日付供述調書で、被告人が外部犯人の遺留品として警察官に提出した懐中電灯は、実は三枝方にあつたもので、客が不用品として置いて帰つた古い懐中電灯の胴体に別の懐中電灯から外した部品を取り付けたちぐはぐな品であつた旨述べているので、この点について検討する。右懐中電灯は原第一、二審で刑二号証として取調べられたが、事件確定後廃棄処分に付され、焼却後の形骸が現在するのみである(昭和五八年押三二号符号七)。

原第一審第九回公判において、ラジオ電気器具商を営む堤藤子は、刑二号証を示されて、「この懐中電灯の頭部はライトハウスの頭部と同じであり、胴と尻の蓋はデラックスのものであると思う」旨証言しているので、刑二号証は被告人の右自白のとおり異るメーカーの製品の部品を組み合わせた「ちぐはぐ」な懐中電灯であることが認められる。かつ西野は原第一審第三回公判で、「三枝方では客が新しい懐中電灯を買い、古いのを置いて帰ると、その部品を組み合わせて使うことがあり、そういう懐中電灯は三、四本あつた。亀三郎はいつも枕元に懐中電灯を置いて寝ていた。」と証言し、阿部も原第一審第七回公判で、三枝方では商品の懐中電灯は使わず、客が新品と取り替えて置いて行つた古い品を使つており、そういうものが店に沢山あつた旨証言しているので、刑二号証が三枝方にあつたそういう懐中電灯の一つであるという可能性は認められる。なお阿部は藤掛検事に対する二九年八月二八日付供述調書(「本日は懐中電灯のことについて」で始まるもの)において、刑二号証を示されて、三枝方のものに間違いないと述べている。

しかし刑二号証が三枝方に前からあつた品であるという証拠が右の外にあるわけではなく、被告人は刑二号証が前記のような寄せ集めの品であることを、事件後捜査員らとの接触を通じて知る機会があつたことが認められる(被告人の原第二審第六回公判における供述及び村上検事に対する二九年八月三〇日付供述調書一項(但し被告人が署名指印を拒否したもの)並びに福山文夫の藤掛検事に対する二九年八月三一日付供述調書)ので、その後被告人が被疑者として取調を受けた時に刑二号証が「ちぐはぐ」な品であることを知つていたのは、必ずしもそれが事件前から三枝方にあつたことを意味するとは限らない。

もつとも右のような懐中電灯が市販されていると考えられないから、果してこのような品を外部犯人が持ち込むことがあり得るかという疑問も考えられるところであるが、昭和二八年当時の経済事情は今日とは全く異り、懐中電灯といえども貴重品であり得たし、被告人が自白するように偽装工作の手段として犯人が懐中電灯を遺留したように装つたのであるとすれば、もつと特徴がないものを提出するのが合理的であろうとも思われる。

結局刑二号証の存在及び特徴が被告人の自白に符合することまでは認められるが、更に進んでそのことが自白の真実性を裏付けるとまで認めるのは、早計に失すると考えられる。

九  自白の信憑性に関するその余の問題点

本件殺人事件発生当時、佳子は父母と枕を並べて寝ていたが、被告人の自白によれば前記のように、亀三郎に刺身庖丁を奪われて左腹を刺された前後の頃に、佳子を起して外へ出て行かせたことになつている。

しかし、このような自白が不合理で、そのまま信じ難いことは、ほとんど論じるまでもない自明の事柄と思われる。被告人が自己の犯行を佳子に知らせまいとするのは当然であるが、亀三郎に凶器を奪い取られ、逆に刺されたか、刺されかかつている切迫した場合に、眠つている一〇歳の娘を起して外に出て行かせるというようなことは、余りにも悠長すぎると言わざるを得ない。そもそも佳子が寝ているすぐ側で、亀三郎をあえて殺害しようとすること自体、甚だ理解し難い行動であることも勿論である。なお検察官は論告において、犯行中佳子を起す程度の余裕は十分にあつたとしているが、原第一審の検察官は論告中で被告人のこの点の自白が信用出来ないことを前提として、初冬の早朝に一〇歳の子どもが簡単に目をさますものではなく、佳子は犯行中眠り続けていて何も知らなかつたと考えるのが最も素直な解釈であろうと論じている。

被告人の自白に、犯行動機を述べた部分が全くないことについては、村上検事は原第一審第一八回公判における証言で、八月二六日の取調では動機についても尋ねるつもりであつたが、取調中に「一筆調書でよいから引きあげて来い」という次席検事の指示を伝えられ、詳しく尋ねると午前二時、三時頃までかかるので、予定より早く切り上げたと述べ、一応の説明をしている。丹羽利幸の本再審公判における証言及び同人作成の五三年七月二〇日付供述書の内容も、これと同様である。

しかし内縁の妻が夫を殺すというような犯罪の場合、その動機には極めて深刻なものがなければならず、加害者はこれを出来るだけ自己に有利に弁解しようとし、客観的にも酌量に値する事情があることが少なくないのであつて、被告人が真実亀三郎を殺害したのであれば、何よりも先に、事ここに至つた原因について、真情を吐露して検察官の理解を求めようとするのが人情の然らしめるところではあるまいか。犯行動機について一言の弁解もせず、最も思い出したくないはずの犯行状況について、まず語り始めるという形の自白には、いかにも真実味が乏しく、自然に遠いと言うべきである。

一〇  まとめ

以上に検討したところによれば、本件殺人の実行行為に直接関連する客観的証拠中には、それだけで被告人の犯行の裏付けとなるものはなく、また被告人の自白は適正な取調の結果得られたものとは認め難い上に、客観的証拠と必ずしも符合しない。特に被告人の寝巻に付いた被害者の血が比較的に少なく、右袖部分には全くその痕跡が認められないこと、被告人の両手及び被害者の右手に傷がないことは、自白の信憑性に大きな疑問を抱かしめるものである。かつ自白には秘密の暴露として評価に堪えるものがほとんどなく、却つて経験則上容認し難い不自然な点を含むもので、その証拠価値はほとんどないと言うべきである。

第八 被告人の犯行動機

前述のとおり、被告人の自白は犯行動機に全く触れず、本件公訴事実にも犯行動機は掲げられていないが、原第一、二審判決はこれを主として亀三郎の浮気を原因とする嫉妬憎悪と内縁関係にとどまつていることから生じる不安焦慮の念によるものとし、本再審公判における検察官の主張もこれにならう。

一  亀三郎と黒島テル子との関係

亀三郎が小学校時代の同級生であつた黒島テル子(明治三五年五月一〇日生)とかねて情交関係にあり、本件殺人事件発生の直前にも、同業者との団体旅行に出かけた旅先の宿に、同女を誘い出して一夜を共にするような仲であつたことは、証拠上明白である。

また被告人が二人の仲に少なくとも薄々感付いていたことや、かねて亀三郎の長女登志子らに、亀三郎の浮気癖をこぼしていたことも、十分に認めることが出来る。

しかしながら被告人が黒島テル子の存在を単に腹立たしく思うだけでなく、三枝家における自己の地位を危うくするほどの深刻な脅威として感じていたか否かは別問題であつて、常識的にはこれを肯定するよりも否定する方が明らかに妥当である。

第一に、証拠上認め得る限り、被告人は三枝家にとつて無くてはならぬ存在であつて、営業面では客あしらいが下手と言われる亀三郎よりもむしろ主導的な役割を果していたとも見られ(新開鶴吉の湯川検事に対する二九年七月三日付供述調書三項)、家庭の主婦としては、もとより家事に十分な時間を割くことは出来なかつたものの、先妻八重子の子らと円満な関係を保ち、むしろ実母よりも信頼され、亀三郎との間には末子の佳子が生まれていて、亀三郎としても被告人と離別する可能性を考えられるような状況ではなかつたと見るべきである。

かつ黒島テル子は亀三郎より九箇月、被告人より八歳も年上であり、二人の関係は常識的に見れば単なる幼ななじみ同士の火遊びと解し得るもので、仮に亀三郎が黒島に真剣な愛情を抱き、あるいは被告人に嫌気がさしていたとしても、既に相当の年齢に達している長女、次女、長男らの意向を無視して被告人を追い出し、黒島を後釜に据えるなどは、容易に実行出来ることではなく、被告人がそのような現実性の乏しい事態を思いわずらつて、不安に悩まされていたと考えるのは、余りにも単純かつ短絡的な想定というべきである。

この点につき、黒島テル子の藤掛検事に対する二九年九月六日付供述調書(第二回供述調書と表示)には、「昭和二六年頃に三枝方のラジオの外交販売をさせてもらうようになりました。亀三郎さんと二六年頃以来大阪に一緒に行つたことが二、三回あります。(中略)昨年(昭和二八年)の一〇月一二日であつたと思います。今治でテレビアンラジオの代理店の総会があり、亀三郎さんと二人で総会の開かれた「うずしお」という旅館で一泊して帰りました。亀三郎さんとはこのように再三旅行に出て外泊しておりますが、勿論旅館では同じ部屋に寝ております(中略)私は家庭に恵まれない亀三郎さんと同窓生のよしみから天理教によつて救つてあげようと思つてお付き合いしていたのでありますが、つい亀三郎さんの強い要求に抗し切れず、誘惑に負けてしまつたのであります。私が亀三郎さんと本当に同衾して情交をしたのは前後二、三回位しかありませんが、いつも亀三郎さんから酒の勢で挑みかかられ、私がいくらその非を説いても聞き入れてくれなかつたのであります。」との記載があり、村上検事に対する前同日付供述調書(第四回供述調書と表示)には、「昨年一〇月二〇日朝亀三郎さんが江口駅前の私方(三好郡三庄村)に来て、午前九時頃また私は強いられて同人と肉体関係を結んだのであります。その後私が亀三郎さんに対し妻子ある身がかような事をすべきでないと天理教の教理を説明したところ、亀三郎は「茂子が二人の仲を感付いたらしい」と一口ぽつりと話した後、「何か事があつたら知らせる」と意味深長な言葉を残して帰つて行きました。今思い出しましたが、確か昭和二六年のことで、私と亀三郎とが大阪へ出て京都を通つて福知山にラジオの月賦販売の研究に行つて旅館に泊つた時、亀三郎は私に「お前が死んだらわしの墓に入れてやる」と申して関係を迫り、私もその情にほだされて、この時初めて同人と肉体関係を結んだのであります。勿論当時私は亀三郎さんには茂子という奥さんがある事は判つていましたが、行く行くは私を妻にしてくれるような話をしたので、私としては喜んで身を任したわけではありませんが、同人の要求を容れるに至つたのであります。その後昨年一〇月一二日「うずしお旅館」に泊つたのですが(中略)「あなたは立派な奥さんがあるのに、そんな事をしたらいかんではないか」と云つて断つたところ、亀三郎さんは「あれは身体が弱いけん関係してないよ。それに茂子は自分とあなたの仲に感付いて最近はしきりにごてごてと文句を並べ、夫婦仲がまずくなつているところで、茂子はまだ籍も入れていないし余りぐずぐず言えば身体が弱くて役にも立たんしするから、自ら進んで出て行けばよし、そうでなければ自分から追い出してでも、あなたと一緒になるようにするから。」という趣旨の話をしましたので、私も余り悪い気もせず、遂にまたここで関係したのであります。ところで先に述べた昨年一〇月二〇日朝亀三郎が私方に来た時、同人は、「自分はもう子どもも大きくなつたから、いつ茂子に追い出されても生活は立派にやつて行ける。死んでも思い残す事はない。あなたと一緒になれたら死んでもよい。このままで嵐が来ても死んでもよい。」などと喋つておりました。」との記載がある。

しかし亀三郎が黒島に対し右のような口説を持ち掛けたことが事実であるとしても、もともと堅い男とは言えない同人の言いぐさが、そのまま同人の本心を表していると理解するのは、いかにも早計である。かつ黒島は原第一審第八回公判では右の供述を半ば否定する趣旨の証言をし、最後に裁判長の「亀三郎が殺されて後、被告人から証人に対し怨みを持つているような素振りとか口のきき方をしなかつたか。」との問いに対し、「そんな事は感付きませんでした。しかし検事さんが、茂子はお前を大変怨んでいる、裁判の時にお前ののど笛に噛みつくと言つていると言われたので、何とも言えぬ気がし、よう帰らないからここにいると言つて検察庁を動かなかつた位であります。」と述べ、原第二審の証人尋問では、「(検察庁で)午後の六時から一一時頃までひどいことを言われながら調べられました。何でも茂子さんが私ののど笛に咬みついてやると言つているが本当は亀三郎と関係があつたのだろうとか、今治へ亀三郎と一緒に行つて同宿したのだから関係がないというはずはないとか、事件の日の二〇日位前に私の家へ亀三郎が行つているが、会いに行つたのであろうとか、さんざん嫌なことを言われて私は頭がぼつとして卒倒したのですが、本当に倒れたのに、それをたしか村上検事さんと藤掛検事さんだつたと思いますが、芝居じや、芝居じや、こんなことを答えるのに何十分かかるんかと叱りつけるので、私ももうどうなつてもよいと思い、検事さんの言う通りに関係があつたように認めたのでした。」「午前が丹羽さん、午後が村上さんと調べられ、午後六時から一一時までは村上さんと藤掛さんの二人に調べられました。」と述べており、これによると供述調書自体の信憑性もかなり疑問である。

また三枝登志子の藤掛検事に対する二九年九月一日付供述調書には、「私は父亀三郎を殺した犯人が今日まで私たち姉妹が生みの親以上に慕うて来たお母さんであると云う事は到底信じられん事であります。(中略)お母さんがお父さんを殺したとすれば、よくよくの深い事情があつたものと思います。私が考えますのに母はずつと前から父がよく浮気して困ると口癖のように言つておりました。(中略)昨年の一〇月三一日か、あるいは一一月一日の日から続けて三、四日ほど大道の家で泊つた事があります。来た晩に風呂に入つて風邪をひいたのか、その翌る日から帰るまでずうつと大道で頭が痛いと言つて寝ておりました。お医者さんは来てもらいませんでしたし熱も高いようではありませんでしたが、頭が痛いと言つておりました。一一月四日の朝、阿部さんか西野さんが迎えに来て、母は店に帰りました。店に帰るまではずうつと布団を敷いて寝ておりました。四日の晩もいつものように風呂に大道の家へ参りました。その時母さんは今朝長井病院に行つて診てもらつて来たと言うておりました。風邪をひいて病院に行つて来たと言いながらも風呂に入り、店へ八時か九時頃帰りました。それまでにも母は腹の立つた時にはよく頭が痛いと言つて布団を敷いて寝ておりました。今から考えると母が三日も四日も続けて頭が痛いと言つて大道で寝たのですから、よほど腹の立つことがあつたかも判らないと思います。日頃腹が立てば頭が痛いと言つてよく寝ていたからであります。」との記載があり、被告人の藤掛検事に対する同年八月二九日付供述調書にも、「事件のあつた前二、三日、私は主人とちよつとした事ですねており、身体の調子もよくなかつたので、店を出て大道の家へ泊りに行つておりました。(中略)前に申したようにテレビアンラジオの売出しがあり、ラジオを沢山買つてくれた人に出雲大社へ案内するように、製造元・発売元・代理店が費用を分担して券を出しておりました。私の店に八枚か一〇枚位券があり、主人は加茂山の兄さんや勢力の姉さんを連れて行くんだが、もう一枚券が余るんだが誰にしようと、私に黒島さんを連れて行つてあげなさいと言えと言わんばかりになぞめいた事を言つたので、私も腹が立つて店を出たのであります。この黒島という人は前から始終店に来て泊つたりした事もある人で、主人との仲があやしい人でないかと思つていた人であります。」との記載がある上に、被告人は原第一審第一九回公判においても、大道に行つていたのは病気のためだけでなく、亀三郎が黒島に旅行の招待券をやると言つたのに腹を立てたためではないかという裁判長の問に対し、そのとおりである旨答えているのであるから、被告人が亀三郎や黒島を面憎く思い、特に事件の直前にその感情を高ぶらせていた事情は確かに認められるけれども、登志子の右調書によつても被告人が主婦として安定した地位を占めていたことは十分にうかがわれるものであり、被告人が真実黒島との浮気に憤激して亀三郎を殺害したのであれば、自白を飜した直後にその真相に触れる供述を検察官に対してするか否かも疑問であつて、右各供述調書の記載を以てしても、既に相当の人生経験を経た中年の主婦が嫉妬に逆上して刃物三昧に及んだという心証は、容易に得られるものではない。

二  女鹿八重子の手紙と被告人らの対応

原第一審第八回公判における三枝登志子及び女鹿八重子の各証言並びに原第二審第六回公判における被告人の供述によると、亀三郎の先妻で登志子らの実母である女鹿八重子から、二八年八月頃、亀三郎と被告人に宛てて別々に、子どもたちと一緒に暮したいので、女中でもよいから置いてくれという趣旨の手紙が来たこと、亀三郎は自分宛に来た手紙を被告人に渡し、被告人は更に登志子、満智子、皎の三人にこれを見せて話し合つた結果、登志子が、折角今円満に行つているのに八重子が帰つて来たら皆が不幸になるから、今のままで辛抱してくれという意味の返事を書いて被告人に渡し、被告人が、子どもが皆一人前になればその中には母親をみる子もあるだろうから、それまでお待ち下さいということを別の便箋に書き、登志子の手紙と同封して出したことが認められる。

検察官は被告人がこの頃八重子の子どもたちと被告人との間に水をさされるような不安を感じ、煩悶を深めていたと主張する。

確かに八重子からこのような手紙が来たことについて、被告人が多少なりとも安からぬ思いを抱いたであろうと想像することは出来るが、八重子の希望は実の子どもたちによつて明白に斥けられたのであり、亀三郎の意向も同様であつたと推認され、このことによつて被告人が深刻な危惧を持つべき理由は、客観的には何も見出すことが出来ない。

原第一審判決は、被告人が八重子の境遇を見るにつけ、同じ運命に陥ちゆく自己の行く末を案じ、絶望感に捉われた旨判示し、原第二審判決もこれを是認しているけれども、それは被告人が黒島テル子によつて自己の地位が脅かされているという不安を感じていることを前提としての立論であり、右の前提が承認し難いものであることは前記のとおりである。結局、八重子の手紙が被告人に深刻な動揺を与えたという想定は、根拠薄弱な臆測に過ぎない。

三  入籍問題と被告人の立場

被告人が亀三郎と実質上夫婦関係にありながら、婚姻の届出をしていなかつたことは明らかであるが、その理由を具体的に知ることは出来ない。被告人自身は、原第二審第六回公判における供述で、自らの意思により入籍しなかつたように述べているが、その理由を明らかにせず、そのままには信用出来ない。

しかし内縁の夫婦関係が社会生活上必ずしも稀な事例でないことは多言を要せず、その中では特に法律上の婚姻を回避するというほどの意図もなく、ただずるずると届出を怠つている程度の原因しかない例が、かなりの部分を占めていると思われるのであつて、亀三郎と被告人の場合も、婚姻届をしないことに格別深い理由はないと考えることは、十分に可能である。

もつとも大上和男の藤掛検事に対する三一年六月四日付供述調書には、「(二九年三月頃)茂子にどうして亀三郎の籍に入つとらんのかときいたところ、茂子は、「お父ちやんに何回も籍に入れてくれるよう頼んでいましたが、何とかかんとか言つて籍を入れてくれなかつたのです」と言つていました。」との記載があるけれども、大上はもともと検察官が被告人と親密な関係にある男として関心を寄せていた人物であつたから(原第一審第一七回公判における井口卓の証言並びに阿部の村上検事に対する二九年七月二二日付(三枚綴り)及び検察事務官に対する三〇年八月二四日付各供述調書)、保身のために検察官に迎合して被告人に不利な供述をした可能性もあり、仮に被告人がそのような話を大上にしていたとしても、それは亀三郎死後のことであつて、財産の処理や遺児の後見の問題をめぐつて、未入籍の不利益が現実化したと思われる時期に至つての述懐であるから、同人の生前に入籍を済ませて置かなかつたことを悔いる気持が口に出たと解する余地もあり、必ずしも被告人が事件以前から入籍を強く望んでいたと解しなければならないものではない。

なお亀三郎と被告人の間には、昭和一八年生まれの佳子の外に、敗戦後生まれ、幼くして死亡した和子、健三郎の二児があり、右三名の子女は、いずれも出生後間もなく亀三郎が父として出生届をし、同人の戸籍に入つている(但し健三郎は生後四箇月で死亡し、その翌日に出生と死亡の届が同日付でなされた)が亀三郎と八重子の協議離婚の届出があつたのは、健三郎の死亡より一〇箇月後の昭和二二年一二月一八日であつた(三枝亀三郎の戸籍謄本)。

その後亀三郎の死に至るまで六年間にわたつて被告人との婚姻届がなされなかつたことは、被告人が原第二審第六回公判において、二一年頃から亀三郎と黒島テル子の仲があやしいと思つていた旨述べていることなどを考え合わせると、亀三郎が持ち前の浮気癖から、少しでも束縛を免れたいという下心を持ち続けていたのではないかと疑われなくはない。しかし被告人は過去に二回結婚生活に破れながら、男に頼らず、独力でカフェを経営し、亀三郎の伴侶となつてからも同人の有能な協力者として事業を守り立て、成功に導いたのであつて(本再審公判における須木久江の証言)、夫にのみ依存して生きる型の女ではなく、法律上の妻として入籍されないことは、被告人にとつて必ずしも大きな患いではなかつたと考えられる。ともあれ、三枝家の主婦としての被告人の立場が現実に脅されていたと認める理由がないことは前述のとおりであるが、同時に被告人は亀三郎に頼ることなく自立して生きるだけの経済的能力も備えていた。原第一審判決の量刑が軽過ぎるとして控訴した検察官は、控訴趣意書において、「被告人の犯行動機が原判決のいう如き将来に対する絶望感というようなものにのみ基因するものでないことは明白である。」として、「何とならば、被告人は大道四丁目に時価一五〇万円に相当する自分名義の土地建物を所有しており(証人大下順三郎、同郡貞子、同羽柴廬の各供述)、また被告人名義の石原産業、湯浅電池、山中電機等株券をも相当所有していたのである(証第一八号の一、二、手帳二冊及び証人郡貞子の供述)から、もし被告人が右程度の財産に満足するならば亀三郎と離別し、実子佳子を被告人が引取り養育するにしても、たちまち路頭に迷うようなことは絶対に考えられない。またこれに満足し得ないとしても、離別に際しては亀三郎に対し母と子の将来の生活の保証を求める等、何らかの新生活の道を拓き得る方途もあるのである。」と力説しているが、その結論はとにかくとして、右の指摘自体は的を射ているというべきである。

四  犯行による利益

前記の検察官控訴趣意書は、被告人が亀三郎を葬り去ることによつて三枝家の資産を独占しようと図つた旨強調するものであるが、その当否は大いに疑問である。

亀三郎の死によつて、折角隆盛に向つていた三枝電機店の事業に一頓挫を来たしたのは、いうまでもないことであつて、新館の建築工事は完成したものの、敷地の売買代金の一部が未払であつたことから、被告人所有の大道の家屋敷を一五〇万円位で手放し、その他亀三郎または被告人名義の株を処分することを余儀なくされ(原第二審第五回公判における大上和男及び三枝高義の各証言並びに被告人の供述)、電機店の経営も十分な技術を持つ者がいなくなつたため支障を生じ、商品の販売だけでは店が維持出来ないので、新館の一部を貸した美容院や労働金庫からの家賃収入に頼るようになつた(原第一審第一四回公判における三枝皎及び本再審公判における須木久江の各証言)。もとより三枝家の生活が直ちに不安にさらされたわけではないが、亀三郎の死が単に経済的な面に限つてみても、大きな打撃であつたことは疑いを容れない。被告人が皎の後見人となり、また新館の敷地を被告人と皎の共有として登記したこと(前記大上和男及び三枝高義の各証言)も、親戚一同において格別異存がなかつたことで、基本的には被告人が一家の中心として亀三郎の遺児らに深く信頼されていたことによると理解出来るのであり、これを被告人がかねての計画を実現したものとみるのは、極めて一面的な見解というべきである。

かつ被告人が実子の佳子のみならず、八重子の子らに対しても(佳子と同年齢の裕子のみは三枝高義方に預けられていたが)、実母以上に慕われるだけの愛情を注いでいたことは、原第一、二審判決も認め、検察官もあえて争わないところであるが、その子どもたちにとつて亀三郎の死が物心両面で極めて深刻な打撃であることは明らかである上に、被告人が亀三郎殺しの犯人として断罪される事態に至れば、佳子はもとより登志子以下の子らにとつてもこれ以上の悲劇はない。正にそのとおりのことが現実に生じているのであつて、亀三郎の遺児の一人一人が、この事件によつて蒙つた不幸は想像するに余りがある。

子どもたちの将来にそれほどの災厄をもたらし、彼らの自己に対する愛情を憎悪と怨恨に変えてしまう危険を冒してまで、被告人が亀三郎の殺害を図つたということは、いかにも理解し難い。

なお配偶者の一方が別に愛人を持つた結果、他方の抹殺を図る例は、しばしば見られるところであるが、被告人については他の男と通じていたことを疑わせる証拠は現れず、前記の大上和男が亀三郎の死後被告人の相談相手になつていたことがうかがわれる程度で、通常このような事柄に敏感な年頃の娘である登志子や満智子がその証言や供述から被告人に対し全く疑いを抱いていないと認められることに鑑みれば、被告人には亀三郎の生前は勿論死後にも何ら不行跡にわたる点はなかつたと認めるのが相当である。

五  まとめ

以上に見たとおり、被告人の犯行動機として検察官が指摘ないし示唆する事情は、これを総合してみても、妻が夫の殺害を企てるには、余りにも薄弱な動機でしかなく、検察官の主張は、経験則上到底是認し難いと言わざるを得ない。

第九 外部犯行説の根拠

本件については、以下に記すとおり、外部から侵入した犯人の存在に結び付く有力な証拠がある。これらの証拠は、前記の電灯線切断の時期に関し、点灯後切断説が疑問の余地を許さないものとされて来たために、内部犯行説を覆すことが出来なかつたが、この障壁さえ除かれれば、既に原第一、二審の段階においても、内部犯行説に対する重大な疑問を生じさせたはずであり、その後第五次再審請求審以降に出現した新資料により、一層強化されたものである。

そこで、まず客観的物証及び第三者の証言等によつて認められる外部犯人の証跡について検討したのち、犯人を現認したとする被告人の供述及び三枝佳子の証言等の信憑性の問題を取りあげることにする。

一  履物跡の存在

本再審公判において初めて証拠として提出された徳島県警察本部鑑識課保管の「現場写真記録」中番号33の写真には、敷布の片隅に、一見明白に履物の跡と認め得る痕跡が現れている状態が撮影されている(ここで敷布というのは、正しくは前記のとおり、刑九号証の敷布団カバー二枚のうち亀三郎と被告人が使用していた方を指すものと解されるが、便宜上以下すべて敷布ということにする)。右写真の説明文には「被害現場寝具敷布(裏側面)よりベンチジン使用により顕出した血痕附着の足紋(履物跡)」との記載がある。同番号34の写真は右痕跡の拡大写真であり、第五次再審請求審で提出された徳島市警察署刑事課作成の「現場写真」中六枚目の写真と一致する。また佐尾山明の湯川検事に対する二九年九月一日付供述調書末尾に(亀三郎の敷布の端角から検出したもの)として添付されている写真は、前記33の写真と同一の痕跡を撮影したものと認められる。

徳島県警察本部鑑識課は、これらの資料にもとづき作成した右痕跡に合う靴型想像図を徳島市警察署に送付し(吉内市治の村上検事に対する二九年九月一五日付五枚綴りの供述調書)、同署署長作成の二八年一一月一〇日付徳警刑発第一二六号「ラジオ商殺しの遺留品手配について」の添付図面に右靴型が示されている。

検察官は前記各写真に写された痕跡について、「直ちに靴跡または足跡とは断定出来ず、この痕跡の形成原因は、血が足の裏に付着して印象されたか、または敷布が動かされた際に、血が付着した物と接触して転写されたことによる可能性が大きい。」と主張するが、前記各写真を虚心に見る限り、履物の跡と判断するのが自然であつて、「現場写真記録」の説明文に(履物跡)と明記してあることから言つても、これを覆す余地は乏しい。

検察官はその主張の根拠として、吉内市治及び佐尾山明の前記各供述調書、和田福由作成の五六年一〇月一八日付陳述書、村尾順一作成の鑑定書等を挙げている。

しかし吉内は単に「その写真では靴跡だと断定できるようなものではありませんでした。」と述べているだけで、何らの判断根拠も示しておらず、同人が写真の原物である痕跡自体を見ているわけではないことも明らかである。

佐尾山の供述は、「私はこの程度で足跡と断定するのは早計と思う。その理由は二つあり、一つには、ベンチジンによる検査は血痕検出の予備検査の方法であつて、この検査で型が出ても血痕による足跡と認定するのは早い。すなわちこの方法では血痕に関係のないものでも出ることがある。たとえばシーツに電気アイロンをかけたような場合、アイロンの跡が出るようなことも考えられる。もう一つは出て来た形そのものから判断しても、この程度では足跡と断定しかねるように思う。」というのであるが、要するにベンチジンに反応するのは血液のみとは限らないという一般論を述べているだけで、なぜこの痕跡が履物の跡とは限らず、アイロンの跡でもあり得るかという、具体的な形に即した指摘はみられないし、アイロンの跡がベンチジン反応で検出されるという理由も不明である。同人は第六次再審請求審でも、酸化物であれば、たとえば果物の汁でも、ベンチジンに反応すると証言しているが、これも同様の一般論にとどまる。

和田の陳述書は、「当時鑑識課法医理化学室において綿密な実験によりシーツにしわが寄つている時血のついた素足でしわの上を踏むと靴跡らしい形が容易に出来ることが明らかになつたので、このことを村上清一巡査を通じて徳島市警に知らせ、その後の公判で靴跡とは認め難い旨証言した。」と記している。しかし後記のとおり、被告人の起訴直後に作成された和田の村上検事に対する供述調書及び同人の原第一審第三回公判における証言には、右の「綿密な実験」に言及した部分は全くなく、靴跡であることを明瞭に否定した部分もない上に、右実験の具体的内容は全く明らかでないのであるから、これについて特に論じる要を見ない。なお和田の原第一審第一三回公判における証言中にも、これと同様な趣旨を述べた部分はあるが、ここでも実験については全く触れていない。

最後に村尾鑑定書は、問題の痕跡を一度に同一の物体によつて印象されたものとは見ずに、これを一一箇所に分割し、その一つ一つがそれぞれ異る機会に生じた互いに無関係な痕跡の集合であるという前提に立つているが、全体として一個の物の痕跡と見れば、少なくとも履物の跡である可能性が十分に認められるものを、なぜ全体として見てはいけないのか、これを一一箇所に分けて、それだけの数の痕跡の偶然の集合と見ることに、いかなる合理的根拠があるのか、右鑑定書の記載によつては全く理解出来ず、この点だけから言つても、批判に堪える鑑定ではないことが明らかである。

結局これらの証拠にもとづいて前記各写真に見られる痕跡が履物の痕以外のものであるという検察官の主張には、ほとんど客観性が認められない。

従つて履物跡の存在に関する限り、前記各写真はほぼ決定的証拠と思われるが、これを更に補強するものとして、和田福由の村上検事に対する二九年九月二〇日付供述調書があり、これによると同人は、「敷布団の敷布に血液が点々として付着しておりましたが、その血液中靴跡の一端ではないかと思われる付着部分が二、三点見受けられたので、これを薬品検査すれば、その延長部分も出るのではないかと思つて、ベンチジン検査をやつたところ、靴の内先端近くの左右の端らしい物が検出されたのであります。その形から見ると、ラバ系統の靴か表が皮で裏がゴム底の靴か、あるいはゴム草履の裏跡のように思われたので、その跡に該当する靴草履類を徳島市警に徳島市内を探してもらつたのですが、合致するものは出なかつたのであります。」と述べている。真楽與吉郎もまた原第一審第七回公判において、「ラバーシューズか草履のゴム裏と思われる模様入りのものであつた(断定は出来ないが私はそう思つた)」旨証言している。

もつとも和田は原第一審第三回公判における証言で右の供述を後退させ、「敷布の上には血液の滴下したものが付いており、その外に足跡が一箇所付いていました。」、「(足跡は)甚だ不完全なものでした。」、「踵と土踏まずの部分を除いた靴の前三分の一位の一応靴跡と言えないものでもないという程度のものでした。それで徳島市警の方に出入関係者の履物を調べてくれと言いましたところ、その後鑑識課に送られて来たのは中越明のゴム草履でしたが、それとは違つていました。」、「(川口算男の靴と)対照したが違つていました。」と述べているが、村上検事に対する右供述調書(当時検察官のみが知るところであつた)の内容と対比すると、履物跡であることを意図的に否定しようとした疑いがあり、かつ右証言によつても、少なくとも履物跡として対照可能な程度のものであつたことが明らかである。その後の原第一審第一三回公判における和田の証言も、「それら足跡の如くではありますが、ほんの一部であるので、ゴム底の靴の裏にそのような形のものもあり、また素足でも敷布を摺り上げ、しわが出来た場合にもあのような形が出来ることもありますが、はつきりしません。」というにとどまる。

当時徳島市警察署刑事課長であつた松島治男も第五次再審請求審において、前記佐尾山明の供述調書に添付されている写真を示されて、「この写真を見たことははつきりしている。私が見た当時はもう少し鮮明に出ていたように思う。靴の紋様がはつきり出ていた。当時のカメラに写る程度であれば、現物を見てもはつきり判つていたと思う。捜査員が業者に当つて見た結果、この紋様なら当時流行したラバーシューズ様のゴム製の靴だという結論に一致した記憶がある。鑑定の結果靴跡かも知れないが断定は出来ないとかアイロンの跡かも知れないというような報告を聞いたことはない。ラバーシューズ様の靴は当時れつきとした店で売つている品ではなく、事件直前までは統制品で、駅前の闇市の商人が売つている程度であり、非常に少ない商品で、流通ルートをつかむことが出来なかつた。関係者に聞くと年の若い人がはくということであり、遊び人などが似たような靴をはいているのはよく見た。」という趣旨の証言をしている。もつとも同人は、「この靴跡は血痕が付着したものではないという報告を受けた。」と述べているが、この点は記憶の誤りと思われる。

事件現場に残されていた靴跡と思われる痕跡はもう一種類あり、これについては、まず実況見分調書第四項に、「西側の壁下には犯行当時使用していた寝具の敷布で敷布団の敷布二枚と上布団の掛布団一枚等血痕の付着した衣類をつくねて置いてあり、鑑識係員の手によつて綿密に足跡等について採取した結果、被害者の妻茂子が使用していた敷布団の敷布より血痕の付着した足跡と思料されるもの二個を発見したので、これを鑑定依頼するために立会人三枝登志子より任意提出せしめた。」との記載がある。もつとも調書作成者である真楽與吉郎は、村上検事に対する二九年九月二四日付供述調書で、「実は血痕ではなく土の付いた足跡と思料されるもの二個を(被告人使用の)敷布より発見したので、土の付着した足跡云々と書くべきところを血痕の付着した足跡と書き誤つた」旨訂正しているが、同人は右調書でも、「右の土の付着した足跡と思われるもの二個というのは、実況見分当時右敷布のうち東南隅から一〇センチ位西寄りのところに靴のうち先端一寸五分位に該当する部分ではないかと思われるような土の付いた型と、その二五センチ位西方に同様靴の先端一寸位までの分の跡ではないかと思われるような土跡が発見された」旨の具体的供述をし、更に原第一審第七回公判における証言で、「この足跡は素足ではなく、ゴム靴かゴム草履の裏の跡と思われるもので、大体靴跡ではないかと考えた。靴の先の跡と思われるものが一寸五分位の大きさで付き、その西の方に一寸位の同様の靴跡と思われるものが付いていた。」と述べ、原第二審における証言でも、「登志子に立会つてもらつて積み重ねてあつた寝具をひろげて点検したところ、敷布に足跡らしいものを二個認めた。」と述べている。登志子もこの点につき、検察審査会における供述(三四年一〇月一二日)で、「父や母が敷いていたシーツに泥の付いた足跡がはつきり付いていた。それは畳に爪先の方が半分、シーツの方にかかとの方が半分かかつているような足跡で、私はそれを発見したので警察の人に告げ、その跡が消えないよう上手に畳んで鑑識係の方に渡した。」と述べている。

もつとも真楽は右原第一審証言で、「その靴跡を鑑識に命じて写真をとらせた。」と述べているのに、これに該当する写真は存在しないのであるが、実況見分調書添付の写真が三四枚あるはずなのに二八枚しかないことからすれば、当時これを撮影した写真が紛失した可能性もある。

また右証言及び原第二審証言によると、「前記の土の足跡らしい痕跡の鑑識を依頼するため、それが消えないように特にていねいに敷布を折り畳んで県本部鑑識課に渡し、和田警部補に鑑識課で写真をとつてもらうよう頼んでおいたが、鑑識の結果は私が発見した痕跡については何も付いていなかつたとのことであり、写真も出来ていなかつた。」というのであるが、真楽が全くの見誤りから足跡らしきものの位置や形について前記のように具体的な証言や供述を繰り返すとは考えられず、もとより同人がことさら偽りを述べる道理はない。

以上見たところを総合すれば、現場の敷布に血痕による履物跡が存在したことは、ほぼ確実であり、土を付けた靴跡があつた蓋然性も相当に高いというべきである。

そこで問題は、これらの痕跡を何人が残したかということになる。原第二審判決は「被告人の敷布に存した足跡」というあいまいな表現を用いつつ、半ばその存在を認めながら、「事件直後の混雑した状態から立入つた者の足跡の付く事も考えられ、直ちに外部からの侵入犯人なりとの結論に結びつかない。」と判示するが、右判示は「足跡」とあるのを「靴その他の履物の跡」と読み替えて初めて意味をなすのであり、そのように読み替えれば、それがいかにも無理な判示であることは明らかである。

原第一審第五回公判における武内巡査の証言によれば、同人が犯行推定時刻の約二〇分後に現場に到着した時、寝具は既に隅に片づけられていたことがうかがわれるから、それ以後に履物跡が敷布に付く可能性はないと考えられるが、武内の到着以前に四畳半の間に出入りしたのは、被告人、佳子、西野、阿部の四人のみで、これらの者が履物のまま座敷に上がつたとは考えられない。もつとも西野は村上検事に対する二九年九月二四日付供述調書で、また阿部は同検事に対する同年一〇月九日付供述調書で、それぞれ「靴を履いたまま四畳半に上がつたように思う」旨述べており、公判段階でも二人とも土足のまま座敷に上がつたかも知れないという趣旨の証言を再三しているけれども、当時の状況が靴を脱く暇も惜しむとか脱ぐのを忘れるとかいうような火急の場合でなかつたことは明らかであるから、何らの説明もなく右のような通常あり得ないことを述べるのは明らかに不自然であり、信用出来ない。むしろ検察官が西野らにこのように誘導の結果であることが歴然としている供述をさせているのは、検察官としても靴跡の存在自体は到底否定し難いという認識を持つていたことをうかがわせるものである。西野は原第一審第一一回公判において、当時同人がはいていた半長靴を検察庁に提出したと証言しており、仮にそれが現場の痕跡と一致していれば、検察官は当然そのことを主張立証したに違いない。

仮に寝具が片づけられたのが、もつと遅かつたとしても、医師、看護婦、警察官、三枝方家族らのうちに、履物のまま屋内に立入つた者があつたとは到底考えられず、その外には誰も立入ることはなかつたはずである。

しかも吉内市治の前記供述調書や松島治男の前記証言によれば、県本部鑑識課が想定した靴型に一致する靴を追求するために詳細な捜査が行われていることが認められるから、その前提として当時現場に立入つた者については、問題の靴跡を残してはいないことを確認する作業が行われていたと考えられ、松島も捜査員にその趣旨を指示したと証言している。

以上のいかなる点から見ても、敷布に付いていた履物跡は事件当時土足のまま現場に侵入し、その後消え去つた未知の人物が残したものであることの蓋然性が、すこぶる高いということが出来る。

二  工事場の出入口は誰が開けたか

後記辻一夫の証言及び供述によれば、事件当日の午前五時一〇分から一五分位の間に、三枝方新館工事場の出入口付近から、一人の男が西に向つて走り出し、すぐ近くの交差点(元町ロータリー)で、南へ曲つて姿を消したことが明らかであり、この事実は原第一審、二審判決も共に認めている。また被告人も、後記のように賊が工事場出入口から外に出て行く後姿を見たと述べている。当時の状況から言つても、外部犯人が亀三郎を殺して逃げたとすれば、工事場出入口が開いている限り、その他の方法で逃げるとは考えられない。

ところで新館工事場の表(北)側には板囲いがあり、その中央に一間位の板の一枚戸があつて、両方の端をそれぞれ東西の柱に上下二箇所で八番線の針金で五、六回巻いてくくり付けることによつて閉鎖し、開ける時は東の方を固定して西側を歩道の方に回転させて開くようになつていた(原第一審第四回公判における新開鶴吉及び原第二審における真楽與吉郎の各証言並びに村上検事に対する三枝皎の二九年九月二一日及び西野の同月二四日付各供述調書)。

検察官は右板戸は事件当時閉じられており、外部犯人がここから脱出した可能性はないと主張し、三枝方の近隣に住む田中佐吉、石井雅次、新開鶴吉ら及び通行人である辻一夫の証言あるいは供述をその根拠とする。

このうち事件発生直後に三枝方の前を通りかかつたと認められる辻一夫は、原第一審第一五回公判で、「板囲いに戸があり、その戸が閉まつているのがよく見えた。」と証言しているが、同時に、「人が出入り出来るような隙間が開いていたかどうかはよく判らぬが、板囲いについている戸自体は閉まつていた。」と述べており、原第二審における証言でも、「表の方から見ると人が出入り出来るような出入口は開いていなかつたが、その板戸は外側から立てかけたようなものであつたので、横から見れば人が出入り出来る位の隙間があつたかも知れず、その有無は判らない。」との趣旨を述べている。かつ同人は暗がりで道路越しに工事場の戸を見ただけで、近寄つて確かめたのではないことが明らかであるから、同人の証言は板所が閉じてあつたことの証拠としては価値が乏しい。

三枝方の近所の住人の中で事件発生後最初に三枝方に行つた田中佐吉は、原第一審第四回公判において、「三枝方に行く時、新館工事場の前を通つた。工事場には囲いをしてあつたが、その出入口の戸は開いていなかつた。板囲いの高さは七尺位だつたので、泥棒ならこれ位乗り越せると皆で話をした。」と証言しているが(村上検事に対する二九年七月三一日付供述調書も同趣旨)、原第二審の証言では、「戸の締まりが外れていたかどうかは知らないが、私が見た時には板囲いが出来ていたので閉まつていたと述べた」旨述べている。かつ同人は事件後間もなく司法警察員に対する二八年一一月一四日付供述調書中で、「最初に三枝方に駈けつけた時、新館の板囲いがどうなつていたか、見なかつたか。」との問に対して、「私はあわてていたので、新館の様子は見ていないので、何とも言えない」旨答えており、この部分が特に問答形式で録取されていることからすると、取調官もこの点は他の部分より念入りに確かめたのではないかと推測される。もつともこの場合、田中が内心では戸が閉まつていたと思つていても、内部犯行説を暗示するような結果になることをはばかつて、わざと口をにごしたと想像する余地もあり、事件直後の供述であるというだけの理由で右供述を重視することは必ずしも正当とは限らないが、原第二審における証言と総合してみれば、同人は格別仔細に戸締まりの有無を確かめたわけではないと認めてよい。

同人の子田中通博(当時一九歳)は検察事務官に対する二九年八月一一日付供述調書で、「父が現場に行つた後で私も母に言われて様子を見に行つた。その時工事場の前の歩道を走つて行つたので、工事場の出入口が開いていれば気づくと思うが、開いてはいなかつたと思う。」と述べている。

石井雅次は妻のアキヱと共に田中に次いで三枝方におもむいた者であるが、同人の原第一審第四回公判における証言は、「私が工事場の前の歩道を通つた時、出入口の戸が開いていたとは思えない。いつも大戸のようなものを閉めていたので、開いていれば判るはずだが、そのように思われなかつた。」というのであり、原第二審における証言は、「暗かつたのでよく覚えていないが、開いていたのであれば気がついたと思う。」というのである。村上検事に対する二九年九月一四日付供述調書では、もつと明瞭に、「工事場の戸は扉式に歩道へ向つて開くようになつていたから、もし開きかけていればすぐ気づくはずだが、そのようなことは全然なかつた。それに最初は三枝方に泥棒が入つたように思つていたので、この戸が全部又は一部開いていれば、私はすぐそこから入つたのではないかと考えるのに、そういうことはなかつたから、最初通つた時この戸が開いていなかつたことは間違いない。」と述べている。しかしその後の検察審査会における供述(三四年九月一四日)では、逆に「工事場の戸口は片方が少々一間か四尺位開いていたように思うが、はつきり記憶がない。」と述べている。

同人の妻石井アキヱは検察事務官に対する二九年七月三〇日付供述調書で、「主人と二人で三枝方に行つた時、戸口のところに田中が立つていた。そこへ行くまでに工事場の板囲いの前を通つたが、どこも開いていなかつた。」と述べている。村上検事に対する同年九月一四日付供述調書も同様である。但し原第一審第四回公判では、「工事場の表の入口の戸は開いていたか。」という問いに対し、「どうであつたか気がつきませんでした。」と証言している。

新開鶴吉は田中、石井夫婦より少しおくれて三枝方に行つているが、同人は三枝方の東隣りに住んでいるので、その際工事場の前を通つたわけではない。しかし同人は原第一審第四回公判における証言で、「三枝方の前に行つた時、工事場の戸口は開いていなかつた。私は工事場の方へは行つていないが、そばに行かなくても板囲いが道路上に三尺も出ているので、戸が一尺ほど開いていてもよく判る。」と述べ、村上検事に対する二九年九月一四日付及び三〇年九月七日付各供述調書も同趣旨である。なお羽柴廬の原第一審第一三回公判における証言によれば、板囲いは警察の許可を得て一・五メートル歩道に張り出ていたという。

検察官は以上のような証拠により、工事場の戸は確実に閉まつていたと主張するのであるが、一方事件後現場に駈けつけた警察官らは、こぞつて工事場の戸が不完全ながら開放され、人の出入りが出来た事実を明確に認め、そのうち午前五時五〇分頃到着した長尾昂は、「工事現場より中に入つたが、中央の戸が下が約一尺位、上部が約三尺位の角度で開いており、通行に不自由はなかつた」旨記述しており(同人作成の二九年九月二一日付上申書)、遅くともその頃までに右のような状態が生じていたことは疑う余地がない。

また三枝皎は大道の家から自転車で荷台に乗せた姉登志子と共に八百屋町に駈けつけ、新館工事場の前を通つた時、「戸の向つて右側(西側)の上の方の括り目が外れて、戸の西端が外側へのぞけるように開き、人が通り抜けられる状態であつたので、どうしてここが開いているのかと二人で話し合つた」旨述べ、登志子も「中央の戸が一、二尺開いているので、いつも用心のため閉めてあるのにと不思議に思つた。」と述べている(三枝皎の原第一審第一四回公判における証言及び村上検事に対する二九年九月二一日付供述調書並びに三枝登志子の同検事に対する同日付供述調書)。皎らが現場に着いた時刻は、西野の知らせを受け直ちに自転車を走らせたとして、早くとも午前五時四〇分頃と思われる(西野の村上検事に対する二九年七月二四日付供述調書によると両国橋派出所から大道の家まで自転車で四、五分、大道から八百屋町までは七ないし一〇分かかるという。)登志子も検察審査会における前記供述で、五時四〇分頃店に着いたと思うと述べている。

田中佐吉や石井夫妻が三枝方に行つたのは、正確な証拠はないが午前五時二〇分前後のことと思われるので、その頃工事場の戸が閉まつていたとすれば、それから二〇分ないし三〇分の間に、何人かがこれを開放したことにならざるを得ない。

この点につき原第一審第一回公判における検察官の冒頭陳述は、立証すべき事実を次のように掲げている。

「更に被告人は前記(1)記載の一人ポッネンと佇立しているのを(西野、阿部によつて)発見される直前頃強盗殺人事件であるように現場を偽装するため西側に新築中の三階建徳島テレビの一階表側中央辺の粗悪な出入口用板戸を犯人逃走口であるかのように一部解放したものとしか考えられない事実の存在即ち

(イ) この戸は前夜内側より針金で縛つておいた事実。

(ロ) 泥棒侵入の知らせにより当初駈けつけた附近住民が同所附近を通過したときこの戸は閉まつていた事実。

(ハ) その後この戸西寄り部分が歩道へ若干押し出されて少しばかり開けられてあつた事実。

(ニ) しかもこの戸は駈けつけた警察官、家族、近隣者、店員等は全然このように開けたものはない事実。

(ホ) 被告人が足元の悪い裏道路上を、しかも負傷の身を前記足場用柱等を手を以て支えながらヨタヨタと前記板戸を開けに行つたかのように、右足場用柱に血痕が付着点在している外、前記被告人が佇立していた個所の東方からその西方にかけて血痕が点在し、その上右板戸付近に一滴の真新しい血痕が付着していた事実。」右の冒頭陳述によれば、検察官が本件の起訴当時、田中佐吉や石井夫妻が新館工事場前を通つて三枝方を訪れた時以後に、被告人がひそかに工事場の中を通つて入口の板戸を中からこつそり開放しておいたと考えていたことが明らかである。

しかし起訴当時検察官の手中にあつた証拠からしても、田中や石井らが三枝方に行つた時刻と、その後武内巡査が三枝方に到着した時刻との間隔は、せいぜい一〇分位しかないことは当然判つていたはずであり、新開鶴吉が三枝方前に行つた時刻と武内の到着時刻との間隔は更に短く、かつ新開は検察官に対し、この時店先から中をのぞき込んで被告人の素振りに異様なものを感じていて、検察官はそのことも冒頭陳述で指摘しているのであるから、新開が来た時刻に被告人が四畳半にいたことも明らかであつたことになる。武内巡査の到着後は被告人はずつと同巡査と対座していたのであるから、被告人が文字どおりヨタヨタと手負いの身を引きずつて工事場の板戸を開けに行くことが出来る時間は、新開が店先に来てから武内巡査が駈けつけて来るまでの間しかなく、その間いつ警官や医師が来るかも知れず、板戸を開けるにも少なくとも一分や二分は手間取るはずであり、その状況を外から誰が見ていないとも限らない(西野に至つては、二九年八月一〇日にした裁判官に対する証言などで、板戸を開けるのには急いでも四、五分かかるとまで述べている)。しかも後記のとおり新館工事場内を被告人が通り抜けた形跡も認められない。

以上のような証拠上の障害にもかかわらず、検察官はなお工事場の板戸を開けたのは被告人であると想定して公判に臨んだわけであるが、結局右想定は原審第一審段階で既に放棄され、原第一、二審とも、誰が工事場の板戸を開けたのかについての認定をしないまま有罪の判決を下した。

本再審公判においては、検察官は論告中で、臨場した警察官らが右板戸を開放した蓋然性が極めて強いと主張するのであるが、その根拠としては新開鶴吉の妻新開キチの村上検事に対する三〇年九月七日付及び南館検事に対する三四年三月九日付各供述調書を挙げるのみである。

右二通の調書によると、昭和二八年の末頃、新開方にかねて付き合いがあつた当時の市警鑑識係巡査部長西本義則が立ち寄つた際、キチが「亀三郎殺しは内部の者の仕業だと世間では噂しているが、縁の下まで捜してみたか。」などと尋ねたが、西本は取り合わず、更にキチが「新聞に犯人が工事場から飛び出したという話が出ているが、工事場の戸口は開いていたのか。」と聞いたところ、「あそこの戸はわしらが来た時には閉まつていたのを、わしらが開けたんじや。」と答えたというのである。また新開鶴吉は村上検事に対する三〇年九月七日付供述調書で、同月三日の朝徳島新聞の朝刊に酒井勝夫が偽証して事件当時三枝方新館工事場の出入口から逃げ出した男を見たと公判廷で述べた旨の記事が出た時、キチが私に大分前西本が工事場の戸はわしらが開けたと言つていたから酒井の証言は嘘に違いないという話をした旨述べている。

村上検事はこの点につき前記の「冨士茂子に対する擬装殺人被疑事件捜査の経過」と題する書面中で、「昭和二九年一一月中旬ないし下旬頃であつたと思うが、当職は新館表戸の開放時期如何について未だ十分の解明がなされておらず、この点だけが気がかりなところより、一人で現場に行き、私的実況見分を二、三日続けていたところ、新開キチが不審がるので、その理由を告げると、キチは「アレそんなことなら事件後自分方に来てマージャンをしていた西本が、あの戸は自分が現場に来た時出入りするのに不便を感じたので、内側から開けておいたもんじやと笑いながら言つていた。」と語つたので、確かその翌日頃新開キチより右事実についての供述調書を作成すると共に、早速西本に出頭を求めて追求したが(中略)今更西本を追及しても同人は現職の警察官であるから表戸を事件後自ら開けたとは容易に供述しないかも知れん。しかし新開キチの右証言によつて西本が表戸を開けたことは明らかであり、外部犯人がこの戸を開けて逃げたとの被告人の弁解の反証としての証拠価値は一応ととのつたと思料し、云々」と記述している。もつとも右書面(以下「捜査経過」と略称する)は、内容自体から村上検事が作成したことは明らかであるものの、記録中に存するのは日付も作成者の表示もないタイプ印刷された文書で、西野、阿部の偽証告白後、上級官庁の命により作成された報告書と推定し得るのみであり、検察官もその内容は記憶にもとづき相当日時経過後作成されたと指摘しており、特に日時に関する記載は不正確と思われるものである。

これらの証拠は一応検察官の前記主張にそうものではあるが、その証明力が極めて薄弱であることは何人の目にも明らかである。

西本義則は、同人の原第一審第五回公判における証言によれば、事件当時捜査鑑識主任であつて、午前五時四〇分ないし四五分頃三枝方に着いたとのことであり、検察審査会における供述(三四年九月一四日)では、「被告人から犯人逃走経路の説明を受けたので、その指示する場所に行つて見たところ、工事場板囲いの戸がVの字型に開き、一人が自由に出入り出来るようになつていた。その時、その戸口近くのなる木に薄く血痕のようなものが付いていたのを採取したが、確実な鑑定の結果は出なかつた。私が新開方でマージャンをしながら、キチが検事調書で述べているようなことを言つた覚えはない。もし言つたとすれば冗談に言つたものと思う。現場維持は捜査官の鉄則なので、私が板囲いの戸口を開けたことは絶対にない。」と述べている。また同人作成の二九年九月二一日付申述書でも、「板囲いの扉は臨時的なもので、板を組んであるに過ぎないようなざつとしたもので、表から向つて右の方の下部が地面について一尺足らず、上部が三尺余りねじれて開いていた。」と記述している。

西本がいうとおり、鑑識責任者の職にある同人が正確な記録も取らずに現場の重要な状況を軽々しく変更するとは、常識上ほとんど考えられないことである。当時捜査係の一員であつた岡田伴二は検察審査会における供述(三四年九月二二日)で、「私が現場へ行つた時新築工事場の板囲いの戸口が一尺位開いており警察官が出入りしていましたが、西本部長は、そこが犯人の逃走経路のように思われると言つていました。」と述べている。検察官の主張のとおりであれば、西本は自ら戸口を開けておきながら、何食わぬ顔をして犯人がそこから逃げたらしいと言つていたことになる。

村上検事は前記の「捜査経過」中で警察に対する不信感を露骨に表明し、特に西本に対して疑惑の目を向けている。そのことは西本が事件当日亀三郎の遺体解剖に立会いながら、亀三郎が殺された時着ていた寝巻を保存するのを怠り、遺体と共に棺に納めて焼却させてしまうという失態を犯し、かつ被告人と昭和一五年以来の知り合いであつたこと(西本の原第二審における証言及び検察審査会における前記供述並に真楽與吉郎の原第一審第七回公判における証言及び木村検事に対する五三年七月三日付供述調書)などによると思われるが、同人が閉鎖されていた工事場出入口を自ら開放し、しかもそのことを隠しておいて、犯人がそこから逃げたものという想定を立てさせ、捜査を根本的に誤つた方向に導くというが如き、単なる怠慢や過失とは全く次元を異にする職務違背行為をあえてしたと考えるのは余りにも空想的というべく、前記「捜査経過」の記載によつても明らかなとおり、西本本人が認めていないのに、新開キチの話を鵜呑みにして、西本が戸を開けたことは明らかと断定している村上検事の思考には、甚だ理解し難いものがある。

新開キチが仮に昭和二八年の暮れ頃に西本から前記のような話を聞いたとすれば、そのことを恐らく鶴吉に話したであろうが、鶴吉の供述では三〇年九月に至つて初めてキチからその話を聞いたように取れるのは、いささか不自然に感じられる。ことに新開夫妻は二九年七月から再三検察官らに事情を聴かれ、共に原第一審第四回公判(同年一一月一六日)に証人として出廷して工事場の戸の状況について尋ねられているのであるから、この点が重大な争点になつていることは当然知つていたはずなのに、キチが三〇年九月に至つて初めて村上検事に西本の話の内容を告げたとすれば、それまでこのことを述べなかつた事情について説明を求められて然るべきであるが、村上検事は全くこれを問題としていない。また「捜査経過」の記述の如くであれば村上検事は新開夫妻が証言した直前または直後にキチの打ち明け話を聞いたことになるのであるが、そのいずれにしても、キチの証言との関連について全く記述がないのは不自然としなければならず、当時のキチの供述調書がないことの説明もつかない。

以上、いかなる点からみても、キチの供述の信憑性は乏しく、これによつて西本が工事場の戸を開けたと認めることは到底出来ない。

そして西本以外に工事場の戸を午前五時二〇分頃から五〇分頃までの間に開けた人物がいるという証拠は全くなく、被告人にそういう機会があつたとは到底考えられず、西野や阿部が開けたとも考えられないから、田中、石井、新開らの証言等にかかわらず、工事場の戸は事件当時から開放されていたと結論する外はない(被告人は事件後新館の裏まで行つた時、点々と血痕を残しているのに、新館内部には血痕がなかつたことが実況見分調書及び村上清一の原第一審第三回公判における証言によつて認められるから、被告人が事件直後に工事場の戸口まで行つたという可能性もない)。

警察官らが現認した戸口の状況は、現場に六時頃着いた松島治男刑事課長が、「私の体が一人出入りしかねる位の開き方で、下は狭く上の方が広く、内側より無理に押し開いた恰好」(二九年九月二一日付上申書)と記述し、その後到着した櫛渕泰次が「人一人が体を横にすると通れる位」(同月三〇日付申述書)と記述していることによつて知られるとおりで、当日の日の出時刻(午前六時二四分)より約一時間前の薄明の中では、田中や石井らが戸が開いていると気づかない可能性もかなりあつたのではないかと考えられる。

検察官は外部犯人が外側から板戸を開放することは不可能に近く、逃走の際内側から開ける余裕もないはずと指摘しているが、板囲いを乗り越えるなどの方法で侵入した犯人が予め逃走に備えて板戸を柱に括りつけてある針金を外しておいたと考えれば格別疑問はない。

なお西野の村上検事に対する二九年七月二一日付供述調書には、被告人に頼まれて最初に電話線を切つた時のこととして、「この時店の表道路上には誰もいなかつたのを幸い、現在建築が完成している三階建三枝ビルは既にコンクリート造りの荒壁が出来上がつていましたが、この建築のための足場が周囲に取り付けてあり、表側と東側の足場の連結している部分で東北隅の柱は当時の三枝方店表側中西より東へ三尺乃至四尺の所にあり、その根元にこの柱を丈夫にするため斜めに支え棒が取り付けてありますが、この支え棒と右柱とを利用して表側足場中地上五、六尺の所にある足場に上がり、そこから店の庇の上の看板を乗り越えて屋根の上に上がつた」旨の記載がある。西野が実際に右のような行動をしたか否かは別として、このような方法で屋根に上がることは容易であつたと考えられ、屋根の上から開け放しの窓を通つて新館二階に入り、階下におりて裏へ出られることは、実況見分調書本文の記載並びに添付写真第二号及び第六号によつて明らかであるから、このような侵入方法も十分考えられる。

以上によれば、被告人が夜のうちに予め戸を開けておいたとでも想像しない限り、工事場の戸は外からの侵入者によつて開けられたと推定すべき十分な理由がある。

三  不審な男が目撃された事実

辻一夫の司法巡査に対する二八年一一月六日付供述調書には、次のような記載がある。

同人は当時徳島市中洲町一丁目所在の中央魚市場に勤めていた者で、毎日午前五時に起き、同市南出来島町二丁目の自宅から自転車で通勤していた。事件当日である同月五日、いつものように通勤中八百屋町通りを西から東に向つて行くと、南側の家の中から女の叫び声が聞こえるように感じ、段々進んで行くと「泥棒だ、泥棒だ」と言つているようで、しきりに叫んでいたが、近所の人が起きている様子はなかつた。そのうち自転車で走つている地点のすぐ南側にある鉄筋三階建(建築中)の階下より黒い人影がバタバタと飛び出して来て、南側の歩道をものすごい勢で西方の元町ロータリーの方へ逃げて行つた。泥棒が逃げたと思つて振り返ると、人影は左に曲つて元町通りを南の方へ走つて行き、見えなくなつた。約四、五間東寄りの新開時計店の前で停止して向きを変え、自転車で後を追つて見たが元町通りに姿はなく、通町の方に入つた様子もないので、また八百屋町に戻つた。その時「お父さん、泥棒」という声がまだ続いているのに、近所の人が起きて来なかつた。最初飛び出した人影を見たのは道路の中央からで、人影との距離は五、六間と思う。逃げた人物は背が細高く、走り方が相当速く、三〇代前半以下の者のような走り方であつた。最初人影を見たのは五時一〇分から一五分頃のことであつた。

右の供述調書は事件発生の翌日作成されたもので、新鮮確実な記憶にもとづくものと認められる。

辻は原第一審第一五回公判でも、これとほぼ同様な証言をしたが、「工事場から一人の男が飛び出したように直感したが、暗い時であつたので確認は出来ず、工事場の前付近に立つていた男が走り出したのかも知れない。」という留保を加えている。

なお右証言中で辻は、男の背丈は五尺四寸五分ある私と同じ位ではないかと思う旨述べている。後記のように被告人も佳子も犯人の背丈は亀三郎(身長一六三センチメートル)と同じ位であつたと述べており、また被告人が当初犯人として名指した米田明実の身長は一六四センチメートルであるから、辻が言う男の身長とほぼ一致する。勿論当時の日本人成年男子の身長として、これは最もありふれた数字であるから、偶然に一致する可能性は大いにあり得るけれども、この点でも被告人と佳子が見たという犯人が実在し、辻によつて目撃されたという可能性は少なくとも否定はされないのである。

辻の右証言及び供述の信憑性は著しく高く、原第一、二審判決はいずれもこれを是認しながら、辻が目撃した人物は中越明で、本件殺人事件とは関係がないとの判断を示している。

そこで中越明の原第一審第一五回公判における証言について見ると、その内容は次のようなものである。

事件当日の午前二時半頃川口算男と共に自転車を盗む目的で中洲港に行つたが、窃取の機会がなく、午前四時半頃から徳島市蔵本町方面に向つて帰る途中、八百屋町の斎藤病院前付近で川口と別れ、八百屋町通りを東から西へ向つて、車道の南側の端を歩いて行つた。まだ薄暗い頃だつた。三枝電機店が八百屋町にあることを当時は知らなかつたが、その前を通つた時、新築中の工事場があつたことは記憶にある。その時悲鳴を聞いたかどうかは記憶がない。昭和二八年六月頃からヒロポンを一日一〇〇本も一五〇本も打つていたので、当時は中毒状態にあり、正常な記憶を保つていない。前に検察庁で取調を受け、三枝方の前で「泥棒」という女の悲鳴を聞き、びつくりして逃げ出したと述べたことはあるが、同じことを何回も何回も尋ねられて錯覚を起し、そんなことがあつたように言つたのであつて、今正常な精神状態で考えると、そういう記憶は全然ない。元町ロータリーを藍場町の方へ向つて走つた記憶はある。どこからどこまで走つたかは覚えていない。途中で別れた川口が藍場町から春日橋の方へ抜けると思い、それに遅れないように走つた。

中越の証言は右の如くであり、一方川口算男は村上検事に対する二九年八月一二日付供述調書において、ほぼ中越の証言を裏付ける供述をし、「八百屋町の「ますや」質店の角で中越と別れて南に折れ、盗めそうな自転車を物色して歩いたが見つからず、その後通町を抜けて藍場町の入口付近でまた中越と一緒になつた。通町を通つたのは午前五時過ぎ頃と思う。」と述べている。

以上の証拠によれば、中越が本件殺人事件発生の直前または直後の頃、三枝方の前を西へ向つて通つたことは一応認められるが、同人が辻一夫の目撃した不審な人物であると積極的に認め得る根拠はなく、単にその可能性があると言えるだけで、むしろこれを疑うべき有力な理由がある。辻は工事場付近からものすごい勢で走り出した人物を見たと述べているのであり、車道の端を東から西へ向つていたという中越の行動とは、そのままでは符合しない。辻がまだ中越の姿を認めないうちにヒロポン中毒者の同人がたまたま三枝方付近で悲鳴を聞き、急に走り出したという可能性が考えられるだけである。また辻が目撃した人物は元町ロータリーで南方へ左折し、見えなくなつたのに、中越はその証言による限り西の藍場町方面に走つて行つたというのであつて、辻にその後姿が見えたはずである。これらの点からすれば辻が見た人物が中越であると認めるのは困難である。

そして当時の中越のような異常者であれば、悲鳴を聞いて走り出すという行動もあり得ようが、普通の人間がそういう疑わしい行動を取るとすれば、それだけの理由があるはずであり、辻が見た人物が本件殺人事件に関与していたという蓋然性は極めて高いと言わなければならない。

なお弁護人は辻一夫の外に酒井勝夫も逃走する不審人物を目撃している旨主張するが、同人の証言等は客観的事実とくいちがう点があり、同人が現場付近を通りかかつたという時刻も事件発生時刻とはかなり隔たつているので、直ちに信用することは出来ない。

四  工事場出入口の板戸の血痕等について

実況見分調書によると、新館工事場出入口の板囲いの柱に、わずかの血痕と思われるものが一、二点認められた旨の記載がある。調書作成者である真楽は原第二審で、「入口の板囲いの柱に血痕と思われるものが一、二点あり、佐尾山技官に見てもらつたら人血とのことであつた」旨証言している。

真楽はこのように柱に血痕が付いていたとしているが、以下の証拠と対比すると柱というのは誤りで、正確には板戸の端の平面部分に付いていたものと認められる。

すなわち和田福由の村上検事に対する二九年九月二〇日付供述調書には、「西側新築工事場の表入口の戸は回転式の簡略な戸になつていた。その軸でない方の側の見附け(親桟に当る分)の三尺位の高さのところに小豆大の血痕が一、二点付いていた。少量のため、人血か獣血かの区別はつかなかつたが、真新らしい血液であつた。」との記載があり、真楽がいう血痕は、これを指したものと認められる。

前記の原第一審第一回公判(二九年一〇月一一日)における検察官の冒頭陳述中、「工事場の板戸付近に一滴の真新しい血痕が付着していた」との指摘が、和田の供述にもとづいていることは明らかで、この段階では検察官は被告人が犯行後板戸を開けに行き、その際右血痕を付着させたと考えていたわけである。もつとも和田は原第一審第三回公判(同年一一月一五日)における証言では、「戸の西に面している親桟の見附けに小豆の半分大の血が付いていましたが、非常に薄く、新鮮さの点では血液かも知れないという程度のもので、採取して帰りましたが、血液型も検出出来なかつたのではないかと思います。」と証言しているが、二箇月前の供述と全く異るものではなく、新しい血であることは否定していないものと思われる。しかし被告人が板戸を開放したという検察官の想定は結局放棄され、それと共にこの血痕が真新しいものであつたとすることは、検察官にとつて不都合な主張に変化するので、再審請求段階での検察官の立証は、この血痕が古いものであつたという証拠を列挙することになり、その代表的なものとして、第六次再審請求審における検察側証人佐尾山明は、「とびらの端の西側に向いた側面の木の部分に、身長一七六センチの私の首位の高さのところに米粒の半分位の血痕が一個付いていたのを私がメスで切り取つた。人血であることは判つたが、微量で血液型の検査は出来なかつた。肉眼的に古いものと思つたが一応血液の疑いがあつたので採取した。色はかなり黒味を帯び、赤褐色に類していた。」と述べている。

佐尾山は木村検事に対する五三年六月一三日付供述調書でも、右血痕は古いものと述べ、同検事に対する真楽與吉郎の同年七月三日付及び和田福由の同月六日付各供述調書も同様であるが、これらはいずれもはるかな後年における記憶を述べたもので、和田の「真新しい血液であつた」という供述の信憑性を覆すものではない。

一方、松島治男は、第五次再審請求審における証言で、右血痕につき、「板戸の側面に付いていたと思う。いつ頃付いたか判るようなものではなかつた。私が見たのは一箇所で、私の腹の中心部位の高さに、米粒までもなく、強いて言えば胡麻粒に近いような微量が付いていた。血痕であつたという報告は出ていない。私は血痕と思つていた。色は鮮明な赤いという色ではなかつた。」との趣旨を述べながらも、「あそこから犯人が出た時に身体に付いていたものがちよつと付いたんじやないかというような判断を当時持つていた。」とも述べている。

これらの証拠によれば、右血痕と本件事件との関連性は濃厚というべく、原第二審判決もこれを一応認め、「出入口の柱に人血と認められるもの一、二点が付着していたのであるが、当時の混乱した状態からして捜査官その他の出入りから付着することも考えられるところで、直ちに犯人逃走の跡とは認められない。」と説示している。

しかし右説示は著しく低い可能性を指摘するものに過ぎず、むしろ辻一夫が目撃した男が板戸を押し開けて飛び出す際に残した血痕と考える方が合理的な想定である。

次に和田福由作成の二九年一二月一三日付鑑定書によると、新館工事場二階から母屋の屋根に通じる東側窓枠に、指紋二個、掌紋一個が印象されていたことが認められる(同鑑定書参考写真(三))。和田は村上検事に対する同年九月二〇日付供述調書でも、「東側窓枠中北から南へ二つ目の窓だつたと思うが床から高さ五尺位のところで南端窓枠の内側(北面部分)に一つの掌紋と、そのすぐ右側の窓枠(西側面)に左手拇指と認められる指紋が、いずれも肉眼で発見された。この掌紋と拇指紋とは共に同一の手で窓枠をつかんだ時に付いたものと推定された。これらは三枝方家族や店員のものとは違つていた。」と述べている。右調書の記載はこれだけであるが、家族や店員の指紋等と対照したのであれば、当然工事関係者の指紋等とも対照し、一致するものがなかつたことが推認される。

和田の前記原第一審証言及び同人作成の右鑑定書によれば、これらの指紋等は事件発生後約五時間後に既に乾燥した現象指掌紋となり脂肪質の存在が認められない状態にあり、対照可能ではあるが、事件発生の一週間以上前に印象されたものと推定され、事件とは無関係であるという。弁護人はこれを疑問とするが積極的な反証はないので、右指紋等と事件との関連性は薄いとする外はない。但し和田の右供述書の記載からして、新館工事場に通常出入りしていた者の中には、右指紋等を残した人物はいなかつたと考えられ、この点に疑問が残るが、右のように考えればその当然の帰結として捜査線上に浮んだ前歴者等の中にも、これによつて特定される人物はいなかつたということになろう。本件の容疑者として逮捕された川口、中越はもとより、篠原組関係者を中心とする相当広い範囲の素行不良者について指紋等の対照が行われたと考えるべきであり、その中で該当者が発見されなかつたことを前提として、なおかつ右指紋等が本件真犯人のものであつたとすれば、その人物は全く捜査圏外にあつたということになるが、かかる可能性はそれほど大きくないのではないかと考えられる。

五  被告人が見た外部犯人

1被告人は検察官に対して前記の一時的な自白をした外は、事件発生以来一貫して、外から侵入した賊が亀三郎を殺害し、被告人をも刺して逃走したと述べている。

もつともその細部については、時期によりかなりの変化があるが、最も詳細にわたるのは原第一審検証期日(二九年一二月五日)において指示説明として述べたもので、次のとおりである。

事件当日は南枕で西から主人、私、佳子の順に寝ていた。朝方、咳が出て目ざめ、うつらうつらしていると、「奥さん、おいでるで」という声がしたので、私が「誰で」、「西野さんで」と問い返したが返事がなかつた。すると主人が起きあがつて、南側の障子を西から東へ開けるなり、「はあつ」という恐怖の声をあげて後ずさりした。同時に賊が入つて来て、西側の壁の方に懐中電灯を向けたらしく、鈍い光で壁が丸く照らされた。私はこの時佳子を起し、助けを求めに行かせたと思うが、恐ろしい一杯で何と言つたか判らない。佳子は泣きながら裏の方へ出て行つた。主人と賊は押入の前でもじり合い、それから部屋の中央に寄つて来た。中央にさがつている電灯を真中にして、主人が南向き、賊が北向きで相対し、その二人に対して私が西向きになる位置にいた。その時主人が電灯をつけようとしたと思つたので、私は電灯のスイッチをひねつたが、電灯はつかなかつた。そうするうちに主人が助けを求めて来いと言つたような気がしたので、裏から外に出ようとし、四畳半の間と廊下との仕切りの敷居の便所寄りの所まで行つた時、私の左側を賊が通り抜けたので、私は敷居の西端の柱を背にして東へ向くようにして避けた。その時左の脇腹にひやりとしたものを感じた。賊は私を追い越して裏へ出て行つたので、私は廊下南側のガラス戸の敷居際まで左足を踏み出し、ガラス戸の敷居の西端の柱に手をやり、体を伸ばすようにして、裏の露地を西へ行く賊の方を見たが、恐ろしかつたので外へは出ずに引返し、店の電話で警察に通報しようとしたが、電話がかからないので、電話も切られていると思い、また引返して四畳半の間を通り、廊下から裏へ出、すぐに火事だと叫び、露地伝いに西へ行き、新館の風呂場のあたりでも、火事だと二、三回叫んだ。そして新館の窓から北の方を見た時、工事場の一番外側の板塀出入口の板戸の左端の隙間から外へ逃げて行く賊の後姿が見えた。私はそれから四畳半の間へ引返し、その際小屋の前に西野と阿部が立つているのを見たので、盗人じやと言つて二人を連れて店の間へ行き、病院と大道へ使いにやつた。

公判廷における被告人の供述は右指示説明より簡略であるが、おおむねこれと一致している(なお賊の身長は亀三郎と同じ位であつたとしている)。

右趣旨の供述中、賊が外に出た後で被告人が一旦警察に電話しようとして電話がかからず、その後外に出て新館の窓のところまで行き、賊が工事場の出入口から逃げ出すのを見たとある点は、賊の行動が余りにも緩慢に過ぎ、一見して不合理に思われるが、右のような供述は被告人の逮捕直前である二九年八月五日付の藤掛検事に対する供述調書において初めて現れたもので、その以前には、賊が外に出た時すぐその後を追つて行つたように述べている。

そのいずれかが正しいか、あるいは検察官がいうように偽装工作の一環であるかは別として、被告人がこの頃寝巻のまま外に出、左脇腹の傷から血をしたたらせながら、新館の裏側まで行つたことは、そこまでの間の通路の踏板や道具小屋の敷居の上などにA型の血が点々と落ち、工事用足場のナル木にも血の付いた手で触れた痕跡があつたこと(実況見分調書、村上清一の原第一審第三回公判及び原第二審における各証言)によつて明白であり、阿部もまた司法警察員に対する二八年一一月二七日付供述調書で、「奥さんが二、三回続けて「泥棒」と言うので、西野と二人で起きて小屋の外に出、小屋と新築工事場の裏に続いている工具を置く小屋との間の通路に立つていると、奥さんが寝巻のまま立つて工事場の中の方を見ていた。その時奥さんは何も言わず、私たちが出て来ているのにも気づかない様子だつた。私たちも何も言わずに、そのまま小屋に戻つた。その時の奥さんの態度は何もあわてたようではなく、「泥棒」といがつたが逃げたのかな位に思つていた。小屋に戻つてからすぐ奥さんが「西野さん」、「若い衆さん」と呼ぶので、四畳半の間へ行つたら亀三郎が倒れていた。」と述べている。

阿部の右供述は事件当時の記憶がまだ新たな時期になされたもので、被告人に嫌疑はかけられておらず、意図的な誘導などは考えられない状況で述べたものであるから、全面的に信用してよいと認められる。もつともこの段階では、西野は被告人の右のような挙動を阿部と共に見ていたのに、その事実を述べた形跡がなく、故意に隠していたように疑われるが、その理由は必ずしも被告人の挙動をあやしんで供述をためらつたものとは限らない。西野らが被告人の叫び声を聞いて外に出ながら被告人に声をかけずに小屋に戻つてしまつたことは、雇い人としてはほめられたことではなく、被告人がそのことを知らずにいたとすれば、なるべく黙つていようと思うのは自然なことであり、被告人のためにではなく、西野自身にとつて都合が悪いと感じたから話さなかつたと解する方が当つているように思われる。

ともあれ、被告人は新館の裏まで行つて放心状態で立ち止つていたものと考えられ、村上清一が原第一審第三回公判で、「新築工事場の裏側に工事場に面して建つている道具小屋の敷居の上に相当多量の血液が落ちていた。」と証言していることも、その裏付けとなる。

しかし事件当日における被告人の巡査部長福山文夫に対する供述調書には、犯人の後から外へ出たとの記載はなく、犯人が新館工事場の入口から逃げ出すのを見たという供述は、事件後半月を経た二八年一一月二〇日付の同巡査部長に対する二回目の供述調書に初めて現れている。

本再審公判における検察官の論告意見はこの点を具体的に指摘していないが、福山は原第一審第一五回公判において、村上検事の「被告人が犯人が新館の中から飛び出すのを見たと言つたのは、辻一夫が犯人らしい男が新築工事場から飛び出すのを見たという話が新聞に出てから後のことで、その前にはそんなことを言つていなかつたのではないか。」との問に対し、そのとおりと思う旨証言しており、原第一、二審判決はいずれも右証言にそう認定をしている。なお本再審公判で新たに取調べた福山の村上検事に対する三〇年九月一七日付供述調書には、「被告人から、犯人が新館の中を通り八百屋町通りに逃げ出すのを見たという話を聞いたのは、事件当日ではなく、その翌日以後である。何日であつたか記憶はないが、辻一夫の犯人が新築工事場表口から逃走するのを見たという話は事件の翌日の徳島新聞朝刊に出ているので、その後のことであるのは間違いない。」との記載がある。

しかし原第一、二審判決の右認定はけだし誤りであつて、被告人は事件当日既にこのことを述べていたと考えられる。

西本義則は原第一審第五回公判において、「事件当日、午前五時四〇分か四五分頃現場に行き、すぐ被告人に「どしたんなあ」と聞いたところ、被告人は「賊が主人と格闘して裏口から新館の方へ逃げ、私が新館の裏まで行き、窓からのぞいたところ、犯人の後姿が見え、何か白つぽく見える服装であつた」と述べた」旨の証言をしている。

原第一、二審裁判所は西本の右証言を信用しなかつたものと思われるが、西本は検察審査会における前記供述でも、「私は茂子より犯人の逃走経路の説明を受けたので、早速茂子の指示する場所に行つて見たところ、工事場板囲いの戸がVの字型に開き、云々」と述べ、更に当時徳島市警署長であつた新居清は村上検事に対する二九年九月三〇日付供述調書で、「事件当日午前六時前頃三枝方に行くと、被告人は既に入院していたが、武内巡査が被告人の話として、賊が新築工事場の中を通り抜けて表中央の戸のところから外へ逃げて行つたとのことである旨報告したので、工事場の出口へ行つて戸の西の方が開いているのを認めた。」と述べている。松島治男も第五次再審請求審における証言中で、事件当日の夕方頃、被告人が右のような供述をしている旨の報告を捜査員から聞いたように思うと述べている。

これらの証言及び供述の信憑性を強く裏付けると思われるのは、松倉豊治の第五次再審請求審における証言であつて、同人は事件当日亀三郎の遺体解剖に当つているが、右証言によれば、解剖に先立ち午前八時前後に三枝方に行つた時、犯人が出て行つた場所として被告人が指示したという工事場の戸が開いている状況を三枝方の裏から見たことが記憶に残つているというのである。

以上の証拠を総合すれば、被告人はやはり事件直後既に賊が工事場入口から逃走するのを見たことを述べていたと認めるのが相当である。福山文夫の藤掛検事に対する二九年八月三一日付供述調書によれば、同人が事件当日大体午前八時頃から一〇時頃まで斎藤病院に入院中の被告人から事情を聴いている間、被告人は何回となく涙を流して泣き出したとのことであり、また当時同人が作成した被告人の供述調書は、被告人が犯人ではないかと指名した米田明実に関する部分に重点が置かれているようであつて、被告人がこの時福山に対し犯人が工事場入口から逃げたことを話さなかつたとしても、さほど不自然とは思われない。

このように被告人が事件直後から右のような供述をしていたとすると、それが作り話だとすることに著しい障害が生じる。工事場の入口は、羽柴盧の原第二審における証言や三枝登志子及び皎の各二九年九月二一日付村上検事に対する供述調書によつてうかがわれるように、毎日作業が終つてから工事人や時には皎によつて戸締まりされていたと考えられ、被告人も原第二審第六回公判において、「いつも工事現場の橋場(羽柴の誤記か?)さん、鎌田さんがやつてくれておりました。」と述べ、当然その状況を知つているはずであるから、被告人が人並みの分別を持つていれば、同じ嘘をつくとしても、賊が工事場の入口から逃げたなどと言えるはずはないのである。だからこそ原第一、二審における検察官は、被告人がこういうことを言い出したのは辻一夫の話に後から合わせたのだと想定し、裁判所もこれを是認しているのであるが、そういう解釈が成り立たないとすると、被告人は全く出任せに本来あり得ないと判つていることを述べたのに、西本巡査部長が警察官としてあるまじき無責任な行動をとり、その上辻一夫が事件発生時刻前後に工事場前から走り出したあやしい男を目撃するという、一つでも稀有な偶然が二つも重なつたために、被告人の作り話が状況にぴつたり適合する結果になつたということになるのであつて、到底現実にあり得るとは考えられない事態である。

結局証拠に即して判断する限り、被告人が実際に工事場入口から逃げて行く犯人を目撃し、そのとおりに述べたと認めるのが最も無理がないというべきである。

このように認めるとした場合、やはり被告人は捜査初期に福山巡査部長らに対して述べたとおり、四畳半の南側から出た犯人の後をすぐ追いかけて行つたと解し、被疑者段階以後の供述は、検察官の追及に混乱して歪められた記憶にもとづくものと解すべきであろう。

2右のような判断は既に検討した敷布の履物痕や工事場板戸の血痕などの客観的証拠とも一致するが、ここで更に被告人の供述中に右の判断を妨げ、あるいは動揺させるものがないかどうかについて考えてみる。

被告人の供述中には、一見不自然あるいは理解し難いと思われる点が少なくはない。

前記の如く和田福由は亀三郎が最後に敷居のあたりで刺され、その場に崩折れたと推定している。右推定の当否は一応別として、実況見分調書によつても、亀三郎の血が敷居際から廊下中央にかけて多量に落ちていることは明らかであるが、被告人の供述ではこの客観的事実に合う状況が全く語られていないだけでなく、被告人が外に出ようとした時、賊は被告人を追い越しざま刺して、そのまま逃走したというのに、それまでの間に亀三郎が賊に左手の傷を除いても九箇所に及ぶ刺創を負わされ、致命傷を受けたことがうかがわれるような供述はどこにも見られない。また事件当日の供述では、賊が被告人を刺して逃走した直後、被告人は倒れている亀三郎のそばに飛んで行き、暗闇の中で呼び起したが全然返事がなく、相当傷を受けているように思つたので上から布団をかぶせて置き、すぐ警察に電話しようとしたとのことであり、自然な行動のように思われるが、前記のように被告人が外に出て新館の裏まで行つたことは証拠上明白な事実であり、この点についての説明を欠く右供述をそのまま受け入れることは出来ないわけである。

次に前記の福山巡査部長に対する二回目の供述調書によると、「賊が裏口から外に逃げ出した後、被告人もすぐ外に飛び出し、何と言つたかはつきり記憶にないが「火事」とか「泥棒」とか言つて助けを求めながら、新館の裏口まで走つて行き、賊が新館の中を通り抜けて八百屋町通りに逃げて行くのを見てから四畳半の間に戻ると、部屋の中で主人が倒れているのが判つたが、殺されているとは知らず、ただ気絶している位に思い、とにかく早く警察に電話しようとしたが、どうしても電話がかからず、仕方なく懐中電灯を持つて来て主人を照らすと、血まみれで仰向けに倒れていたが、それでも死んでいるとは思わず、駈けつけて来た西野、阿部に早く医者を呼び、警察と大道の家にも知らせるように頼んで使いに出した。」というのである。

二九年八月五日付の藤掛検事に対する供述調書では、「新館の裏から戻りかけた時に西野、阿部が水道のそばで立つているのに出会い、「盗人が入つた」と告げすぐ四畳半の間を通り抜けて店の方へ行き、懐中電灯のケースに電池を詰め、二人に市民病院と大道へ行つてくれるように頼み、それから主人が柱に首だけもたれかかつたように倒れているのを照らしてみると、胸に赤い擦り傷のようなものがあつたが、卒倒でもしているのだろうと思い、別に声もかけず、ゆすぶりもせず、佳子を呼んで二人で頭を持つて畳の上に静かに寝させ、佳子の敷布団をかぶせた」旨録取されている。しかし右供述中、新館裏から戻る時西野、阿部に出会つて事件の発生を告げたという点は、右両名の証言・供述のどの部分とも符合せず、明らかに事実に反すると認められるのであるが、被告人はその後捜査段階でも原第一、二審公判廷においても同様な供述を繰返している。

右のような供述の推移を見ると、福山に対する二回目の調書の内容が最も自然に近く感じられ、西野、阿部の証言・供述とも符合する関係にある。

もつとも右調書においても亀三郎に声をかけたとの部分は既になく、倒れているのが判つても、気絶している位に思つたと述べている点は、亀三郎が賊と格闘しているのを現認した直後にしては、不自然に思われなくもないが、かかる非常の場合まず警察に急報しようとすること自体は当然で、電話をかけるのにそれほど手間取るものでもないから、亀三郎が刺されていることを知らず、しばらくこれを顧みなかつたとしても、常識に反する行動とまでは言えない。かつ右調書によれば、亀三郎が血まみれで倒れているのを被告人が認めたのちに、西野、阿部が被告人の声を聞きつけて来たように解し得るのであるが、二九年八月以降の供述では、西野、阿部と外で出会つたのちに初めて亀三郎が倒れていることを認め、しかも「卒倒でもしているのだろうと思つた」、「胸にかすり傷のような血が一筋付いていただけ」(藤掛検事に対する八月一四日付)、「胸に血が一筋付いているのを見て怖くなつて懐中電灯を消した」(同検事に対する同月二四日付)というように、客観的事実に照らし理解し難い判断や対応をしたことになつている。

そして原第一審第二回公判では、被告人は村上検事に「亀三郎が卒倒していると考えたというが、お父さんと呼びかけるなりタオルをしぼつて拭くなりしたか」、「脈を見たり傷の具合を調べたり呼吸をしているかどうかを調べたりしたか」、「被告人が賊に追い越され賊の後から裏口のガラス戸の敷居まで行く間に亀三郎がどたつと倒れた音は聞かなかつたか」、「亀三郎から逃げよと合図され、裏口へ行きかけた時、賊が被告人を追い抜いたというのだが、その時には亀三郎は刺されていたと思うが倒れる音は聞こえなかつたか」と問い詰められ、答に窮した形となり、「私は主人が死んでいるとは絶対に考えず、卒倒しているとだけ思つて、ただ医者の来るのを待つていました。」と述べている。

右の問答は、これを冷静に批判するならば、さほど被告人に不利に解すべきものとは言えない。確かに亀三郎が受けた傷の数や重大さに比して、その被害状況をほとんど具体的に述べていない被告人の供述は、真実味に欠けると思われる点はあるが、暗闇の中での突発的な異常事態であることを考慮すれば、亀三郎が刺されたこと自体直ちに判らなかつたということも、あり得ないとまでは断じ難く、亀三郎が倒れていると知つたのちも、医学の心得がない被告人としては直ちに医師の来診を求める以外に施す術はなく、なまじ手当を試みるより静かに寝させて置く方がよいと考えることに、あやしむべき節はないのである。

しかし初期の供述では「血まみれで倒れていた」と表現している亀三郎の傷の程度を、被疑者として取調を受けた時期以後は、さほどの重傷とは思わなかつたように述べている点は、率直な供述としては受取り難い。供述がこのように変化した原因は、検察官が被告人を追及するに当り、亀三郎を介抱した形跡が全くないと一方的に強調したことにあろうと推認することが出来るが、被告人がこのように事実を曲げていると解される供述をしたことは、原第一、二審公判において、被告人の供述全体の信憑性を著しく減殺する結果を生じたと考えられる。

原第一審判決は、「被告人は愛情と誠意を以て亀三郎の受傷の程度を確かめたり、何らかの介抱をしたりしたことが微塵も窺えない。」ときめつけ、「亀三郎の創傷が重症であるとは想い到らなかつたというが、左様なことのあるべきはずがないことは確実である。創傷が重大であることは一見して明瞭である。暗くて一見不可能とするも一言も発せずして倒れているのであり、被告人の思つた卒倒していることそれ自体重大である。仮に重大でないとの錯誤に陥つていたとするも、重大かどうか確かめることこそ通常の人の人情である。」と論じている。確かに被告人の公判供述のみを見れば、右のような判断もうなづけなくはないが、前述の如く被告人の供述中では福山巡査部長に対する二八年一一月二〇日付供述調書におけるものを最も事実に近いと認むべきであり、被疑者段階以後の供述は、時日の経過による記憶の薄れと検察官の追及によつてもたらされた混乱とにより、結果的にミスリードされ、事実に即しない部分が生じたと考えることが出来る。

武内一孝は村上検事に対する二九年七月二八日付供述調書中で「(被告人は)私が死体を見る前に、早う医者が来てくれんと死んでしまうと泣きながら言つてありました。」と述べている。検察官はその後の公判における武内の証言に際し、この点に触れた尋問をしていないが、武内は三四年九月九日の検察審査会における供述中でも、「茂子はその時、早く医者が来てくれんとお父ちやんが死んでしまうと言つて泣いていました。」と述べている。検察官は原第一審において主要な事実については供述調書の取調を求めず、すべて証人によつて立証する方針を取り、西野、阿部の供述調書すら、ようやく原第二審において取調べられたほどであつたため、弁護人としては検察官の手中にある供述調書の内容を全く知る機会がなかつたのである。武内の右供述によれば、被告人が亀三郎の死を冷然として座視していたとは言い難いわけである。しかし被告人は公判廷においても、亀三郎はただ卒倒しているだけと思つたというような供述をしたので、裁判所がこれを被告人に不利益に解したのは、その限りでは避け難い結果であつたと考えられる。

ここでさかのぼつて付言すれば、被告人が逃げ出した賊の後を追うようにして外へ出、暗闇の中を新館裏口まで行つたという点も、たとえ助けを求める目的があつたにせよ、屈強な男ならば格別、非力な中年婦人の行動としては、常識的には真実らしくないと考えられ易い。村上清一が原第一審第三回公判における証言中でこの点を疑問としているのは無理からぬところで、原第一、二審裁判所も同様の心証を抱いたものと考えられる。しかしこの点は、尋常の婦人がなし難いことを咄嗟に敢行するところに被告人の積極的な性格が現れているとも解し得る。この点に限らず、被告人の言動等で不利益に解されている点には、単に性格の現れとして理解出来ることがあるように思われる。

3次に検察官は、被告人の否認供述は被告人が受けた傷と一致しないと指摘し、被告人が言うように左側から追い越しざまに刺されただけでは、前記の(い)、(ろ)、(は)の傷は出来ないと主張する。しかし、このうち(い)、(ろ)創については、別々の刺創であるとする説と一個の貫通創であるとする説とがあり、前説を正当とすべきことは前述のとおりであるが、この見解を採る小林宏志作成の鑑定書のみならず、後説を採る松倉豊治の第五次再審請求審における証言によつても、被告人がいう状況と創傷との間に矛盾があるとはされていない(もつとも松倉証言は、被害者と加害者がほぼ対面している状況で刺されたとするのが最も自然であるとは言うが、被告人の供述が不合理であるとは断定していない。)(は)創は松倉豊治の前記検案書によつて、凶器の刃が触れる程度で偶発的に生じたものとされているものであつて、問題とする意味が乏しい。

結局検察官の主張はいずれの傷についても理由を欠く。

4被告人が阿部を最も近い斎藤病院に走らせず、市民病院へ使いに行くことを命じたことについては、原第一審判決は検察官主張の如くこれを被告人に不利な情況証拠の一つにあげているが、原第二審判決は右判断を疑問としているので、特に論じる必要は乏しいけれども、三枝紀之の司法警察官に対する二八年一一月七日付供述調書によれば、紀之が二五年の秋に市民病院で盲腸炎の手術を受け、翌二六年秋には女鹿八重子も同病院に入院し、登志子以下の四人の四人の姉弟が見舞いに行つた事実が認められ、検察官もこの事実を知つていたはずである。従つて登志子が前記の徳島検察審査会における供述中で、「私の家ではもともと市民病院がかかりつけの医者である」旨述べているのは、ありのままの供述と認めるべきである。阿部の原第一審第二回公判における証言によれば、「市民病院へは自転車で急げば二、三分で行ける」とのことであるから、斎藤病院までの距離はわずか五〇メートル位で、市民病院まではその四、五倍ある(西野の原第一審第二回及び第三回公判における証言)としても、被告人が咄嗟に市民病院への使いを命じたのは、ごく自然なことと認められる。

5最後に被告人が事件直後警察官に対し、犯人は米田某であると申し立てたことについて考えてみる。

武内一孝の原第一審第五回公判における証言によれば、被告人は事件直後現場に到着した武内に対し、同巡査が質問するよりも先に、犯人は覆面をし、茶の背広の上衣を着て紺のズボンをはいた背が高い男で、米田という男に違いないから、すぐ手配してくれと述べたという。このうち背広の色が茶色というのは恐らく武内の思い違いで、被告人は紺の上下と言つたのではないかと思われるが、被告人が武内の問いを待たずに米田の名をあげたという点は、武内が検察審査会における前記供述でも述べていることであり、疑う余地はない。西本義則も原第一審第五回公判において、「被告人に犯人の心当りを問うと米田の名をあげ、同人は日頃青い紺の背広を着ていると言つたが、犯人の服装については、犯人が逃げて行く後姿を新館の裏から見た時、白つぽいものを着ているのが見えたとしか言わなかつたように思う。」と証言している。

この時被告人が犯人として名指した米田明実は、二七年四月から二八年一〇月頃まで三枝電機店でラジオ販売の外交員として雇われていたが、給料の約束が守られなかつたことなどから、集金したラジオ代金を着服して競馬競輪に費すようになり、七、八万円の金を使い込んだ末、事件直前に事実上退職したもので、身長が一六四センチメートルあり、当時は紺の背広を着てネクタイをつけずにいることが多かつた(米田明実の司法警察員に対する二八年一一月五日付七枚綴り及び木村検事に対する五三年一〇月一四日付各供述調書)。亀三郎は米田に対し、着服した金の返還を強く迫り、事件前日の一一月四日にも西野を那賀郡新野町で菓子店を営んでいる米田の親元へ使いにやり、督促させたが、米田本人が不在で要領を得ず、亀三郎が事件当日四国電力新野営業所へラジオの検収に行くついでに米田方を訪れるつもりで、午前六時一〇分の一番列車で出かけることにしていた(西野及び阿部の各司法警察官に対する二八年一一月五日付並びに被告人の藤掛検事に対する二九年八月二九日付各供述調書)。

被告人が米田を犯人とした直接の根拠については、福山文夫の藤掛検事に対する二九年八月三一日付及び村上検事に対する三〇年九月一七日付各供述調書、被告人の福山巡査部長に対する二八年一一月五日付供述調書並びに真楽與吉郎の原第一審第七回及び福山文夫の同第一五回公判における各証言によると、被告人は事件当日斎藤病院で取調に当つた福山巡査部長に対し、犯人が聞き覚えのあるようなかすれ声で、「奥さん、おいでるで」と言つた声の調子が米田の声に似ていたし、佳子が犯人は紺の上下の背広様の服を着ていたと言つており、米田の服装に合うので、米田が亀三郎にラジオ代金の請求をされるのを苦にして亀三郎を恨み、犯行に及んだのではないかと思うと述べ、犯人の服装について、詳しいことは判らないが風呂敷の黒つぽいようなもので覆面しているのをはつきり見たと述べていたこと、福山は同日米田を午後一一時頃までかかつて取調べたが、その時同人は紺の背広の上下を着てネクタイをつけていなかつたこと、事件現場で服の色の見分けがつくか否かが問題になり、事件の翌朝現場で確かめた結果、人が立つているか否かさえ見分けにくい状況であることが判り、鑑識の村上が佳子に、泥棒が紺色の服を着ていたことは間違いないかと尋ねると、佳子は「本当に紺色の服を着ていたのをはつきり見たけん、しようがない。」と言つていたことが認められる。また久龍昌敏の木村検事に対する五三年一一月二七日付供述調書によれば、事件当日捜査員の一人であつた同人が被告人に犯人の心当りを尋ねたところ、被告人は「犯人は紺の背広を着ていて、背恰好からしても米田に間違いない。」と言つたとのことである。

以上の証拠によると、犯人が紺の背広様の服を着ていたというのは佳子の話によることであつて、被告人自身の認識ではないことになるが、被告人は武内に対してはそれを自分で見たような口ぶりで話していたわけである。

佳子は後記のように事件当日の供述調書で、「賊は紺色によく似た青い洋服を白いワイシャツのようなものの上に着て、ネクタイはつけていなかつた。ズボンの色も判らなかつた。」と述べているので、犯人が紺系統の色の洋服を着ていたと佳子から聞いたという被告人の供述と、佳子の右供述は、ほぼ一致していると言えるが、佳子が事件直後被告人に向つて自発的にこのような話をしたことが、一応事実であるとしても、被告人がそのことを主な根拠として武内らに対し、米田が犯人だという断定的な供述をしたことは、常識的には納得し難い飛躍と感じられ、被告人が本当にそう思い込んでいたのか、あるいは他の意図が隠されていたのかについて、一抹の疑惑を生ぜしめるものがある。

米田は幸いにもアリバイが認められ、危うく難を免れたとは言え、それはむしろ偶然に過ぎず、運が悪ければいかなる苦境に陥つたかも知れないのであるから、被告人が捜査を誤らせる意図を以て右のような供述をしたのだという検察官の主張は、一応理解出来なくはない。

更に久龍昌敏の前記供述調書によれば、米田のアリバイが明らかになつた事件の翌日頃、久龍が斎藤病院で被告人に対し、米田を犯人だと言つたのは間違つていたではないかと言つたところ、被告人はかたわらにいた佳子を指して、「私はそんなことを言いませんよ。この子が言うたんでしよう。」と答えたことが認められ、被告人が明白な事実をも否認することがあり得るとの印象を抱かしめる。

しかし、これらのことは、被告人の供述の一般的な信頼性を評価するに当り考慮すべきではあるが、仮に被告人が真犯人であつて自己の罪責を他に転嫁しようと企てたとすれば、米田という特定の人物を名指しにするのは、むしろ拙劣な手段であつて、物取りの目的で侵入した賊の犯行であるように装う方が有利であつたろうと考えられる。亀三郎が刺された状況が被告人の述べる如くであれば、被告人が事件直後の興奮状態において、当日亀三郎がラジオ代金の取立てに行こうとしていた相手の米田が犯人ではないかという疑念にとらわれるのは、格別不自然とは言えない。ただそのことを警察官から心当りを問われるのを待たずに言い立てたことが、被告人に対する疑惑を深めたのであるが、被告人にはそのように誤解を招き易い一面があつたと考えられる。被告人はその経歴によつてもうかがわれるように、当時支配的であつた淳風美俗の枠内に納まり切れる型の人柄ではなく、その性格が裏目に出て他人との摩擦を引き起す場合があつたことは、新開鶴吉が原第一審第四回公判で、三枝方の新館建築工事のため再三迷惑をこうむり、苦情を言うたびに被告人にはねつけられたと証言していることなどから、およそ推察することが出来る。格別客観的な根拠がないのに即座に米田を犯人として名指した被告人の軽卒さは非難を免れないが、このような被告人の性格の抑制に乏しい面が現れたに過ぎないと考えて差し支えないものと思われる。

六  佳子が見た外部犯人

1事件現場で亀三郎及び被告人と共に寝ていた三枝佳子は、当時満一〇歳に達する直前であつたが、事件後一貫して外から入つて来た賊が亀三郎と格闘していたと述べ、例外として村上検事に対する二九年八月一三日付供述調書において一回だけこれを撤回しているが、右供述調書の任意性には疑問があり(佳子の原第一審第六回公判及び米沢忠雄の同第一〇回公判における各証言)、証拠能力を認めることは出来ない。

しかし佳子の犯人目撃に関する証言及び供述は犯人の服装等について想像で述べているとみられる部分があり、それらの部分を除くと、夜明け前に突然起されて暗闇の中で突発事件を目撃した少女としては当然のことながら、真実の体験であることを裏付けると思われるような具体的内容は乏しいので、右証言等の信憑性について客観的評価を下すことは必ずしも容易ではない。

事件当日佳子の供述を録取した司法警察員巡査工藤寿の原第一審第六回公判における証言によれば、「松島刑事課長に佳子の取調を命じられ、斎藤病院に行つて被告人及び新聞記者二人と一緒にいた佳子を被告人の承諾を得て署に連れて行き、午前九時頃から約一時間かけて調べた。佳子は質問にハキハキと答え、その態度に疑問を抱かなかつた。」とのことであり、この時録取された佳子の供述調書の内容は、「母に大声で揺り起された時、すぐ目の前に父と母が立つており、その向いに目と頭だけ出して覆面した賊がいた。賊は紺色によく似た青色の洋服を着ていた。電灯はついていなかつたが薄明るかつたので判つた。賊の背丈は父と同じ位で、頭髪を伸ばし、洋服の下に白いワイシャツのような物を着、ネクタイは結んでいなかつた。ズボンがどんなであつたかは判らない。父は賊と向い合いながら電灯の方へ手を伸ばして電灯をつけようとしているように見えた。私はおそろしくなつて布団の上に立ちあがると、母が若いさんのところへ行きなと言うので、阿部、西野のところに走つて行つた。二人の名前を呼びながら外側の鍵を外して入つて行くと二人が起きて、私が泥棒が入つているから早く行つてと言うと、走つて行つたようだつた。私もすぐ後から行くと父が隅に倒れていて、体中血が一杯だつた。母が警察に電話をかけながら、お父ちやんと呼んで見よと言うので、呼んで見たが返事がなかつた。」というものである。また藤掛検事に対する二九年八月一八日付供述調書は、「犯人は背広を着ていた。上下共紺色でネクタイはなかつたと思う。下にはチョッキはつけず、ワイシャツを着ていたと思う。薄茶色の布で鼻の下を隠していた。髪の毛は分けていた。背丈は父と同じ位だつた。帽子はかぶつていなかつた。父も犯人も声を出さなかつた。私は体を起して、ほんのしばらくの間見ていたが、二人とも向い合つて立つており、動いている様子はなかつた。母は犯人の後に立つていた。私は母が「田中さんのところへ行つて電話してもらえ」と言うので外に出ようとした時、母が大声で「泥棒」と叫んだので、私も続いて「泥棒」と叫びながら、縁側から素足のままおりて、小屋の入口に鍵がかかつていたのを開けて中に入ると、阿部や西野はもう起きていて、誰かが南側の出入口の鍵をあけていた。私は入口を入つた所で立つていた。二人は私の側を通つて出て行つたと思う。西野らが出て行つてから一分位のちに私も座敷に行つた。父は柱に頭をもたせかけて倒れていた。寝巻を前一杯にひろげて、胸や腹のあたりに血が一杯たまつているのを見た。母はその時店の電話がある所に立つていた。西野や阿部はいなかつた。母が「お父ちやんと呼んで見なさい」と言うので、二回位呼ぶと、父はちよつと目を開けた。母が戻つて来て二人で頭を持つて枕の上に寝させ、私の敷布団を上にかけた。私はそれから新開方に電話を頼みに行つた。」とある外、前記調書と同様である。原第一審第六回公判における証言も、右検察官調書と大同小異である。

2そこで佳子の右のような証言・供述に対する被告人の影響について考えるに、武内一孝の前記原第一審証言によれば、被告人は武内に対し、「犯人は米田に違いない。覆面をし、茶の背広(この点は被告人の言葉どおりであるか否か、前記のとおり疑問がある)を着て紺のズボンをはいた背の高い男だつた。」と語り、その時そばにいた佳子に「なあ、あれは米田さんだろう。」と言うと、佳子は「うん、そうじや。」と答えていたことが認められ、武内は更に検察審査会における前記供述中でも、被告人は佳子に、泥棒は確か米田さんだろうと二回も三回も言い、佳子もそうじやと言つていた旨述べている。これによつてみると、佳子は被告人の言葉によつて犯人のイメージを植え付けられ、想像だけで話をしたのではないかと疑う余地はあり、工藤巡査が格別の疑問を持たなかつたことも、本件が外部犯人の犯行であるという先入観に支配されていたためと解することも出来る。

しかし事件発生後武内が三枝方に来るまでに、佳子が被告人のそばにいた時間は、最大限に見積つても一五分には達しないと考えられ、二人だけでいた時間は更に少ないはずであり、その間に佳子をなだめて落ちつかせながら、架空の外部犯人が実在したと信じ込ませることが出来たかどうか、疑問がないわけではない。

また被告人は入院後、午前七時三〇分頃から三時間余にわたり福山巡査部長らの取調を受けていたから(福山文夫の原第一審第一五回公判における証言)、佳子と二人だけで話をする機会はその前にしかなかつたわけであるが、被告人の藤掛検事に対する二九年八月二九日付供述調書六項によれば、「入院後すぐ手術をしてもらつた。手術が終つた後、午前九時過ぎ頃に佳子が来て、電気の線も電話の線も切られておるし、匕首も立てかけてあつたと知らせてくれた。佳子は病院に来てすぐ警察の人が呼びに来たと言つて帰つた。」とあり、これによれば佳子が来た時には福山らが被告人の病室にいたことになる。

武内一孝の前記原第一審証言及び村上検事に対する供述調書によれば、被告人の入院後、四畳半の電灯がついた時、佳子はその部屋にいたことが認められるし、新居清及び勝野伊左夫の各二九年九月三〇日付村上検事に対する供述調書や松島治男の検察審査会における供述(三四年九月二二日)によつても、午前六時頃佳子が四畳半の間にいて、その後東隣二軒目の大井証券で捜査員の取調を受けたことが明らかであり、岡田伴二の村上検事に対する二九年九月二二日付供述調書及び検察審査会における供述(三四年九月二二日)によれば、佳子は午前七時頃にも姉の満智子と共に四畳半の間にいたことが認められる。なお勝野伊佐夫(当時徳島市警次席)の右供述調書には、同人が午前六時過ぎ頃三枝方に到着した直後、四畳半の間で佳子に「誰がこんな悪いことをしたのか」と尋ねると、佳子は「目をさましたら上に白いワイシャツを着てネクタイを結んでいない男で、こんな(「紺の」の誤記か?)ズボンをはいていた男が、頭からすつぽり覆面し、ただ目や鼻、口のあたりを出した男じや」(原本のまま)と答えたが、間もなく他の捜査員に対し、男は髪を伸ばして分けていたと言つたので、頭からすつぽり覆面していたなら長髪かどうか判らぬはずではないかとあやしんだ旨の記載がある。

佳子自身は前記工藤巡査に対する供述調書中で、「お母ちやんが病院に行つてから私に話をしてくれましたが、泥棒とお母ちやんと向い合つておる時に、お母ちやんが私に裏の若いさんのところへ行けと言つて佳子が出て行つた後お母ちやんも出て行こうとしたところを突き刺されたということを話してくれました。」と述べ、藤掛検事に対する供述調書では、「お母ちやんが病院に連れて行かれてしばらく私はお父ちやんのそばにおりましたが明るくなつてから石井のおばちやんに連れられて病院に行きました。お母ちやんはもう手術を済ませていたように思います。私が病院に行つた時に誰が病院に来ていたか知りませんが、お母ちやんは泥棒が入つた時の話をしておりました。私は昼近くまで病院におりましたら警察の人が私を呼びに来て自転車に乗せてもらつて警察に行き、調べを受けました。(中略)そしてお母ちやんが話していたとおりのことを申し述べて調書を取つてもらいました。」と述べ、前記公判証言でも「明るくなつてから石井のおばちやんが迎えに来てくれたので一緒に病院へ行きました。(問)証人が病院へ行つた時沢山人が来ていたか。(答)どうであつたか忘れました。(問)お母さんは病室でよその人に泥棒の入つた話をしていたか。(答)していました。」と述べている。

以上の証拠によれば、佳子が工藤巡査に連れられて警察へ行く前に、病院で被告人から事件当時の話を聞いたことは認められるが、二人だけでこつそり話をする機会があつたとは認め難く、結局事件当日に限つて言えば、被告人が佳子に架空の犯人像を吹き込む機会は、事件直後の極めて短い時間しかなかつたと考えられる。確かに原第二審判決の言う如く「幼少年は簡単に他の暗示に陥り易い」ものであり、被告人が「犯人は米田」と繰り返すことなどによつて佳子に一定のイメージを与えた可能性は否定し切れないが、佳子自身は米田の名を出しているわけでもなく、むしろ被告人の話の影響を余り受けていないと見ることも出来るのであつて、供述の内容も衣服の色合いなどに関する点を除けば、格別不合理とは考えられず、その真実性を積極的に疑うべき理由は乏しい。

佳子はその後も浜検事に対する二八年一一月二九日付供述調書(「犯人は背広のような物を着て、ネクタイは着けず、下に白いワイシャツを見えた。頭の髪は長く伸ばし、口と鼻のあたりに黒か茶色の布で覆面をしていた。」と言う)を含め、前記公判証言に至るまで、ほぼ同様に犯人を見たと述べており、その核心には現実の体験が存在するとみる方が、その逆の見方よりも真実に即しているのではないかと思われる。なお井村幸男の原第一審第六回公判における証言によると、徳島民報社会部記者をしていた同人が、事件当日の朝、斎藤病院へ取材に行き、佳子に会いたいと思い被告人の病室付近で待つていると、午前一〇時頃警察官と一緒に帰つて来た佳子が病院に入つたので、戸に耳を当てて中の様子をうかがつているうち、被告人が佳子に向つて「この事はお母さんと佳子ちやんが知つていることだから、誰にも言わない事にしよう。」と二、三度繰り返して言う声がはつきり聞こえたとのことである。しかし右証言は必ずしも信用出来るものではない。同人は右証言中で、その後この事件について社内で座談会をした時、私が今述べたことを話し、それが新聞記事になつたと述べており、このことから同人が検察官の取調を受ける結果になつたことがうかがわれる。ところが西野の丸尾検事に対する三四年四月七日付供述調書の四項には、「次は新聞記者の連中でありますが、この連中は私が徳島へ着いたその日から私を追いかけ廻し、全く迷惑をしたのであります。今覚えている名前は徳新の井村、小村、川上であり(中略)井村記者は私の手記を欲しいと云つてカメラマンを連れてやつて来た折、わしもこの事件では検察庁でしぼられた口でなあ、あれでは偽証するのが当り前じや(中略)と云つて来ました。」との記載がある(井村が徳島民報から徳島新聞に移つていたことは同人の前記証言で認められる)。井村が西野に右のように語つたとすれば、同人も証言の内容にさほど確信がなく、社内で不用意に話したことを検察官に厳しく追及されて引つ込みがつかなくなり、前記のような証言をする結果になつたのではないかとも考えられる。

仮に井村の証言が信用出来るとしても、それは佳子が工藤巡査の取調を受けた後のことであることが明らかであるから、同巡査に対する佳子の供述に直接影響を与えたということはあり得ないし、被告人の断片的な言葉が何を意味していたかも明らかではない。家庭内の事情などで外に知られたくないことは、何人にも常にあり得るはずで、それらのことにつき子どもの口を封じようとしたとしても、直ちに後暗い秘密があるとは断定出来ない(しかし村上検事は、冒頭陳述において、被告人が佳子に事実は誰にも言うなと言い聞かせたのちに佳子の供述調書が作成されたと述べているだけでなく、その誤りが証拠上明白になつたのちにも、前記「捜査経過」において同様の記述をしている)。

3次に佳子の供述中の更に検討すべき点について考える。

佳子の供述調書は、前記の任意性に疑いがある村上検事に対するものを含めて四通存在する。ここで注目されるのは、そのいずれにも西野、阿部の小屋に行つた時、小屋の入口の戸に外から鍵がかかつていたという趣旨の供述がみられることである。村上検事は特にこの点に留意したと思われ、同検事に対する供述調書には、「小屋の入口の戸はガラス戸が一枚あるだけですが、この戸は閉まつていました。そしてこの戸の外側の端の方に丸い環が付けてありましたが、この環をすぐ傍の柱にある釘のようなものにかけてあつて、中から開かぬようにしてありました。そこで私はこの環を外して中の土間へ入りましたが、この環を外す時、ガラス越しに中をのぞいて見たら、二人とも起きているようで、一人が別の横手のガラス戸のねじをまわしているように見えました。」という詳細な記載がある。

村上検事作成名義の二九年九月一日付検証調書には、この点について「(小屋の)出入口には西側南寄りに幅約三尺の北に向けて引き開ける半間一枚のガラス戸が取り付けてあり、その外側南側親桟中地上約二、三尺位のところに釘に外側からかけて南京錠を取り付ける際使用するような環状の金具を打ち込んであり、そのすぐ南側の柱に止め金用の釘が打ち込んであつて、実験するに右釘にかけることが出来た。小屋南側東寄りには一間二枚のガラス戸が嵌まつていて、ここから容易に外部と出入りが可能である。」と記載され、金具を釘にかけた状態を撮影した写真が添付されている。実況見分調書にも「店員の寝室(離れ座敷)入口には外側より壼金でかけるようにしてあり」との記載があることから、これが事件当時からあつたことが認められ、阿部の村上検事に対する同年七月六日付供述調書にもこれに言及した部分がある。

ところで佳子が言うように、小屋の戸が中から開かぬようにしてあつたということは、西野、阿部が現にその中にいる状態では、たとえ南側窓からの出入りは妨げられないにせよ、普通では考えられないことである。西野、阿部がこのようなことをするはずはなく、外部犯人が四畳半の間に侵入する前に、予め邪魔が入るのを封じる目的で、金具を釘にかけておいたと考えるのが最も合理的である(被告人が同じことをするためには、西野や阿部が夜中に便所に行くこともあり得るから、犯行直前に、立て付けの悪いガラス戸を亀三郎に気取られぬよう、こつそり開けて出入りする必要がある)。

佳子は公判証言では右の事実を述べていないけれども、捜査段階では一貫して述べているのであり、外部犯人の存在を強調するための作り話と考えるのは困難である。

しかしながら佳子の証言によると、佳子は小屋の入口の戸を開けて、泥棒じやとも何とも言わず入つて行き、その時中の二人のうち一人は南側の窓の鍵を外しているところで一人は坐つていたが、すぐ小屋を出て行き、佳子はしばらく一人で小屋の中に立つていて、その後四畳半の間に戻つたというのであり、藤掛検事に対しても同様に述べている。工藤巡査に対しては、「二人の名前を呼びながら入つて行くと二人が起きて、私が泥棒が入つているから早く行つてと言うと走つて行つた。」と述べ、浜検事に対しては「中に入ると二人は目をさましていたようで、どう言つたか覚えていないが私が小屋に入ると同時位に二人が出て行つた。」と述べ、若干の違いはあるが、佳子とほぼ入れ違いに西野、阿部が出て行つたという点では変りがない。ところが西野、阿部はほぼ一貫して、この頃佳子の姿を見ていないし、声も聞いていないというのである。

西野の場合は二九年八月一〇日付の藤掛検事に対する供述調書と同日に行われた裁判官の証人尋問の際の証言のみが例外で、被告人が新館裏に立つているのを見かけてから一旦小屋に帰つたのち、被告人の「若衆さん起きて」または「泥棒」と叫ぶ声に続いて佳子が「西野さん」と呼ぶ声が二回聞こえたというのであるが、その余の証言及び供述では、原第一審検証期日の際の証言で、「子どもの泣き声も聞かず、佳子が小屋に入つて来たということも全然気づかなかつた。」と述べているのをはじめ、原第二審第三回公判では裁判長の問に対し、「佳子が小屋に入つて来たことは全然記憶にない。子どもの姿を見たこともない。」と答え、捜査段階でも浜検事に対する二八年一一月二六日付及び村上検事に対する二九年七月六日付各供述調書で、それぞれ「佳子が私たちを起しに小屋に入つて来たことはない。」「佳子が西野さん、西野さんと言つて起しに来たという記憶はない。」と述べている。

もつとも石川幸男は司法警察員に対する二九年七月三〇日付及び村上検事に対する同月三一日付各供述調書において、西野が遊びに来た際、事件当時のことをたずねると、「火事じやというような叫び声がしたので窓から出て見たが火事らしい様子がないので小屋に戻つて少したつとまた叫び声が聞こえ、何かいなあと思つているうちに佳子が呼びに来て、行つて見ると大将が殺されていた。」と話した旨述べ、同年八月二日には裁判官の尋問を受けて同様な証言をしている。

阿部の場合はかなり曲折があり、事件当日の司法警察員に対する供述調書では、今朝五時過ぎと思う頃、佳子が大声で、西野さんと二、三回呼んだので、二人とも目がさめ、続いて奥さんが大声で、若い衆さん来てくれと叫んだと述べているが、これに続く浜検事及び近藤邦夫巡査部長に対する各供述調書では、それぞれ「佳子が小屋に入つて来て起されたのではなく、佳子の姿は小屋の付近では見なかつた。」「佳子の救いを求める声などは全然聞いていない。」という。しかし二九年七月六日付の村上検事に対する供述調書では、「奥さんから、こう言え、これを隠せと言われたことはないが、私が最初佳子が大声で西野さんと呼んだと述べたのに、二〇日余り後の二度目の供述で取消したのは嘘で、最初述べた方が正しい。第一回の供述後に新聞記者から、佳子が小屋の入口に来て西野さんと呼んだのではないかと聞かれ、かねがね奥さんが主人を殺したのではないかと思つていたので、もし奥さんに迷惑がかかつてはいけないと思つて隠したり取消したりした。」という意味不明のことを述べ、同検事に対する同月二二日付一一枚綴りの供述調書では、「足踏みしているようなドシンドシンという奥深い音が二分間位聞こえ、その音がやむと間もなく奥さんと佳子がほとんど同時に何か判らぬが二言三言いがつた。そのうち佳子の声は詰まつたようなおびえたような声で、この時は何と言つたのか判らなかつたが、後から泥棒々々と言つたのではないかと思うようになつた。奥さんが若衆さん来てといがる前に、佳子が西野さん、西野さんと呼んでいた。」と述べている。原第一審では三転して、検証期日の証言で、「子どもの泣き声は聞こえず、佳子が小屋に入つて来たということも全然気づかなかつた。」と述べ、第七回公判で裁判長の「佳子が小屋へ入つて来なかつたか。」という問に対し、「入つて来ませんでした。」と答え、更に偽証告白後の三四年四月一三日付丸尾検事に対する供述調書では、「佳子が朝小屋に来て西野の名を呼んだようなことは全然なかつた。」、同月一五日付南館検事に対する供述調書では、「あの四畳半であれだけの惨劇が行われたのに、佳子を見かけたのは私と西野が店の間へ行つた時で、それまでは姿も見ず、声も聞かなかつた。普通なら大声で泣きわめくところと思う。」、同月一六日付丸尾検事に対する供述調書では、「警察の最初の調書で佳子が大声で西野さんと呼んだと言つたのはなぜか判らない。」とそれぞれ述べ、第二次再審請求審における証言でも、「佳子が西野を呼ぶ声は全く聞いていない。」と述べている。

右のような証言及び供述からすれば、結局西野、阿部両名は、佳子の声を聞いたり佳子が小屋に入つて来るのを見たりしたという記憶を最初から欠いており、佳子の声を聞いたと述べている場合は、記憶よりもむしろ想像で言つているに過ぎないと解するしかない。

このことは確かに佳子の証言及び供述の信憑性を認めるについて困難を来たす事情に違いないが、佳子が西野、阿部の注意を引くほどの声を立てずに小屋の戸を開け、二人が佳子が来たことに気づかぬまま小屋から出て行き、その後間もなく佳子が四畳半の間の方へ戻つて行つたと解する余地は残されている。西野、阿部の二人も目がさめ切つた状態ではなく、かなりあわててもいたと考えることが出来、暗がりのことでもあるから、このようなすれ違いが生じても、それほど不思議ではない。西野、阿部両名の供述中には、火事じやというような声で二人とも目をさまし、まず西野が南側の窓を開けて外を見まわしてから、二人で出入口の戸を開けて外に出たという状況が再三再四現れるのであり、佳子の証言及び藤掛検事に対する供述はこれと符合する(前記のとおり村上検事に対する供述も同様である)。

以上のとおり、佳子の証言及び供述は、西野、阿部の証言及び供述と両立させることに困難はあるが、その信憑性を肯定するのが相当であり、佳子の供述中の小屋の戸の外側の金具が釘にかけてあつたという事実を外部犯人の所為と解することが出来る。

4最後に佳子の現在の立場について一応考えてみる。

被告人のただ一人の生みの子である佳子が被告人の死後の再審請求に関与せず、被告人の在世中の五四年七月一九日に第五次再審請求審の証人として出廷した時にも、弁護人の事前準備の要請に応じなかつたことについては、右にも左にも解釈することが可能であり、本再審公判における証人須木久江の尋問に際し、検察官は佳子の態度を不審とする口吻をもらしている。

思うに佳子の人生に本件殺人事件が負わせた苦悩の重さは想像を絶する。父の非業の死と母の下獄がもたらした心の傷は、佳子自身が事件の真相を知る唯一の証人という立場に置かれることによつて一層深刻となつたであろう。検察官の取調や公判廷における尋問が一〇歳の少女にとつて極めて苛酷な体験であつたことは明らかである。村上検事の取調に対し一旦供述を翻したために、叔母の郡貞子に「お前はんがしやんとせんけんじや。」と叱られたことも認められ(法務事務官作成の三枝佳子の調査書、阿部幸市の原第一審第六回公判における証言及び同人の藤掛検事に対する二九年九月一〇日付三枚綴りの供述調書)、その胸中は察するに余りあり、母の無実を訴え「激しく泣きながら供述した。」と記録されている証言が空しく斥けられたことは、癒し難い挫折感をもたらしたに違いない。

更に成人後の佳子にとつても、本件が常に重荷となつたであろうことを考えると、その証言中の「わたしは裁判というものを信じていません。」という言葉は、決して理解し難いものではなく、佳子が積極的に母の雪冤を求めようとしない態度は、外部犯人を目撃したという証言内容の信憑性と矛盾するものではないということが出来る。

七  問題点についての検討

1検察官は本再審公判における論告中で、本件が外部犯人の犯行であるとすれば、その動機が考えられないと述べている。その表現はいささか適切を欠く嫌いはあるが、被告人の供述による限り、外部犯人が金品の強取または窃取を意図して侵入したものとは考えられず、その他いかなる犯意にもとづくにせよ、わざわざ「奥さん、おいでるで」て声をかけて侵入することは理解し難く、その意味で検察官がいうような疑問があることは否み難いところである。しかし、その反面では、被告人が架空の供述をしているものなら、金品を要求されたように述べるのは容易であるのに、何のために現実にありそうにない話を作る必要があるのかという反論も考えられる。ヒロポン中毒者の如き者の犯行とすれば右の疑問に対しては一応の説明はつくが、そのような異常者が予め電灯線や電話線まで切断して計画的に侵入するものであろうかという疑問も拭い難い。かつ犯人が何者であれ、屋根の上で電灯線・電話線を探し当て、これを切断するには、多少なりとも時間がかかり、その際照明器具の使用を要することも明らかであつて、路上から発見される危険にさらされるのに、何の必要があつてそのような手間をかけたのか、少なからず理解に苦しむところである。

外部犯行説には右のような疑問があることは確かであるが、一方、内部犯行説に従つて、電灯線、電話線の切断を外部犯行を装うための工作と解してみても、危険のみ多く、利益が極めて乏しいことが明らかな小説的思いつきという外なく、検察官が主張する被告人の犯行動機も甚だ了解困難なものであること、いずれも既に詳論したとおりである。

2次に必ずしも不自然とまでは言えないが、いぶかしく思われることは、加害者が何者であれ、亀三郎が格闘中声をあげていないと認められることである。このことは四畳半の間からわずか数メートルの範囲内で寝ていた西野、阿部が、共に氷炭相容れない変転を示す供述中で、亀三郎の声を聞いたとだけは一回も述べたことがなく、被告人も亀三郎は無言であつたとし(原第一審第二回公判における供述など)、佳子も前記公判証言や藤掛検事に対する供述調書で同様に述べていることによつて明らかである。

その理由は極めて単純に、突然の危難に驚きの余り声を立てる余裕もなかつたためと解することに、格別著しい背理はないと考えられるけれども、原第二審判決はこの点について、「加害者が外部犯人であれば、その攻撃が熾烈であつたとしても救助を求めて叫んだはずで、相手が被告人があつたから自らこれを取り押えようとしたため声を出さなかつたと推定する余地が大きい」旨説示している。

右のような見方は、すぐ目と鼻の先に西野、阿部の二人が寝ていることを考えれば、誰しも一応は念頭に浮べざるを得ないところであるが、かかる危急の際、ことに最初から深手を負わされたような場合に、声が出せる限り助けを求めて叫ぶのが当然であるとまでは断定しかねる。ただ格闘の時間が長くかかればかかるほど、声を出すであろうことの蓋然性は増すはずであるから、その長短が問題となるが、被告人の供述によれば、格闘は極めて短時間で終つたもののように理解される。亀三郎の傷は前記のとおりであるが、犯人は素手の亀三郎に対し凶刃をふるつて一方的に攻撃を加えているのであるから、ほとんど抵抗の余裕を与えず、続けざまに傷を負わせたと解してよく、傷の数が多いからと言つて短時間の犯行と解することには妨げはない。

そこで他の証拠との関係についても考えてみるに、まず辻一夫は、三枝方の前を通りかかつて女の叫び声を耳にし、工事場から飛び出して来たような人影を認めたのは、午前五時一〇分から一五分頃のことであつたと述べている。もつとも公判証言では午前五時一〇分頃、南出来島町の自宅を出、同一五分頃、三枝方の前を通りかかつたとする。また田中佐吉からの事件の第一報が徳島市警を経由して両国橋派出所に伝えられたのは、五時二〇分頃である。これらの証拠に鑑みると、犯人が侵入して凶行に及んだ時刻を、五時一〇分をわずかに過ぎた頃とすれば、被告人の供述とも符合し、亀三郎が救いを求める余裕がなかつたと考え易くなる。

ところで前記のとおり、亀三郎が腹部に受けた(7)創は、膵臓動脈を切断し、腹腔内に約一、〇〇〇ミリリットルの出血を生じていたところ、松倉豊治の第五次再審請求審における証言によれば、右創傷によりこれだけの血液が腹腔内に溜まるまでには二〇分ないし三〇分を要し、従つて亀三郎がこの傷を受けてから心臓が停止して出血が止まるまでに、それだけの時間が経過したと解される。

従つて犯行時刻を一応右のように推定すれば、亀三郎が死亡したのが五時三五分頃以降であれば右松倉証言とも矛盾しない。亀三郎の死亡を確認したのは斎藤病院の蔵田医師であるが、実況見分調書の記載によると、事件当日三枝登志子が真楽巡査部長らに対し、私が座敷に上がつた時父は虫の息であつたが、二、三分もしないうちに斎藤病院の先生が来てくれて、もうあかんと言つた旨述べたことが認められる。登志子自身も原第一審第八回公判で、私が店に行つてから二、三分か五分位で医者が来たが、その間がとても長く思われたと証言し、また検察審査会における前記供述において、私が店に着いたのは五時四〇分頃と思うが、それから暫くして医者が来たと述べている。前記のように登志子が到着したのは、早くとも五時四十分頃と認められ、蔵田医師の到着は、その数分後と考えられるから、前記の犯行推定時刻後約三〇分が経過している。武内巡査が前記原第一審証言で、私が三枝方に着いてから一〇分位で医者が来たと述べていることも、右認定とほぼ符合する。従つて蔵田医師が到着した時、亀三郎が既に死亡していたことは、犯行時刻を五時一〇分少し過ぎとすることと矛盾しないことになる。

3次に三枝方付近の居住者の証言等についてみるに、南隣りに住む田中佐吉(畳材料商)の司法警察員に対する二八年一一月一四日付供述調書によると、「事件当日の朝起きて店の柱時計を見ると五時五分過ぎであり、もう一度床に入つてから間もなく裏の東寄りの方から二、三人の騒々しい声が聞こえ、横に寝ていた妻が「火事と違うんで。見てみな。」と言うので、裏口の戸を開けて北側の裏庭の方を眺めると、その時は声が止んで変つた様子はなかつたが、しばらくじつと眺めているうちに突然男の声で「田中さん、警察へ電話して下さい。泥棒が入つたから。」と頼まれ、早速電話をかけた。」とのことであり、同人の原第一審第四回公判における証言は、「私方は三枝方の真裏で五、六間離れている。事件当日の午前五時過ぎと思う頃、異様な物音というか、キャーッという叫び声がしたので、すぐ起きて裏の北向きの窓を開けて三枝方の方をのぞき、しばらくそのままで見ていると男の声で警察に電話してくれと頼まれた。」というのであつて、特に疑問を生じる点はない。もつとも同人の村上検事に対する二九年七月三一日付供述調書は、いささか異り、「朝目がさめて柱時計を見ると午前四時四五分か五〇分位だつた。この時計はいつも三分から七分位進めてある。もう一度寝ようとして、少しうとうとしている時、三枝方から男女の区別はつかぬが人間最後の時の声というか断末魔の叫びというか、ギャーッというような声が一人ではなく二人位の声のように、一、二回入り乱れて聞こえた。この際子どもの声も聞こえたと思う。私は石油コンロでも倒して火が燃えあがつたのではないかと思つて裏の窓を開けて見まわしたが火事らしい様子はなく誰一人歩いたり走つたりする物音もないので、また元のところへ戻つた時、男の声で「田中さん、泥棒じやけん、警察へ電話してくれ」と叫ぶのが聞こえた。」との記載がある。

東隣りの時計商新開鶴吉は原第一審第四回公判で、「午前五時頃女の悲鳴で目がさめた。その声はヤアーヤアーヤアーと三、四回聞こえた。確か隣りの奥さんの声で、何か争つているような声だつた。雨戸を開けて見て何事もなかつたので便所へ行つてから床に戻つて、妻と朝早くから喧嘩でもしているのかいなと話をした。二度目に寝てから五分位すると、またギャーギャーという女の声がした。そこで起きて三枝方の方を一、二分のぞいて見たが何も聞こえず、そのうち佳子が私方の表戸を叩き、泥棒だから警察に電話してくれと言うのが聞こえたので、すぐ電話すると警察では両国橋派出所に手配してあるが、まだ行かんかと言うので、大変だからすぐ来いと言うと、すぐ行くとの返事があつた。」との証言をしている。同人の湯川検事に対する二九年七月三日付及び藤掛検事に対する同月一五日付各供述調書並びに原第二審第二回公判における証言も、これと同様である。

鶴吉の妻新開キチは同じく原第一審第四回公判で、「朝目ざめて枕元の目ざまし時計を見ると午前五時だつた。それから一〇分か一五分たつたと思う頃、女の悲鳴がかすかに聞こえ、しばらく続いた。主人が裏の雨戸を開けてのぞいたが何事もなかつたので雨戸を閉めてまた寝た。すると最初の悲鳴から五分か一〇分位後にまた悲鳴が聞こえたので、主人と一緒に西側の雨戸のところへ行つて様子をうかがつている時、佳子が電話を頼みに来た。」と証言している。原第二審における証言は、「毎晩時計を時報に合わせてから寝るので時計は正確である。この時計で五時頃に目ざめてから最初の悲鳴を聞くまで余り長い時間ではなかつたと思うが、その後電灯会社に電話したのが五時五〇分ということから逆算して見ると、最初の悲鳴までに五分や一〇分は経過していると思う。」というものである。

キチの野中勇副検事に対する二九年七月二八日付供述調書は、これらの証言と特に異るところはないが、最後に「昨年一二月末頃、三枝方のすぐ裏手にある土蔵に住んでいる藤井さんが私に、三枝方では事件の日の朝早くからドタンバタンしていたのではないかと話してくれた。ドタンバタンというのは夫妻が喧嘩して取り組み合いをした物音のことだから、藤井の話が本当なら、その日の朝三枝夫婦は夫婦喧嘩をしていたのではないかと思う。」との推測が加わつている。キチは南館検事に対する三四年三月九日付供述調書でも、この話を繰り返している。

藤井金次は西野、阿部の小屋の南方に接し、小屋の南側の窓から手を伸ばせば壁に届く位の距離にある土蔵を住居用に改造した家(二九年一二月二二日付原第一審裁判所の検証調書及び右検証の際の西野の証言)に住んでいたもので、原第一審第四回公判における同人の証言は、「朝目がさめると三枝方の方でバタンバタンという音がしたが近所の子どもでも走つていると思つて寝ているとキャーッという女の声がした。起きて勝手口の戸を開け、外を見ると、隣の工藤さんも窓を開けてのぞいていたので、どしたんでと聞くと泥棒じやと言つた。近所で泥棒は珍しくないので、またかと思い、どこかと聞くと、三枝じやと言つた。その時田中さん、電話をかけてくれと言う男の声がした。」というだけのものである。

工藤岩吉(理髪業)方は田中佐吉方の東隣り(田中の前記司法警察員調書)にあり、同人の原第一審第七回公判における証言は、「五時二〇分頃ドタンバタンする音が聞こえて目がさめたが、夫婦喧嘩でもしているのかいなと思つて、そのまま寝ていた。その音は三枝方の方から五分間位聞こえた。そのうち泥棒という声がしたので飛び起きて裏の窓を開け、泥棒はどつちへ行つたかとたずねたが返事がなく、しばらく物音もしなかつたので窓を閉めようとした時、田中さん、泥棒じやけん、警察へ電話してくれという若い男の声が聞こえた。」というものである。同人の南館検事に対する三四年三月二四日付供述調書は、かなり詳細で、「事件当時私方は三枝方新館の真裏にあり、家と家の間に一〇間余りの空地があり、私方の北側に元町の方から入る幅一メートル位の汲み取り道があつたが、その入口には切り戸があり、夜間は錠が掛けられて入ることが出来ず、奥の方も行き止まりになつていた。事件の朝、ドタンバタンという音で目をさまし、西隣りの石井さんの若夫婦が喧嘩でもしているのかと思い、気にも止めずにいた。その騒ぎは四、五分も続いたかと思うが、それが止んで一〇分位もしたと思う頃、泥棒々々という女の声がしたので、飛び起きて西側の窓を開けて見ると、石井の方でも窓を開けて、私に「どうしたん」と聞くので、「泥棒らしいわ」と返事をした。田中も裏を開けて立つて見ていた。以上のように私がドタンバタンという音を聞いたのと「泥棒」という声を耳にしたのとの間には一〇分位も隔たりがあり、ドタンバタンの音も一度や二度ではなく、四、五分続いたことは間違いない。当時一〇間余り離れた私の家でさえ聞こえた騒ぎを店員が知らなんだとは妙だと思つていた。西野、阿部の偽証告白については、私も近所の人も、二人とも金でももらつて引つくり返つたんじやろうと言つている。「泥棒々々」という声も本当に差し迫つて助けを求めるという感じではなく、山で人を呼ぶように間を置いて叫んでいるだけで、精一杯叫んでいる声ではなかつた。」という内容である。

石井雅次の原第一審第四回公判における証言は、「私方と三枝方とは両方の裏がひつついており、一間位の汲み取り道を隔てているだけだが、家と家とは七、八間離れている。事件の日の朝私は五時ごろ目がさめたが、まだ早いのでうつらうつらしていると、家内が何か騒々しいと言うので、東側の窓を開けて首を出すと、工藤の家でも顔が出ているので何かと聞くと泥棒だろうという返事であつた。そのうち少し静かになつたので、戸を閉めてまた床に入り、うとうとしたように思うが、家内が何か石井さんというような声がするというので、また窓からのぞいて見ると、その時泥棒だから警察へ電話してくれという声がした。家内が一度三枝方へ行つてあげたらと言うので、二人で行つて見た。それが五時半頃だつたと思う。」という内容である。同人の野中副検事に対する二九年七月三〇日付供述調書もほぼ同様であるが、これには「五時頃目をさましたというのは柱時計が五時を打つてしばらくしてからの出来事であつたから間違いない。私が三枝方に行つたのは五時二〇分から三〇分頃のことと思う。」との記載がある。更に原第二審においては、「寝床の中でウツウツしている時に柱時計が五時を打つのを聞いた。それから家内が騒々しいと言い出すまで大して間はなかつたと思う。柱時計は割合正確だが、いつも五分だけ進めてあるので、五時というのは本当は五時五分前である。」との証言をしている。

雅次の妻石井アキヱは原第一審第四回公判で、「五時二〇分頃えらい騒がしい声がするので、起きて東側の窓からのぞくと工藤も顔を出していたので、主人が何事かとたずねると、「三枝方がやかましい。泥棒が入つたらしい。」と答えたが、間もなく静かになつたので、また床に入つた。それから三分位したと思う頃、女の声で悲鳴が聞こえ、主人は三枝の主人と心安いので行つてあげることにしたが、主人は中風なので私もついて行つた。」と述べている。しかし右証言中の時刻の点は、原第二審の証言では、単に感じで言つたとのことであり、また検察事務官に対する二九年七月三〇日付供述調書では、午前五時前と思う頃、女の叫び声で目がさめ、主人が外をのぞいて工藤に声をかけたと述べ、まちまちになつている。

付近住民の証言及び供述は、およそ以上のとおりである。これらはいずれも騒ぎが始まつた時刻については当然のことながらあいまいで、五時過ぎの出来事であることがほぼ確実に言える程度であり、そのこと自体は前記の犯行時刻の推定に影響を及ぼすものではない。ただ隣人たちが既に異変に気づいていたと思われる頃に、西野、阿部が主人夫婦の部屋に駈けつけないばかりか、犯人の逃走にも気づかずにいたというのは、確かに不審に思われるが、少年は成人にくらべて眠りからさめにくいのが通例であり、犯行が短時間で終つたとすれば、犯人が逃げ去つた頃になつてようやく起き出すということも、現実にはあり得るとしてよい。因みに阿部の原第一審第一二回公判及び西野の原第二審第九回公判における各証言によれば、西野、阿部は毎朝午前七時半頃亀三郎に起されていたことが認められる。

しかし工藤岩吉がいうように、ドタンバタンという騒ぎが五分も続き、しかもそれから一〇分も過ぎてから泥棒々々という叫びが起つたとするのは、事件の発端を著しくさかのぼらせるものであり、外部犯行説とは両立し得ず、むしろ西野、阿部の三枝夫婦の争いを現認したという証言に符合するが、工藤以外には誰もこのような事実を自ら知覚したと述べてはいないし、犯行が短時間の出来事であつたと認めることを妨げるほどの事実を具体的に述べてもいない。工藤がドタンバタンの騒ぎというのも寝床の中での知覚であり、さほど明瞭なものであつたとは限らず、時間の経過については全く感じだけで述べているものであるから、誇張を伴うことも考えられ、積極的に信用すべき証拠とは言えない。なお同人の前記供述調書によれば、これと同様にドタンバタンという表現をした司法警察員に対する二八年一一月七日付及び検察事務官に対する二九年七月三〇日付各供述調書が存在することが認められ、後者と同じ頃の新開キチの供述調書にも、前記のとおりドタンバタンという表現が用いられたことを考え合わせると、その後同年八月一〇日以降に至つて西野、阿部の供述に現れる同じ表現は、工藤、新開の供述に由来するもののように思われる。

結局以上七名のうち工藤を除く六名の証言及び供述中には、騒ぎが始まつてから阿部が田中方に声をかけるために、やや間があつたような印象を与える点もあるが、それもおおむね主観的表現以上のものではなく、犯行が短時間で終つたと認めることの妨げにはならないということが出来、工藤の証言及び供述は重視することを要しないものと考えられる。

八  まとめ

以上のとおり外部犯行説には到底無視出来ない積極的な証拠がいくつかあり、これらの証拠価値を直接減殺しようとする試みは、いずれも成功していない。

一方外部犯行説に対する最大の障害が電灯線の点灯後切断説であること、しかしながらこれについても九号写真等の弧状線が生じた原因を合理的に解明し得ないことをはじめ、証拠上多くの疑問があり、その全体としての不合理性は、これと対立する補修後点灯説に沿う証拠に容易に指摘し得る矛盾や欠落があることと対比しても、なお掩うべからざるものがあつて、結局これを不動の事実として認めることが出来ないことは、既に詳論したとおりである。

その他外部犯行説に対して様々な疑問が考えられ、また隣人らの証言及び供述中にこれと矛盾する点もあるが、いずれも前記の積極的証拠に対比して、外部犯行説を否定し得るほどのものとは言えない。

被告人の供述、佳子の証言及び供述にも、その真実性を疑い難い点が認められる。

結局、検察官の主張する如く、外部犯行説が無根の空論であるということは到底出来ず、むしろ外部犯行説によらなければ説明困難な事実は二、三にとどまらないものである。

第一〇 補説及び結語

本件殺人事件発生以来、登志子、満智子、皎らが被告人に対し寸毫の疑いも抱くことなく、被告人が起訴され、その有罪を疑い難いように見える証拠が明らかにされた後も、一貫して被告人の無実を信じて来たことは、原第一審判決が既に認めるところである(登志子は原第一審第八回公判で、「事件の朝とか事件後逮捕される時までのことを考えると、母が犯人であるというようなことは全然信じられません。」と証言している)。

原第二審判決は、「かような状況にあるとしても、上来述べた心証をゆるがすものとはいえない。」と説示しているが、実父が継母に殺されたという立場にある登志子らが被告人の日常の挙動を最もよく知り得る状況にあり、既に相当の分別を備えている年齢に達していながら、社会の非難にさらされている被告人の無実を確信し続けたということが、被告人が本件の真犯人であるとする設定と、鋭く対立する事実であることは、何人も認めざるを得ない。

実況見分調書によつて明らかな如く凄惨目を掩わしめる凶行をもつて亀三郎を惨殺し、西野、阿部の両名に致命的な秘密を握られているだけでなく、人の弱みにつけ込んで利をむさぼることを常とする暴力団にまで死命を制せらるべき立場にある被告人が、当の亀三郎の子女に露ほどもその犯行を気取られることなく、九箇月にもわたつて和やかな家庭生活を営むことが出来たということは、いかに事実は小説より奇なりとするも、不思議とせざるを得ないところである。

亀三郎の姉久保キクノは原第二審において、「判決のあつた晩ですが、高等裁判に出したらお金がようきよ(沢山の意味)要つて困るからと言いますと、子どもたちが財産はお父ちやんやお母ちやんが拵えたものだから、なんぼ要つてもかまわん、僕たちは要らんから高等裁判に出してくれと言つたのです。」と証言している。久保キクノは片カナでようやく宣誓書に署名出来る老農婦に過ぎないが、弟を殺したと言われる被告人に対し特に肩入れすべき事情があるとは思われないのに、「夫婦仲もよく、亀三郎も茂子も私に優しくしてくれました。」、「子どもたちはお母ちやんお母ちやんとよく慕つておりました。」とも証言し、法務事務官作成の調査書でも、「茂子が弟を殺害したなどとは、とても考えられません。入院中に、お父ちやんが殺されるより私が殺されていた方がどれだけよかつたかも知れないなどと愁歎していたこともあります。」と述べている。なお訴訟費用については、渡辺倍夫が検察審査会における供述(三四年八月二一日)で、現在まで裁判費用として九一万六、〇〇〇円かかつたと述べている。

登志子は検察審査会における前記供述で、「母は絶対に無実であります。」と再び訴え、「母は去年の五月に私たちには一言も相談せずに勝手に上告を取り下げてしまつたのです。母は裁判に対する不信と経済的な理由からだと言つているようですが、私たち姉弟は、たとえ三枝家の財産がなくなつてしまつても、母の無実を明らかにするために使う金なら、決して惜しいと思つておらず、母が上告を取下げたことを大変残念に思つています。」と述べている。

第二次再審請求に際し、皎が裁判長に宛てた三五年二月一五日付の手紙は、同人の心情を率直に現わしていると認められるので、その一部を次に掲げる。

「私の立場は第三者から見れば被告の肉親とは云えないものでありますように、私がこのようなお願いを致します根拠も単なる母と子と云う関係の情実からではございません。また一家の中から罪人を作りたくないと云うような打算からでもございません。(中略)決して一、二審が不正だと申すのではございません。私も一応成人し未熟ながらも国のしくみと云うものが判る年令に達しておりますから、法治国の一員としてあの判決を信じたいと思います。また信ずべきかも知れません。しかしそれでも尚信じ切れない何かがございます。そこには何らかの手違いから見出し得なかつた誤りがあるのではないでしようか。この誤りと申しましても、それとはつきり指摘はできません。また私とてもあの時現場にいた訳ではないのですから全面的に母を無実とは断定できません。また母が義母である限り母としての愛情は感じましても、この事件に関する限り、母の無実を信じ切ると云うことは一見無責任の観を免れません。しかし現場におりました妹は異母妹とは申せ血の通つた妹でございます。私はその妹を信じております。(中略)疑わしきは罰せず、これこそ真の裁判の在り方ではないでしようか。今一度真実の究明に御尽力お願い致します。」

同月一九日付で冨士茂子親族一同として裁判長宛に提出された上申書には、被告人の無実を強く訴える文面があり、登志子、満智子、皎、紀之、佳子の五人に加えて、亀三郎の兄三枝高義、姉久保キクノらが、本件再審請求人四名と共に連署しているが、これによつてもその名義人らの意思は一応知り得るものの、皎の自筆と思われる右の手紙は、文案作成者が明らかでない右上申書とは異り、被告人を有罪とする確定判決に対し、皎が強い不信感を抱くと共に、単に上申書に連署するにとどまらず、自らこれを積極的に表明する熱意を持つていたことを明示している。

かように被告人の不審な言動を最も鋭敏確実に察知し得る立場にあつた登志子ら姉弟が、直観的判断によつて被告人の無実を信じている事実は、それ自体具体的事実を証明するものではないとは言え、他の証拠の評価に際して、無視し難い重みを持つというべきである。

被告人が上告を取下げた事情については、あえて多くを論じる必要はない。控訴棄却の判決が言渡された時、被告人は既に三年四箇月にわたつて勾留されていたのであり(もつとも控訴審における未決勾留日数は、検察官控訴があつたため法定算入されたが)、裁判の結果に絶望すると共に訴訟費用の負担が佳子を含む姉弟の将来を脅かすことを憂慮したであろうことは当然である。むしろその後仮出獄が困難となる不利益にもかかわらず、在監中無罪の主張を変えなかつたこと、積極的支援者があり、社会的注目を集めていたとは言え、服役後も再審請求を繰り返し、死に至るまで雪冤を悲願としていたことに留意すべきである(身分帳によれば、被告人の刑期終了日は四三年九月一六日で、仮釈放されたのは四一年一一月三〇日である)。

本件につき検討すべき主要な論点は、ほぼ以上のとおりである。

上記の結果を通じてみると、本件が内部犯行であるとすると検察官の主張は、もともと外部犯人の存在が決定的に否定されるという前提にもとづいて構築されたものであり、具体的には電灯線の切断が犯行後に行われたことが不動の事実として証明されることを前提として、はじめて是認されるものというべきところ、右の前提は結局合理的な疑問を免れず、その外には西野の寝巻の胸部に付いた血痕、懐中電灯の出所などの点で、検察官の主張に一応の合理性が認められるものの、西野、阿部の現場目撃証言は多分に疑わしく、匕首の入手経路に関する立証は極めて薄弱で、現場に匕首が残されていた事実はむしろ被告人の犯行を否定するものの如く解され、被告人の寝巻の袖口に血痕が認められない事実も被告人の犯行を認定する上で重大な障害となる上に、被告人の犯行動機に関する検察官の主張は経験則上極めて是認し難いものであり、その反面、外部犯人の存在に結び付く積極的証跡が認められるのであるから、本件は被告事件につき犯罪の証明がなく、むしろ冤罪の疑いが濃いものと言わなければならない。

よつて刑事訴訟法三三六条に則り、被告人に対し無罪の言渡をなすべく、主文のとおり判決する。

(山田眞也 安原清蔵 山田貞夫)

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